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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第95ページ  欲しいと言っても、終わらなかった夜

「欲しい」と言うことが、ずっと怖かった。

甘えたい、そばにいてほしい、離れないでほしい。

そんな言葉を口にした瞬間、誰かを困らせてしまうと思っていた。

これは、凛が初めて“欲しがる自分”を少しだけ許し始める夜の物語。

真白の「うん」という声は、とても小さかった。


 けれど凛には、その一言が胸の奥の深い場所まで届いた。


 もっと一緒にいたい。


 そう言ってしまった。


 言った瞬間、凛は後悔すると思っていた。


 重いと思われる。

 困らせる。

 距離を置かれる。


 そんな未来が、頭の中で勝手に広がると思っていた。


 でも真白は、困った顔をしなかった。


 笑って誤魔化すこともしなかった。


 ただ、そこにいた。


 凛の言葉を受け取って、それでもそこにいてくれた。


 それだけのことなのに、凛の目には涙が滲んだ。


「……ごめんなさい」


 また、いつもの癖で謝ってしまう。


 真白は少しだけ眉を下げた。


「だから、謝らなくていいって」


「でも……」


「うん」


 真白は凛の言葉を遮らず、ゆっくり頷いた。


「謝りたくなるくらい、怖かったんだよね」


 その言い方に、凛は胸を押さえたくなった。


 怒られるよりも、否定されるよりも、そうやって言い当てられる方が、時々泣きたくなる。


 自分でもうまく言葉にできなかった感情を、真白はいつも静かに拾い上げる。


 凛はマグカップを握ったまま、小さく頷いた。


「怖かったです」


「うん」


「言ったら、終わる気がした」


「終わらなかったね」


 真白のその言葉に、凛は息を止めた。


 終わらなかった。


 本当にそうだった。


 もっと一緒にいたいと言っても。

 欲しいと言っても。

 甘えたい気持ちを少し見せても。


 何も終わらなかった。


 真白はそこにいて、店の中には変わらず静かな音楽が流れていて、ココアはまだ温かかった。


 凛はその事実が、信じられないくらい不思議だった。


「……終わらないんですね」


 ぽつりと呟く。


 真白は小さく笑った。


「少なくとも、今は終わってない」


「今は?」


「永遠とか絶対とかは、俺あんまり簡単に言えないから」


 その言葉に、凛は少しだけ胸が痛んだ。


 でも、嫌な痛みではなかった。


 真白は嘘をつかない。


 “ずっと一緒にいるよ”なんて、簡単には言わない。


 でもその代わり、“今ここにいる”をちゃんと差し出してくれる。


 それは凛にとって、何より現実的で、何より優しかった。


「でも」


 真白は続けた。


「凛ちゃんが怖がりながら言ってくれた言葉を、雑に扱うつもりはないよ」


 その瞬間、凛の涙が一粒落ちた。


 雑に扱わない。


 その言葉が、胸へ静かに沈んでいく。


 今まで凛は、自分の感情を雑に扱ってきた。


 寂しいと思っても、そんなの甘えだと切り捨てた。


 苦しいと思っても、みんな頑張ってるのだから自分も頑張れと押し込めた。


 誰かにそばにいてほしいと思っても、迷惑だから言ってはいけないと飲み込んだ。


 自分で自分の気持ちを、何度もなかったことにしてきた。


 でも真白は、その感情を雑にしなかった。


 凛が震えながら差し出したものを、壊れ物みたいに、静かに受け取ってくれた。


「……私、自分の気持ちが怖いです」


 凛は言った。


「うん」


「欲しいって思うと、どんどん欲しくなりそうで」


「うん」


「一緒にいたいって思ったら、離れるのがもっと怖くなる」


「そうだね」


「だから、最初から欲しがらない方が楽だった」


 凛の声は少し震えていた。


「欲しいって思わなければ、失わなくて済むから」


 真白は少し黙った。


 カウンターの向こうで、彼はマグカップを一つ手に取り、布巾でゆっくり拭いた。


 その動作は穏やかで、急がない。


 凛の言葉に返事をする時間さえも、ちゃんと大切にしているようだった。


