第96ページ 母の声が、少し違って聞こえた
「欲しい」と言っても、終わらなかった夜。
凛は少しだけ、“甘える自分”を許し始めた。
けれど、その変化はすぐに過去の痛みを連れてくる。
今回は、凛が母・美咲との電話を通して、ずっと苦しかった「ちゃんとした娘でいなきゃ」という思い込みを見つめ直していくページです。
真白の店を出たのは、深夜に近い時間だった。
冬の空気は鋭く冷たく、頬に触れる風が少し痛い。
けれど凛の胸の奥には、まだココアの温かさが残っていた。
――欲しいと言っても、終わらなかった。
その事実を、凛は何度も胸の中で確かめていた。
もっと一緒にいたい。
帰りたくない。
寂しい。
安心したい。
そんな言葉を少しだけこぼしても、真白はそこにいてくれた。
怒らなかった。
困った顔もしなかった。
重いと突き放すこともなかった。
それは凛にとって、信じられないほど大きな出来事だった。
今まで凛は、“欲しがること”をずっと悪いものだと思っていた。
何かを欲しがれば、誰かを困らせる。
寂しいと言えば、面倒な人間になる。
そばにいてほしいと言えば、相手の時間を奪う。
だから、全部飲み込むしかないと思っていた。
でも。
あの夜、真白は言った。
迷惑かどうかは、俺が決めることだから、と。
凛はその言葉を思い出すたび、胸がじんわり熱くなる。
自分で勝手に“迷惑”だと決めなくていい。
自分の気持ちを出す前から、自分で罰しなくていい。
そんな考え方があるなんて、凛は知らなかった。
部屋へ帰ると、ワンルームは静まり返っていた。
明かりをつける。
白い光が、床に置きっぱなしのバッグや、机の上のノートを照らす。
凛はコートを脱ぎ、ベッドへ腰を下ろした。
不思議と、いつものような強い孤独はなかった。
一人の部屋なのに、完全に一人ではない気がした。
誰かに「帰りたくない」と言っても終わらなかった記憶が、今夜の凛を少しだけ守っていた。
スマートフォンを見る。
真白からメッセージが届いていた。
『ちゃんと帰れた?』
凛は小さく笑う。
『帰れました』
『あったかくして寝てね』
『はい』
短いやり取り。
それだけで、胸が少し落ち着いた。
凛は布団へ入った。
目を閉じる。
けれど、すぐには眠れなかった。
心の奥で、昔の記憶がゆっくり動き出している。
欲しがっても終わらなかった。
その経験をしたからこそ、逆に思い出してしまう。
今まで、欲しがれなかった時間のことを。
母に甘えたかった夜。
寂しいと言えなかった日。
そばにいてほしいと飲み込んだ瞬間。
凛は布団の中で、そっと胸へ手を当てた。
「……ずっと、我慢してたんだ」
小さく呟く。
その言葉は、夜の部屋に静かに溶けた。
次の日の朝。
凛は少し遅く目を覚ました。
カーテンの隙間から薄い光が差し込んでいる。
身体は重い。
けれど、昨日までのような切迫した苦しさは少し薄れていた。
スマートフォンを見ると、母から着信が入っていた。
凛は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
母。
朝比奈美咲。
凛にとって、母はずっと複雑な存在だった。
嫌いではない。
でも、会うと苦しくなる。
声を聞くだけで、背筋が少し強張る。
母は凛を愛していなかったわけではない。
むしろ、母なりに必死に愛していたのだと思う。
けれどその愛は、いつも“ちゃんとしていてほしい”という願いと一緒だった。
普通に。
迷惑をかけずに。
世間から外れずに。
ちゃんと生きられる子でいてほしい。
その願いが、凛の胸にはずっと重かった。
母へ折り返すか迷っていると、再び着信が鳴った。
凛は息を吸い、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『凛? 起きてた?』
「うん」
『昨日連絡したんだけど、寝てた?』
「……ちょっと外にいた」
『こんな寒いのに?』
母の声には、少し心配が混じっていた。
凛は布団の端を握った。
「うん。友達のところ」
『友達?』
