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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第100ページ  私の言葉が、誰かの夜に届いた

凛は初めて「書きたい」と言えた。

それはまだ夢と呼ぶには小さく、仕事と呼ぶには怖すぎる願いだった。

けれど、凛にとって“言葉”は、苦しい自分を責めるためではなく、守るためのものになり始めていた。


今回は、凛がもう一度SNSへ文章を投稿し、“誰かに届くこと”の喜びと怖さに向き合うページです。



 深夜一時を過ぎても、凛は机の前に座っていた。


 部屋の明かりは、デスクライトだけだった。


 小さな光がノートの上に落ちている。


 窓の外では、冬の夜が静かに広がっていた。


 車の音も、人の声もほとんど聞こえない。


 世界中が眠っているような時間。


 けれど凛の中だけは、まだ眠れなかった。


 目の前のノートには、さっきから書き続けていた言葉が並んでいる。


『私はずっと、普通になりたかった。

でも本当は、普通になりたかったんじゃなくて、安心して生きたかったのかもしれない。』


 凛はその一文を何度も読み返した。


 胸が痛かった。


 でも、その痛みは以前のように自分を責める痛みではなかった。


 どちらかというと、長い間見ないふりをしてきた自分へ、ようやく触れた時の痛みに近かった。


 小学生の頃の凛。


 中学生の頃の凛。


 高校生の頃の凛。


 大学へ来てからの凛。


 みんな、ずっと普通になろうとしていた。


 母に心配をかけないように。

 友達に嫌われないように。

 先生に変だと思われないように。

 社会から置いていかれないように。


 でも、そのたびに凛は少しずつ息ができなくなっていった。


 普通になれば楽になれると思っていた。


 普通になれば愛されると思っていた。


 普通になれば、誰にも迷惑をかけずに済むと思っていた。


 けれど本当は、普通という形へ自分を押し込めるほど、凛は自分の輪郭を失っていた。


 凛はペンを置き、スマートフォンを手に取った。


 SNSの投稿画面を開く。


 真っ白な入力欄。


 そこへ、ノートに書いた文章を少しだけ打ち込んでみる。


『私はずっと、普通になりたかった。

でも本当は、普通になりたかったんじゃなくて、安心して生きたかったのかもしれない。

ちゃんとできない自分を責めるより先に、苦しかった自分へ「よくここまで生きてきたね」と言ってあげたかった。』


 そこまで打ったところで、指が止まった。


 怖い。


 また怖くなる。


 前に投稿した時も、たくさんの「わかる」が届いた。


 嬉しかった。


 救われた。


 でも同時に、怖かった。


 自分の言葉が誰かへ届くこと。


 誰かが自分の言葉に期待すること。


 それは温かいけれど、少しだけ重さもあった。


 凛はスマートフォンを置き、深呼吸した。


「……投稿していいのかな」


 小さく呟く。


 誰に許可を求めているのか、自分でもわからない。


 でも凛は昔から、何かを外へ出すたびに怖かった。


 自分の本音。


 自分の好きなもの。


 自分の苦しさ。


 それらを見せた瞬間、誰かに否定される気がしていた。


 暗いね。

 重いね。

 考えすぎだよ。

 もっと明るくした方がいいよ。


 そんな言葉を想像するだけで、胸が縮こまる。


 でも、凛は同時に思い出していた。


 灯が言ってくれた。


 凛ちゃんの文章、ちゃんと苦しいから安心する、と。


 真白が言ってくれた。


 傷があるから、同じように痛い人へ届く、と。


 七海が言ってくれた。


 凛ちゃんが“しんどい”って言うと、私も言っていい気がする、と。


 凛はスマートフォンをもう一度手に取った。


 投稿画面を見つめる。


 心臓がうるさい。


 怖い。


 でも。


 書きたい。


 届けたい。


 誰かを救いたいなんて、大きなことは言えない。


 でも、もし今夜どこかで、昔の凛みたいに「自分だけ普通になれない」と泣いている人がいるなら。


 その人に、自分だけじゃないよ、と言える言葉を置いてみたかった。


 凛は震える指で、投稿ボタンを押した。


 投稿完了。


 その表示が出た瞬間、凛はスマートフォンを伏せた。


 胸がどきどきしていた。


 やっぱり消したい。


 早すぎたかもしれない。


 変だったかもしれない。


 そう思いながらも、凛はすぐには画面を開かなかった。


 代わりに、ノートへもう一度ペンを走らせた。


『怖いけれど、投稿した。

怖いままでも、言葉を外へ出してみた。』


 たったそれだけを書いた。


 それだけなのに、凛の胸には小さな達成感があった。


 怖くなくなったわけではない。


 堂々とできるようになったわけでもない。


 でも、怖いままでも動けた。


 そのことが、今の凛には大きかった。


 しばらくして、スマートフォンが震えた。


 一件。


 また一件。