「俺も昔、そう思ってた」


 真白が言った。


「え?」


「何も欲しがらなければ、失わないって」


 真白は少し苦笑した。


「でも、欲しがらないようにしても、寂しさって消えないんだよね」


 凛は黙った。


 その言葉が痛いほどわかった。


 欲しがらないようにした。


 期待しないようにした。


 誰にも頼らないようにした。


 でも寂しさは消えなかった。


 ただ、見えない場所へ押し込められていただけだった。


 そしてある日、何かの拍子に溢れてくる。


 夜中に。

 誰かの優しさに触れた時に。

 幸せそうな人を見た時に。


 凛がずっと避けてきた感情は、なくなったわけではなかった。


 ずっと、奥の方で凛を待っていた。


「……消えないんですね」


「うん」


 真白は頷いた。


「欲しい気持ちって、悪者にすると余計苦しくなる気がする」


「悪者……」


「だって本当は、ただ安心したいだけだったりするから」


 安心したい。


 その言葉に、凛の胸が静かに揺れた。


 最近何度も出てくる言葉だった。


 安心。


 凛がずっと欲しかったもの。


 でも、手に入れ方がわからなかったもの。


「凛ちゃんはさ」


 真白は言った。


「“欲しがる自分”を責める前に、まず“何が欲しかったのか”見てもいいと思う」


 凛は目を伏せた。


「何が欲しかったのか……」


「うん」


 真白はカウンターの内側から、凛の前へ小さなクッキーを置いた。


「例えば今なら?」


 凛は少し戸惑って、クッキーを見つめた。


 丸い、素朴なクッキー。


 真白は何でもないような顔をしている。


 その何でもなさが、逆に凛を安心させた。


「……今?」


「うん」


「今、欲しいもの?」


「そう」


 凛は考えた。


 欲しいもの。


 たくさんある気がした。


 でも口にするのは怖い。


 真白に嫌われたくない。


 重いと思われたくない。


 それでも、今夜は少しだけ言葉にしてみたかった。


 凛はクッキーを指先で軽く触れながら、小さく言った。


「……安心したい」


「うん」


「ここにいてもいいって思いたい」


「うん」


「急に嫌われないって、信じたい」


 言いながら、涙がまた滲む。


「でも、信じるのが怖い」


 真白は頷いた。


「信じるのって、怖いよね」


「はい」


「裏切られる可能性もあるし」


 その言葉に、凛の胸がまた少し痛んだ。


 でも真白は続けた。


「でも、信じなかったら傷つかないかっていうと、そうでもないんだよね」


 凛は顔を上げた。


「信じないまま生きるのも、ずっと寂しいから」


 その言葉が、店の静けさの中へ落ちた。


 凛は何も言えなかった。


 信じないまま生きる寂しさ。


 凛はそれを知っている。


 誰にも期待せず、誰にも深く踏み込まず、傷つかないように自分を守ってきた。


 でも、その生き方は安全ではなかった。


 孤独だった。


 安心もなかった。


 ただ、壊れないように縮こまっていただけだった。


「……私、ずっと寂しかったのかな」


 凛は呟いた。


 口にした瞬間、自分で少し驚いた。


 寂しい。


 その言葉は、凛が長い間避けてきた言葉だった。


 苦しいよりも、怖いよりも、ずっと言いにくい言葉。


 寂しいと言えば、誰かを求めていることがバレる。


 一人では足りないと認めることになる。


 それが怖かった。


 でも今夜、凛は初めてその言葉を口にした。


 真白は静かに頷いた。


「多分、寂しかったんだと思う」


 凛の目から涙が落ちた。


 真白は続けた。


「でも、その寂しさって、凛ちゃんが弱いからじゃないよ」


「……」


「ずっと一人で我慢してきた人なら、寂しくなるのは自然だと思う」


 自然。


 また、その言葉だった。


 凛は最近、真白から何度も“自然”と言われている。


 安心したいのは自然。


 甘えたいのは自然。


 寂しいのも自然。


 今まで凛が“駄目なもの”だと思っていた感情を、真白は一つずつ、人間の普通の反応として戻してくれる。


 それはとても不思議で、とても怖くて、そして少し救いだった。