母の声が少し明るくなる。
『大学の子?』
「……ううん。カフェの人」
『カフェの人?』
凛は少しだけ迷った。
真白のことをどこまで話すべきかわからない。
でも、隠す必要もない気がした。
「最近、よく行くカフェがあって。そこの人」
『そうなの』
母は少し黙ったあと、言った。
『ちゃんとした人なの?』
その言葉に、凛の胸が小さく痛む。
ちゃんとした人。
母はいつも、そういう基準で世界を見る。
ちゃんとしているか。
普通か。
安全か。
世間的に問題がないか。
凛を心配しているのだとわかる。
でもその言葉は、やっぱり少し苦しかった。
「……優しい人だよ」
凛は静かに答えた。
『優しいだけじゃ駄目なこともあるからね』
母の声は柔らかい。
でも、凛の胸はまた少し縮こまる。
昔なら、ここで黙っていた。
母の言葉を受け入れ、自分の感覚を疑っていた。
真白といると安心する自分が間違っているのかもしれない。
もっと普通の友達と付き合うべきなのかもしれない。
そんなふうに。
でも今朝の凛は、少し違った。
昨日の夜、真白の前で“欲しい”を言っても終わらなかった記憶が残っている。
自分の感じた安心を、すぐに否定したくなかった。
「でも、私にとっては大事な人だよ」
口にしたあと、自分で驚いた。
母も少し黙った。
『……そう』
「うん」
凛の心臓は少し速くなっていた。
母へ“自分の大事”を言うことは、凛にとってとても怖いことだった。
否定されるかもしれない。
心配されるかもしれない。
説教されるかもしれない。
でも、今は言いたかった。
真白を“ちゃんとしているかどうか”だけで測られたくなかった。
凛にとって真白は、初めて“苦しいままでもいていい”と思わせてくれた人だった。
『凛』
母が静か。
電話の向こうで、母はしばらく黙っていた。
凛は自分の鼓動を聞いていた。
怖かった。
今までなら、ここまで言う前に引っ込めていた。
母を困らせたくなくて。
嫌われたくなくて。
“面倒な娘”だと思われたくなくて。
でも今は、不思議と最後まで言いたかった。
真白の前で、“欲しい”を飲み込まなかった夜が、凛の中へ少しだけ勇気を残していた。
『……ごめんね』
母の小さな声が聞こえた。
凛は息を止める。
『お母さん、多分ずっと怖かったの』
「怖かった?」
『うん』
母はゆっくり言葉を選ぶように続けた。
『凛が人と違うことで傷つくのが』
『だから、“普通にしてれば大丈夫”って思いたかった』
その声には、疲れたような弱さが混じっていた。
凛は胸の奥がじわりと痛む。
母もまた、必死だったのかもしれない。
一人で娘を育てながら。
世間から外れないように。
ちゃんと生きられるように。
自分の知っている“安全”を、凛へ押し付けることでしか守れなかったのかもしれない。
『でも、苦しかったよね』
母が静かに言う。
その一言で、凛の目から涙が溢れた。
苦しかった。
本当に。
“普通になれない自分”を責め続けるのは、ずっと苦しかった。
でも今まで、その苦しさを母へちゃんと伝えたことはなかった。
どうせわかってもらえないと思っていたから。
だから今、“苦しかったよね”と言われただけで、胸の奥が崩れそうになる。
「……うん」
凛は小さく返した。
声が震える。
「苦しかった」
『そっか……』
母の声も少し掠れていた。
電話の向こうで、母も泣いているのかもしれない。
そう思った瞬間、凛の胸に複雑な感情が広がった。
許したわけではない。
傷が消えたわけでもない。
“普通にしなさい”と言われ続けた時間は、今も凛の中へ深く残っている。
でも。
母もまた、不器用だったのかもしれない。
どう愛せばいいかわからなかっただけなのかもしれない。
『凛』
「なに?」
『最近、その……カフェの人といる時、少し楽そう』
凛は目を瞬かせた。
「え?」
『声が前より柔らかいから』
その言葉に、凛の胸が少し熱くなる。
自分では気づかなかった。
でも、変わっているのかもしれない。
真白と出会ってから。
灯や七海と本音を話すようになってから。
