第101ページ 期待されるほど、書けなくなった
凛の言葉は、知らない誰かの夜に届いた。
「普通になりたかったんじゃなくて、安心して生きたかった」
その一文は、多くの人の胸に静かに触れた。
けれど、届くことは嬉しいだけではない。
読まれるほど、期待されるほど、凛はまた「ちゃんと書かなきゃ」と思い始める。
今回は、凛が“誰かのために書くこと”と“自分を失わずに書くこと”の間で揺れながら、自分の言葉を守る方法を探していくページです。
朝、目が覚めて最初にしたことは、スマートフォンを見ることだった。
凛はそのことに気づいた瞬間、少しだけ胸がざわついた。
昨日投稿した文章の通知が、まだ増えている。
画面の上に並ぶ数字。
コメント。
いいね。
保存。
それらは本来、嬉しいもののはずだった。
実際、嬉しかった。
自分の言葉が誰かへ届いたこと。
知らない誰かが「わかる」と言ってくれたこと。
「普通になりたかったんじゃなくて、安心して生きたかった」という言葉に、涙が出たと言ってくれたこと。
その一つ一つが、凛の胸を温めた。
でも同時に、怖かった。
通知が増えるほど、凛の中で別の声が大きくなる。
次もちゃんと書かなきゃ。
また誰かに届く文章を書かなきゃ。
期待を裏切っちゃいけない。
変なことを書いたら、がっかりされる。
もう読まれなくなる。
嫌われる。
凛は布団の中でスマートフォンを握りしめた。
まただ、と思った。
書くことまで、“ちゃんとしなきゃ”に変わり始めている。
最初は、ただ苦しくて書いていた。
自分のために。
息をするために。
頭の中で暴れる感情を、少しだけ外へ出すために。
なのに誰かへ届いた瞬間、それは急に“期待に応えるもの”へ変わりそうになる。
凛はスマートフォンを伏せた。
「……怖い」
小さく呟く。
反応がないことも怖い。
でも、反応があることも怖い。
どちらにしても、凛は不安になる。
自分の弱さに少し呆れそうになって、すぐに胸が痛んだ。
弱さではない。
そう何度も真白に言われてきた。
不安になるのは、ちゃんと大事に思っているから。
怖くなるのは、失いたくないものができたから。
でも、それでも怖いものは怖かった。
大学へ行く支度をしながらも、凛の頭の中は投稿のことでいっぱいだった。
コメントを読みたい。
でも怖い。
返信した方がいいのだろうか。
全部返せないと冷たい人だと思われるだろうか。
新しい文章を投稿した方がいいのだろうか。
昨日みたいに読まれる文章を書けなかったらどうしよう。
歯を磨きながら、凛は鏡の中の自分を見る。
少し疲れた顔。
目の下に薄い影。
昨夜遅くまで通知を見たり、ノートに書いたりしていたせいだ。
凛は水で口をゆすぎ、洗面台へ手をついた。
「……また、自分を追い詰めてる」
その言葉を口にした瞬間、少しだけ我に返った。
そうだ。
また同じ癖が出ている。
誰かに求められると、応えなきゃと思う。
優しくされると、失いたくなくなる。
褒められると、次も褒められなきゃと思う。
そのたび、凛は自分で自分を苦しくしてきた。
でも、今は少しだけ違う。
気づけた。
追い詰めている途中で、立ち止まれた。
それは昔の凛にはできなかったことだった。
電車に乗ると、いつも通り人が多かった。
凛はイヤホンをつけ、静かな曲を流す。
スマートフォンを開くか迷ったけれど、今日はSNSを見ないことにした。
見ると、また心が揺れる。
嬉しいコメントも、怖いコメントも、全部拾いすぎてしまう。
凛は代わりにメモアプリを開いた。
白い画面に、ゆっくり文字を打つ。
『誰かに届いた瞬間、書くことが怖くなった。
嬉しかったのに、次もちゃんと届かなきゃと思ってしまった。
私はまだ、好きなことさえ“ちゃんとしなきゃ”に変えてしまう。』
そこまで打って、凛は指を止めた。
胸が少し苦しい。
でも、その苦しさを見つめられている。
書けなくなった理由を、“才能がないから”ではなく、“期待が怖いから”と理解できている。