 凛は涙を拭いながら、クッキーを小さく割った。


 口へ運ぶと、甘くて少しだけしょっぱい味がした。


「……おいしい」


「よかった」


 真白は少し笑った。


 店の時計を見ると、もうかなり遅い時間だった。


 でも真白は、帰れとも、そろそろ閉めるとも言わなかった。


 凛はそれに気づいて、また胸が少し痛くなる。


「……遅くまで、すみません」


「いいよ」


「でも、迷惑じゃ」


「凛ちゃん」


 真白の声が少しだけ真剣になる。


 凛は顔を上げた。


「迷惑かどうかは、俺が決めることだから」


 その言葉に、凛は息を止めた。


「凛ちゃんが全部先回りして、“迷惑だよね”って決めなくていいよ」


 凛の胸の奥で、何かが小さく崩れた。


 迷惑かどうかを、自分が決めなくていい。


 それは凛にとって、初めて聞く考え方のようだった。


 凛はいつも、先に決めていた。


 これは迷惑だ。


 これは重い。


 これは言ってはいけない。


 そうやって相手の反応を想像して、自分の感情を閉じ込めてきた。


 でも本当は、相手に聞いてみてもよかったのかもしれない。


 言ってみてもよかったのかもしれない。


 すぐに全部拒絶されるとは限らないのかもしれない。


「……私、勝手に決めてた」


 凛は呟いた。


「うん」


「迷惑だって」


「うん」


「欲しがったら嫌われるって」


「うん」


「だから、言わない方がいいって」


 真白は静かに聞いていた。


 凛は続ける。


「でも、本当は……言いたかった」


 声が震える。


「寂しいって」


「そばにいてほしいって」


「今日、帰りたくないって」


 言った瞬間、凛は両手で口を押さえそうになった。


 また言ってしまった。


 帰りたくない。


 そんなこと、言ってはいけない気がした。


 でも真白は、やっぱり困った顔をしなかった。


 ただ少しだけ目を細めて、静かに言った。


「そっか」


 その“そっか”に、凛はまた泣きそうになる。


「帰りたくないくらい、今日は一人になるの怖いんだね」


 凛は小さく頷いた。


「……はい」


「じゃあ、もう少しいたらいいよ」


 その言葉に、凛は目を見開く。


「いいんですか」


「うん」


「でも」


「今日はもう少しいてもいい」


 真白はそう言って、自分用のコーヒーを淹れ始めた。


 凛はその背中を見ながら、涙を堪えた。


 欲しいと言っても、終わらなかった。


 帰りたくないと言っても、責められなかった。


 もっと一緒にいたいと口にしても、真白はそこにいてくれた。


 凛にとって、それは小さな革命みたいだった。


 今まで凛の世界では、欲しがることは危険だった。


 甘えることは恥だった。


 寂しいと認めることは、負けることみたいだった。


 でも今夜。


 その世界が少しだけ違って見えた。


 欲しがってもいい時がある。


 甘えても、すぐ壊れない関係がある。


 寂しいと言っても、誰かが静かに隣へいてくれる夜がある。


 凛はマグカップを両手で包み直した。


 ココアはもう少し冷めていた。


 でも、まだ温かかった。


 窓の外では、冬の夜が深く沈んでいる。


 凛はその暗さを見つめながら、小さく思った。


 “欲しい”を我慢し続けてきた自分は、ずっと一人で泣いていたのかもしれない。


 でも今夜、その自分へ少しだけ言ってあげたかった。


 欲しかったんだね。

 寂しかったんだね。

 安心したかったんだね。


 それは悪いことじゃなかったのかもしれない、と。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

今回は、凛が初めて“欲しがる自分”を否定せず、少しだけ受け入れ始める夜を描きました。

「迷惑になるから」と飲み込んできた言葉が、誰かに受け止められた時、人は少しずつ“安心してもいい”を覚えていくのかもしれません。

次のページでは、凛がこの夜の出来事をきっかけに、母との関係にも新しい視点を持ち始めていきます。

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