 通知が増えていく。


 凛は恐る恐る画面を開いた。


『泣きました』


『普通になれない自分を責めていたので、刺さりました』


『安心して生きたかった、って言葉で涙が止まりません』


『私もずっと、普通になりたいんじゃなくて、愛されたかったのかもしれない』


 凛は画面を見つめたまま、動けなくなった。


 知らない誰かの言葉。


 顔も知らない。


 名前も知らない。


 でも、その人たちの夜が、ほんの少し凛の言葉へ触れていた。


 凛の胸がじわりと熱くなる。


 自分がずっと隠してきた痛み。


 恥ずかしいと思っていた弱さ。


 普通になれなかった苦しさ。


 それを言葉へしたら、誰かが「私も」と返してくれた。


 それは不思議だった。


 凛はずっと、自分の苦しさは孤独の証だと思っていた。


 自分だけおかしいから苦しいのだと思っていた。


 でも違った。


 苦しさは、誰かと繋がる糸にもなるのかもしれない。


 細くて、今にも切れそうで、頼りない糸。


 でもそれでも、暗い夜に一人でいる人同士を、ほんの少し結ぶことがある。


 スマートフォンがまた震えた。


 灯からだった。


『見た』


 短いメッセージ。


 すぐに続きが来る。


『今回の、かなりやばい』


『安心して生きたかった、ってとこで死んだ』


 凛は小さく笑ってしまう。


 灯の表現はいつも少し乱暴なのに、ちゃんと優しい。


『ありがとう』


 凛は返す。


『怖かったけど投稿した』


 灯からすぐ返事が来る。


『怖いのに出したの偉すぎる』


『しかも多分、これ救われる人いる』


 凛はその言葉を見て、胸が少し苦しくなった。


 救われる人。


 その言葉は嬉しい。


 でも同時に怖い。


 誰かを救えるほど、自分は強くない。


 むしろ凛自身、まだ毎日のように揺れている。


 社会も怖い。


 働くことも怖い。


 真白に甘えたい気持ちも怖い。


 母との関係だって、まだ整理できていない。


 そんな自分の言葉が誰かを救うなんて、大げさすぎる気がする。


 凛は少し迷って、灯へ送った。


『でも、私もまだ全然救われてないよ』


『苦しい日あるし』


『普通に戻るし』


 既読。


 少し間があった。


 それから灯が返してきた。


『救われてない人の言葉だから届くんじゃない?』


 凛は息を止めた。


『完全に元気な人に「大丈夫」って言われるより、まだ苦しい人に「私も苦しい」って言われる方が安心する時ある』


 その言葉を読んだ瞬間、凛の目に涙が滲んだ。


 まだ苦しい人の言葉。


 それなら、凛にも書けるのかもしれない。


 完璧に乗り越えた人間ではない。


 答えを持っている人間でもない。


 でも、今まさに苦しみながら、それでも言葉を探している人間として。


 自分は書いてもいいのかもしれない。


 その時、真白からもメッセージが来た。


『投稿読んだよ』


 凛の心臓が少し跳ねる。


『どうでしたか』


 送信してから、敬語になっていることに気づく。


 緊張している証拠だった。


 真白から返信が来る。


『すごく凛ちゃんの文章だった』


 凛は画面を見つめる。


『普通になりたいんじゃなくて、安心して生きたかった、って言葉、かなり大事だと思う』


 その一文を読んで、凛はそっと目を閉じた。


 自分でも、大事な言葉だと思った。


 けれど、それを誰かにそう言ってもらえると、胸の奥で何かが深く頷くような感覚があった。


『私、書いてもいいのかな』


 凛は送った。


『こんな、暗いことばっかり』


 既読。


 すぐに返信が来る。


『暗いんじゃなくて、暗い場所にいる人の目が少し慣れる文章なんだと思う』


 凛は涙をこぼした。


 暗い場所にいる人の目が少し慣れる文章。


 その表現が、胸に深く残った。


 凛は光になりたいわけではない。


 誰かを眩しく照らせるほど強くもない。


 でも、暗い場所にいる人が、自分の周りに少しずつ輪郭を見つけられるような言葉なら。


 怖い夜に、自分だけじゃないと思えるような文章なら。


 書いてみたいと思った。


 凛はノートを開いた。


 新しいページに、ゆっくり書く。


『私は誰かを救えるほど強くない。

でも、同じ暗さの中で、ここにいるよと書くことはできるかもしれない。』


 その文字を見た瞬間、胸の奥が静かに震えた。


 これは、凛の願いだった。


 誰かを完璧に救うことではない。


 答えを与えることでもない。


 ただ、ここにいるよ、と言うこと。


 私も苦しいよ、と言うこと。


 それでも今日まで生きてきたよ、と言うこと。


 その言葉が、どこかの誰かの夜へ届くなら。


 凛は、もう少し書き続けてみたい。


 翌日、凛は大学へ向かった。


 眠りは浅かったけれど、胸の中には昨日の投稿の余韻が残っていた。


 電車の中でSNSを開くと、通知はまだ少しずつ増えていた。


 怖くて全部は見られない。


 でも、いくつかのコメントを読む。


『自分の気持ちに名前がついた気がしました』