それだけでも、少し前の自分とは違う気がした。
大学へ着くと、七海が教室の前で待っていた。
「おはよ」
「おはよう」
「昨日の投稿、まだ伸びてるね」
七海がそう言った瞬間、凛の胸が少し跳ねる。
顔に出たのか、七海はすぐに「あ、ごめん」と言った。
「プレッシャーだった?」
凛は少し驚いた。
七海が、凛の反応をちゃんと見てくれている。
「……ちょっと」
凛は正直に答えた。
「嬉しいけど、怖い」
「だよね」
七海は頷いた。
「私だったら通知全部見て病む」
「もう少し病んでる」
「早い」
七海が軽く笑う。
凛も少し笑った。
その軽さに救われる。
七海はいつも、深刻な話をちゃんと受け止めながらも、重くしすぎない空気を作ってくれる。
「でもさ」
七海は隣を歩きながら言った。
「凛ちゃん、別に毎回誰かを泣かせる文章書かなくてもいいんじゃない?」
凛は顔を上げた。
「え?」
「いや、読んで泣いた人がいたからって、次も泣かせなきゃいけないわけじゃないじゃん」
七海は当たり前みたいに言う。
「今日は短くてもいいし、何も投稿しなくてもいいし、自分のために書くだけの日があってもいいと思う」
凛はその言葉を聞きながら、少しだけ目を伏せた。
自分のために書くだけの日。
その考えが、すっと胸へ入ってくる。
最近、反応をもらったことで、凛は忘れかけていた。
書くことは、最初から誰かを感動させるためのものではなかった。
自分が呼吸するためのものだった。
「……私、すぐ期待に応えようとする」
凛が小さく言う。
七海は頷いた。
「知ってる」
「知ってるんだ」
「凛ちゃん、褒められると嬉しそうなのに、すぐ怖そうな顔するから」
その言葉に、凛は少し恥ずかしくなる。
でも、否定できなかった。
褒められるのは嬉しい。
でも、褒められた瞬間、次もそうでなければいけない気がする。
その場限りの肯定を、“継続しなければならない評価”に変えてしまう。
それは凛の昔からの癖だった。
ちゃんとした子でいれば褒められる。
役に立てば必要とされる。
迷惑をかけなければ愛される。
だから凛は、褒められるほど怖くなる。
もう一度同じようにできなければ、愛されなくなる気がするから。
講義中、凛はあまり集中できなかった。
教授の声が遠く聞こえる。
ノートを取るふりをしながら、端に小さく言葉を書いた。
『評価されると、嬉しいのに怖い。
褒められると、次も同じ自分でいなきゃと思う。
でも本当は、毎日同じようには書けない。
毎日同じようには生きられない。』
書きながら、凛は少し泣きそうになった。
毎日同じようには生きられない。
それは凛がずっと苦しんできたことだった。
昨日できたことが、今日できない日がある。
昨日は人と話せたのに、今日は誰にも会いたくない日がある。
昨日は前向きに思えたのに、今日は全部無理だと思う日がある。
でも社会は、毎日同じように動くことを求める。
学校も、就活も、アルバイトも、働くことも。
“昨日できたなら今日もできるでしょう”という前提で進んでいく。
凛はその前提が苦しかった。
書くことまで、そうなってほしくなかった。
昼休み、凛は一人で中庭へ向かった。
今日は少し、人といるより静かな場所にいたかった。
冷たいベンチへ座り、空を見る。
冬の空は薄く、雲がゆっくり流れている。
凛はスマートフォンを開いた。
SNSの通知はまだ増えている。
でも、全部は見ない。
いくつかだけ読む。
『この言葉に救われました』
『私も安心して生きたかったです』
『また投稿楽しみにしています』
最後の一文で、凛の胸がきゅっと縮んだ。
また投稿楽しみにしています。
悪い言葉ではない。
むしろ優しい言葉だ。
でも凛には、それが少しだけ重く感じてしまう。
楽しみにされている。
期待されている。
そう思うと、急に書けなくなる。
凛はスマートフォンを閉じ、深呼吸した。
すると、真白からメッセージが届いた。
『今日、通知に飲まれてない?』