凛は少しずつ、“ちゃんとしなきゃ”だけじゃない時間を知り始めている。
『……大事にしなさい』
母が静かに言った。
『そういう、“安心できる場所”』
凛は何も言えなかった。
母からそんな言葉を聞く日が来るなんて、思っていなかったから。
『お母さんは多分、安心のさせ方、下手だったから』
母は小さく笑った。
その笑い声は少し寂しそうだった。
凛は胸の奥がぎゅっとなる。
母を憎みきれない理由が、そこにあった。
母もまた、誰かに安心して甘える方法を知らないまま大人になった人なのかもしれない。
だから凛にも、“強くなりなさい”“普通になりなさい”しか渡せなかった。
電話を切ったあと、凛はしばらく動けなかった。
部屋は静かだった。
でも胸の中では、いろんな感情が混ざり合っている。
悲しい。
苦しい。
少し救われた。
でも、やっぱり寂しい。
凛はスマートフォンを胸へ抱え、ゆっくり目を閉じた。
昔の自分が浮かぶ。
学校から帰って、一人で部屋へ閉じこもっていた小学生の凛。
友達の輪へ入れず、笑ったふりをしていた中学生の凛。
“普通にならなきゃ”と息を切らしていた高校生の凛。
その全部が、今の凛の中にいる。
「……頑張ってたんだ」
ぽつりと呟く。
今までの凛なら、“弱かった”と言っていた。
でも今は少し違う。
苦しかった中でも、必死に生きようとしていた。
嫌われないように。
置いていかれないように。
ちゃんと愛されるように。
そう願いながら、生き延びてきた。
凛は涙を拭い、ゆっくり起き上がった。
窓の外では、夕方の空が少しずつ暗くなり始めている。
その時、スマートフォンが震えた。
真白だった。
『今日寒いから、ちゃんとあったかいもの食べなね』
凛はそのメッセージを見た瞬間、小さく笑ってしまう。
たったそれだけの言葉。
でも今の凛には、泣きそうなくらい優しかった。
『うん』
返信を打つ。
少し迷ってから、続けて送った。
『今日、お母さんとちゃんと話せた』
既読。
『そっか』
『どうだった?』
凛はしばらく考えた。
どうだったんだろう。
全部解決したわけじゃない。
傷が消えたわけでもない。
でも。
『少しだけ、“苦しかった”って言えた』
送信。
数秒後、真白から返事が来る。
『それ、すごく大きいと思う』
凛はスマートフォンを見つめながら、小さく息を吐いた。
大きい。
本当にそうかもしれない。
凛は今まで、“苦しかった”を誰にもちゃんと言えなかった。
でも最近、少しずつ言えるようになっている。
真白へ。
灯へ。
七海へ。
そして今日、母へ。
それはきっと。
“ちゃんとしなきゃ愛されない”だけで生きてきた凛が、初めて“苦しいままでもここにいていい”を覚え始めているということだった。
窓の外では、冬の夜が静かに降りてくる。
凛はその暗さを見つめながら、胸の奥で小さく思った。
まだ怖い。
まだ不安だ。
でも。
“欲しい”を全部殺さなくても、生きていけるのかもしれない。
そう思えた夜だった。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
今回は、凛が初めて母へ「苦しかった」と伝えるページでした。
“普通になりなさい”という言葉は、凛を長い間傷つけてきました。けれど同時に、その言葉の裏には、母自身の「普通から外れたら傷ついてしまう」という恐れも隠れていました。
誰かを傷つけた人にも、不器用な理由がある。
でも、理由があることと、傷が消えることは違う。
凛は今、その両方を少しずつ理解し始めています。
そして何より今回大きかったのは、凛が“欲しい”を全部否定しなくなってきたことでした。
安心したい。
そばにいてほしい。
寂しい。
苦しい。
そういう感情を持つこと自体は、弱さではないのかもしれない。
真白、灯、七海、そして母との会話を通して、凛は少しずつ“苦しいままでも人と繋がっていい”を学び始めています。
次のページでは、凛がさらに“誰かへ頼ること”への怖さと向き合いながら、「一人で頑張らない」という選択を少しずつ覚えていきます。