『苦しいのに、少し温かかったです』


『普通になれない自分を少し許したくなりました』


 凛はスマートフォンを握りしめた。


 名前がつく。


 その言葉が、タイトルと重なる。


 生きづらさに、名前をつけるなら。


 名前をつけたからといって、苦しさが消えるわけではない。


 でも、名前がつくと、それはただの得体の知れない恐怖ではなくなる。


 扱えない怪物ではなく、少しだけ見つめられるものになる。


 凛はずっと、自分の苦しさに名前をつけられずにいた。


 だから全部、“自分が悪い”になっていた。


 でも今は少し違う。


 これは不安。

 これは寂しさ。

 これは置いていかれる怖さ。

 これは安心したかった気持ち。

 これは普通になれなかった悲しみ。


 名前をつけることで、凛は少しずつ自分を責める以外の方法を覚え始めている。


 大学へ着くと、七海が教室の前で手を振っていた。


「凛ちゃん、昨日の投稿見たよ」


 開口一番そう言われて、凛は少し身構える。


「……どうだった?」


 七海は真面目な顔で頷いた。


「かなり良かった」


「ほんと?」


「うん。なんか、私も普通になりたいんじゃなくて、安心したいだけなのかもって思った」


 その言葉に、凛の胸がじわりと熱くなる。


 七海は明るい。


 でも、ずっと安心していたわけじゃない。


 嫌われないように笑ってきた。


 陽キャに見える自分を演じて、疲れてきた。


 そんな七海にも、凛の言葉が少し届いたのだと思うと、胸が苦しくなるくらい嬉しかった。


「凛ちゃん、ああいうのもっと書いた方がいいよ」


 七海が言った。


 凛は少し目を伏せる。


「怖い」


「うん、怖いよね」


「でも、書きたい」


 その言葉を口にした瞬間、凛は少し驚いた。


 昨日より自然に言えた。


 書きたい。


 その気持ちを、以前より少しだけ隠さずにいられた。


 七海は嬉しそうに笑った。


「いいじゃん」


 その軽い肯定が、凛にはとても温かかった。


 講義中、凛はノートの端に言葉を書いていた。


 授業の内容とは関係のない、短い文章。


『書くことは、私にとって逃げじゃなかった。

逃げ場でもあったけれど、それ以上に、自分へ戻るための道だった。』


 書きながら、凛は思う。


 自分はまだ、何者でもない。


 文章で生きていけるかなんて、まったくわからない。


 でも、昨日より少しだけ未来が怖くなくなった。


 真っ黒だった未来の中に、小さな文字が浮かんでいる。


 書く。


 その一語。


 それだけで、凛は少しだけ前を向ける気がした。


 夜、凛はまたノートへ向かった。


 投稿への返信はまだ続いていたけれど、今日は全部追わないことにした。


 嬉しい。


 でも、反応に飲み込まれすぎると、また“期待に応えなきゃ”になってしまう。


 凛はそれも少しずつ学び始めている。


 誰かへ届くことは嬉しい。


 でも、誰かの期待だけで書くと、自分がまた消えてしまう。


 だから今日は、まず自分のために書く。


 凛はペンを持った。


『私は、普通になれなかった。

でも、普通になれなかったから見えた痛みがある。

その痛みを、誰かを傷つけるためではなく、誰かと繋がるための言葉にしたい。』


 書き終えたあと、凛は深く息を吐いた。


 部屋は静かだった。


 でも、以前のような空っぽの静けさではなかった。


 ノートがある。


 言葉がある。


 届く誰かがいるかもしれない。


 真白がいる。


 灯がいる。


 七海がいる。


 母との関係も、少しずつ変わり始めている。


 凛はまだ不安定だ。


 すぐ怖くなる。


 すぐ自分を責めそうになる。


 でも今は、責める前に言葉へできる時が増えている。


 それは、凛にとって確かな変化だった。


 窓の外では、冬の夜が深く沈んでいる。


 凛はノートを閉じ、スマートフォンを伏せて、静かに目を閉じた。


 今日、凛の言葉は誰かの夜に届いた。


 そしてその誰かの「わかる」は、凛の夜にも届いていた。


 届けることと、届くこと。


 その両方が、凛を少しだけ生きる方へ引き戻していた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、凛がもう一度SNSへ文章を投稿し、自分の言葉が誰かへ届く経験をするページでした。

「普通になりたかったんじゃなくて、安心して生きたかった」

その言葉は、凛自身の深い本音であり、同じように苦しんできた誰かにも届く言葉になりました。


凛はまだ完璧に救われていません。

だからこそ、同じ暗さの中にいる人へ届く文章がある。

答えを持っていなくても、「ここにいるよ」と書くことはできる。


書くことは、凛にとって逃げ場であり、自分へ戻る道でもあります。


次のページでは、凛が“反応をもらう嬉しさ”と“期待に応えなきゃという怖さ”の間で揺れながら、自分のために書くことの意味をさらに探していきます。

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