凛は思わず小さく笑った。
どうしてわかるのだろう。
『飲まれかけてます』
送信。
『嬉しいけど怖い』
すぐ既読がつく。
『うん。届くのって嬉しいけど、怖いよね』
凛は画面を見つめた。
『また書かなきゃって思う』
『次もちゃんと届く文章にしなきゃって』
真白から返事が来る。
『凛ちゃん、書くことまで“ちゃんとしなきゃ”にしなくていいよ』
その一文を見た瞬間、凛の胸がじわりと熱くなった。
書くことまで、ちゃんとしなくていい。
そう言われて初めて、凛は自分がどれほど力んでいたかに気づいた。
『でも、読んでくれる人がいると、応えなきゃって思っちゃう』
凛は送る。
『うん』
『でも、凛ちゃんが自分を削って書いた文章は、たぶん長く続かない』
その言葉に、凛は少し息を止めた。
続かない。
真白は続ける。
『凛ちゃんの文章が届くのは、凛ちゃんがちゃんと自分の痛みに触れてるからだと思う』
『でも、自分を傷つけながら掘り続けたら、いつか書くこと自体が苦しくなる』
凛はその文章を何度も読んだ。
書くこと自体が苦しくなる。
それは、とても怖かった。
書くことは今、凛にとって呼吸だった。
逃げ場であり、自分へ戻る道だった。
それがまた“評価に応えるための作業”になってしまったら、凛はきっと書けなくなる。
好きだったものを、自分で壊してしまう。
そんな予感がした。
『じゃあ、どうしたらいいんだろう』
凛は送った。
真白から少し間を置いて返事が来た。
『まず、自分のために書いたものの中から、誰かに渡せそうなものだけ渡す、でいいんじゃない?』
凛は画面を見つめる。
『最初から誰かのために書こうとすると、凛ちゃん多分苦しくなる』
『でも、自分のために書いた言葉が、結果的に誰かへ届くことはある』
その言葉が、胸へ静かに落ちる。
自分のために書いた言葉を、誰かへ渡す。
それなら少しだけわかる気がした。
最初から“誰かを救う文章”を書こうとすると、凛はきっと固まってしまう。
でも、自分が本当に苦しかったこと。
自分が見つけた小さな気づき。
自分が今日、何とか名前をつけた感情。
それをあとから誰かへ渡すことなら、少しできるかもしれない。
凛はノートを開いた。
中庭の風でページが少し揺れる。
凛はペンを取り、ゆっくり書いた。
『誰かのために書こうとすると、怖くなる。
でも、自分のために書いた言葉が、誰かの夜へ届くことがある。
私はまず、自分を置き去りにしないで書きたい。』
書き終えると、胸が少し落ち着いた。
自分を置き去りにしないで書く。
それは、凛にとって大事な約束になる気がした。
夕方、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。
店内はまだ少し客がいた。
凛はいつものカウンター席へ座り、紅茶を頼んだ。
真白は忙しそうに動いていたけれど、凛を見ると少しだけ笑った。
「通知、大丈夫?」
注文を置きながら、真白が小声で聞く。
「少し飲まれてました」
「だと思った」
凛は苦笑した。
しばらくして店が落ち着くと、真白がカウンターの向こうへ来た。
「何か書いた?」
「少し」
凛はノートを開き、さっき書いた言葉を見せた。
真白は静かに読んだ。
『私はまず、自分を置き去りにしないで書きたい。』
その一文を見たあと、真白はゆっくり頷いた。
「これ、すごく大事だと思う」
凛は少しだけ安心する。
「自分を置き去りにしないって、難しいです」
「うん。凛ちゃんは特に、人の反応を先に拾いやすいから」
「はい」
「でも、だからこそ必要なんだと思う」
真白は穏やかに言った。
「書くことってさ、誰かに届くと嬉しいけど、反応のためだけになると自分がいなくなる時あるから」
凛は静かに頷く。
自分がいなくなる。
それは凛がずっと経験してきたことだった。
人間関係でも。
家庭でも。
学校でも。
相手に合わせすぎて、自分の気持ちがわからなくなる。
書くことまで、そうしたくなかった。
