第94ページ 欲しがったら、嫌われる気がしていた
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
次の日の夜。
凛は大学帰りに、一人で駅前を歩いていた。
冬の風が冷たい。
人混みの中をすり抜けながら、凛はぼんやり昨日のことを思い返していた。
――本当は、ずっと甘えたかった。
その言葉を認めてしまった瞬間から、凛の中で何かが変わり始めていた。
今まで凛は、“欲しがらないこと”で自分を守ってきた。
寂しくても平気なふりをする。
苦しくても一人で抱える。
誰かへ期待しない。
そうしていれば、失った時に傷つかなくて済むと思っていた。
でも今は違う。
真白へ会いたいと思う。
安心したいと思う。
声を聞きたいと思う。
その感情が、日に日に大きくなっていた。
そして。
大きくなるほど怖くなる。
凛は小さく息を吐く。
「……重いよね、こんなの」
ぽつりと呟く。
誰かを必要とすること。
誰かへ“いてほしい”と思うこと。
凛にはまだ、それが悪いことみたいに感じられていた。
スマートフォンが震える。
真白だった。
『今日寒いね』
短いメッセージ。
それだけなのに、凛の胸が少しだけ温かくなる。
『寒いです』
返信。
『凛ちゃん今日バイト?』
『今日はないです』
既読。
『じゃあ少し店来る?』
その言葉を見た瞬間、凛の胸がまたざわつく。
行きたい。
でも。
最近、自分ばかり会いたがっている気がする。
迷惑じゃないだろうか。
重くないだろうか。
そんな不安がすぐ浮かぶ。
でも今夜は、一人で帰るのが少し苦しかった。
『……行きたいです』
送信。
駅前から少し離れた道を歩く。
冬の夜。
コンビニの灯り。
静かな住宅街。
凛は歩きながら、自分の胸の中を整理しようとしていた。
どうしてこんなに不安になるんだろう。
真白は優しい。
嫌な顔もしていない。
ちゃんと凛を受け止めてくれている。
なのに。
凛の中にはずっと、“いつか嫌われる”がある。
カフェへ着く。
『cafe 月灯り』の灯りが、夜の中で静かに浮かんでいた。
扉を開ける。
ベルの音。
「いらっしゃい」
真白が笑う。
その声を聞いた瞬間、凛は少しだけ安心してしまう。
その“安心してしまう自分”が、また少し怖かった。
店内には他に客はいなかった。
閉店間際らしい静かな空気。
凛はいつもの席へ座る。
「今日、顔疲れてる」
真白がココアを作りながら言った。
「……少し」
「何かあった?」
凛は少し迷う。
でも最近、真白へ隠すことに疲れ始めていた。
「なんか……」
言葉を探す。
「最近、自分がどんどん欲張りになってる気がする」
真白は静かに聞いている。
「会いたいとか」
「安心したいとか」
「もっと一緒にいたいとか」
そこまで言った瞬間、凛は視線を落とした。
「そういうの、どんどん大きくなってて」
「自分で怖くなる」
店の中へ静かな音楽が流れている。
真白は少し考えるように目を伏せ、それから穏やかに言った。
「欲張りっていうより、“我慢してたものが出てきてる”感じじゃない?」
その言葉に、凛の胸が小さく揺れる。
我慢してたもの。
本当にそうだった。
今まで凛は、“欲しい”を全部押し込めてきた。
寂しい。
そばにいてほしい。
安心したい。
そういう感情を、“迷惑になるから”で消そうとしてきた。
「でも私、こういうの駄目な気がして」
凛は小さく言う。
「欲しがったら、嫌われそうで」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
真白は少しだけ苦笑する。
「凛ちゃんって、“欲しがる=迷惑”がかなり深いよね」
凛は静かに頷く。
昔からそうだった。
欲しいと言えば困らせる。
甘えれば重くなる。
だから我慢するしかなかった。
「でもさ」
真白はカウンターへ寄りかかりながら言う。
「本当に全部我慢してる人って、ある日急に消えたりするんだよね」
その言葉に、凛は少し目を瞬かせる。
「え?」
真白は少し遠くを見るような顔をした。
「昔、すごい仲良かった人いたんだ」
静かな声。
凛は黙って聞く。
「その人、全然頼ってくれなかった」
「いつも“大丈夫”って笑ってた」
真白は小さく息を吐く。
「でも本当は限界だったみたいで、ある日突然全部切っていなくなった」
凛の胸が少し痛む。
真白は続ける。
「その時思ったんだよね」
「“迷惑かけないように”って、一人で壊れて消えられる方が、残される側は苦しいって」
その言葉が、静かに凛の胸へ落ちる。
残される側。
凛は今まで、“迷惑をかける側”のことしか考えていなかった。
でも。
一人で抱え込んで突然消えてしまうことも、誰かを傷つけるのかもしれない。
「だから俺、最近の凛ちゃん見てて」
真白は少し笑う。
「“会いたい”とか、“怖い”とか、ちゃんと言ってくれるの嬉しいよ」
凛は目を見開く。
嬉しい。
その言葉が、信じられなかった。
「……重くない?」
思わず聞いてしまう。
真白は少し笑った。
「重い時もあるかもしれないけど、人間関係ってそういうもんじゃない?」
その答えは、とても自然だった。
凛は何も言えなくなる。
今まで凛は、“迷惑をかけない関係”だけが正しいと思っていた。
でも真白は違った。
苦しいも。
不安も。
全部少しずつ見せ合うことが、“関係”なのだと言っているみたいだった。
「凛ちゃんさ」
真白が静かに言う。
「多分、“欲しがると嫌われる”じゃなくて、“欲しがっても離れない人”をまだ信じきれてないんだと思う」
その言葉を聞いた瞬間、凛の胸が強く揺れた。
信じきれていない。
本当にそうだった。
優しくされても。
安心しても。
どこかでずっと、“いつか終わる”を考えている。
だから欲しがるのが怖い。
失った時、自分が壊れそうだから。
凛はマグカップを握りしめる。
温かい。
でも胸の奥は、泣きそうなくらい熱かった。
「……私、本当は」
凛は小さく呟く。
「もっと一緒にいたいって、思ってる」
言った瞬間、心臓が大きく鳴る。
怖い。
でも真白は、困った顔をしなかった。
ただ静かに、「うん」と頷いた。
その小さな反応だけで、凛の目に涙が滲む。
欲しがっても。
すぐ嫌われるわけじゃない。
その感覚を、凛は今、少しずつ覚え始めていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