「私、書く時まで普通になろうとしてたのかも」
凛はぽつりと言った。
「普通?」
「読まれる文章を書かなきゃとか」
「ちゃんと共感される言葉にしなきゃとか」
「また期待に応えなきゃとか」
凛は小さく笑う。
「結局、どこでも“ちゃんとしなきゃ”になる」
真白は少しだけ目を伏せた。
「それだけ、ずっとそうやって生きてきたんだよね」
その言葉に、凛の胸が少し痛む。
でも、以前ほど自分を責める痛みではなかった。
長く続けてきた癖に気づく痛みだった。
「でも気づけてる」
真白は続けた。
「今、“またちゃんとしなきゃになってる”って気づけたなら、戻れると思う」
「戻る?」
「自分のために書くところへ」
凛は紅茶の湯気を見つめた。
自分のために書くところへ戻る。
その言葉は、静かな道しるべみたいだった。
夜、家に帰った凛は、SNSを開かなかった。
通知は気になる。
でも今日は、まずノートを開いた。
デスクライトの下で、真っ白なページを見つめる。
何を書けばいいかわからない。
でも、誰かに読ませるためではなく、自分のために書くと決めた。
凛はペンを持ち、ゆっくり書き始めた。
『今日は、読まれるのが怖かった。
期待されるのが怖かった。
でも本当は、誰かに届いたことが嬉しかった。
嬉しいと怖いは、同時に存在する。
私はそのどちらかを消さなくてもいいのかもしれない。』
書いているうちに、凛の呼吸は少し深くなった。
そうだ。
嬉しいも怖いも、どちらも本当だった。
嬉しいだけにしなくていい。
怖いだけにしなくていい。
どちらも自分の中にある感情として、置いておいていい。
凛はさらに書いた。
『私は、誰かを救うために書くのではなく、まず自分を見失わないために書く。
その言葉が誰かへ届いたら嬉しい。
でも、届かなかった日も、書いた私を責めないでいたい。』
そこまで書くと、凛はペンを置いた。
胸の奥が少しだけ静かだった。
今日は投稿しない。
そう決めた。
その決断にも少し罪悪感がある。
でも、投稿しないことも、自分を守る選択なのかもしれない。
凛はスマートフォンを手に取り、真白へ送った。
『今日は投稿しないで、自分のためだけに書きました』
既読。
すぐ返事が来る。
『いいね』
『それ、すごく大事』
凛はその言葉を見て、小さく笑った。
誰かへ届ける日があってもいい。
自分だけに戻る日があってもいい。
書くことは、いつも外へ向かっていなくてもいい。
凛はノートを閉じ、ゆっくり布団へ入った。
窓の外では冬の夜が静かに深まっている。
通知はまだ増えているかもしれない。
誰かが凛の言葉を読んでいるかもしれない。
でも今夜、凛はそれを全部追いかけない。
自分の呼吸を先に守る。
それが、書き続けるために必要なことなのだと、少しだけわかり始めていた。
凛は目を閉じる。
明日もまた、怖くなるかもしれない。
期待に飲まれるかもしれない。
自分を責めるかもしれない。
それでも、戻る場所を一つ見つけた。
自分のために書く。
誰かの反応より先に、自分の痛みに耳を澄ます。
その小さな約束が、凛の夜を静かに支えていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、凛が“読まれること”の喜びと怖さに向き合うページでした。
誰かに届くことは嬉しい。
けれど、届いた瞬間に「次もちゃんと書かなきゃ」と思ってしまう。
それは、凛がずっと“期待に応えることで自分の価値を保とうとしてきた”からでした。
でも今回、凛は気づきます。
書くことまで「ちゃんとしなきゃ」にしてしまったら、自分の呼吸を失ってしまう。
だからまず、自分のために書く。
自分を置き去りにしないで書く。
投稿しない日も、誰にも見せない日も、書くことは意味を持つ。
凛はそのことを少しずつ覚え始めています。
次のページでは、凛が“自分のために書いた文章”をきっかけに、真白との関係にも新しい変化を感じ始めていきます。




