第102ページ 見せるためじゃなく、隣に置くための言葉
凛は、投稿しない夜を選んだ。
誰かの反応を追いかけるのではなく、自分のために書くことを選んだ。
それは小さな選択だったけれど、凛にとっては“自分を置き去りにしない”ための大切な一歩だった。
今回は、自分のために書いた文章をきっかけに、凛と真白の距離が少し変わっていくページです。
「読まれるため」ではなく、「生きるため」に書いた言葉が、静かに二人の心を近づけていきます。
翌朝、凛は少しだけ早く目を覚ました。
目覚ましが鳴る前だった。
カーテンの隙間から、冬の薄い光が差し込んでいる。
部屋の中はまだ冷えていて、布団から出るのが少しつらい。
けれど、胸の奥は昨日より静かだった。
昨夜、凛はSNSを開かなかった。
通知を全部追いかけなかった。
投稿もしなかった。
ただ、自分のためだけにノートへ書いた。
それだけのことなのに、朝になっても少しだけ呼吸がしやすかった。
凛は枕元に置いたノートへ手を伸ばした。
昨日のページを開く。
『私は、誰かを救うために書くのではなく、まず自分を見失わないために書く。
その言葉が誰かへ届いたら嬉しい。
でも、届かなかった日も、書いた私を責めないでいたい。』
その文章を読み返す。
上手いかどうかはわからない。
誰かに届くかどうかもわからない。
でも、今の凛にとっては大切な言葉だった。
自分がまた“ちゃんとしなきゃ”に戻りそうになった時、ここへ戻ればいい。
誰かの反応より先に、自分の呼吸を確かめる。
書くことを、自分を責める道具にしない。
凛はノートを閉じ、小さく息を吐いた。
「……今日は、大丈夫かも」
そう呟いてから、すぐに思い直す。
“大丈夫”という言葉は、凛にとって長い間、平気なふりの言葉だった。
でも今の“大丈夫”は、少し違う気がした。
全部平気という意味ではない。
怖さが消えたという意味でもない。
ただ、今朝の自分は少しだけ自分の場所に戻れている。
そんな感じだった。
大学へ向かう電車の中、凛はSNSを開かなかった。
代わりに、イヤホンから静かな音楽を流した。
人の声、電車の揺れ、車内アナウンス。
いつもなら全部が頭に入ってきて疲れる。
でも今日は、音楽が小さな壁みたいになってくれた。
凛は窓へ映る自分の顔を見た。
少し眠そう。
でも、昨日ほど張り詰めていない。
その顔を見て、ふと思う。
自分を守るって、きっと大きなことだけではない。
SNSを見ないこと。
イヤホンをつけること。
疲れたら疲れたと言うこと。
書けない日は投稿しないこと。
そういう小さな選択の積み重ねなのかもしれない。
大学では、七海がいつものように手を振ってくれた。
「おはよ」
「おはよう」
「今日、顔ちょっと落ち着いてる」
「そう?」
「うん。昨日より“通知に追われてる人”感がない」
凛は少し笑った。
「昨日、SNS見ないで寝た」
「えらすぎ」
「でも気にはなった」
「そりゃなるよ」
七海は笑いながら、隣の席へ座った。
「でも見なかったんでしょ?」
「うん」
「それ、かなり自制心」
凛は少し照れた。
今まで凛は、自分のことを自制心があるとは思っていなかった。
むしろ、不安に振り回される人間だと思っていた。
でも、昨日の夜は確かに踏みとどまれた。
誰かの反応に飲み込まれそうになった時、自分のために書く方へ戻れた。
それを七海が“えらい”と言ってくれるのが、少し嬉しかった。
講義が始まる。
教授の声を聞きながら、凛はノートを開いた。
今日は授業用のノートの端に、短く書いた。
『見せるためじゃなく、隣に置くための言葉もある。』
書いた瞬間、凛はその一文をしばらく見つめた。
隣に置くための言葉。
それは、昨日のノートのような言葉だった。
誰かに届けるために整えた文章ではなく、自分の隣にそっと置いておくための言葉。
苦しい時に読み返して、自分がどこにいるか確かめるための言葉。
そういう文章も、きっとあっていい。
昼休み。
凛は一人で中庭へ出た。
風は冷たいけれど、日差しは少しだけ柔らかい。
ベンチに座り、スマートフォンを開く。
SNSの通知は、昨日より落ち着いていた。
それを見て、少しほっとする自分がいた。
反応が減ったことに寂しさもある。
でも、安心もある。
凛はその感情に気づいて、小さく笑った。
反応が増えても怖い。
減っても寂しい。
自分は本当に面倒だと思いかけて、すぐにやめた。
面倒なのではなく、感情が動いているだけ。
真白なら、きっとそう言う気がした。
凛は真白へメッセージを送った。
『昨日書いた文章、少し見せたいです』
送信してから、胸が少し緊張する。
昨日は“自分のためだけに書いた”文章だった。
それを見せたくなった。
矛盾しているような気もした。
でも、SNSへ投稿するのとは違う。
誰かに評価されるためではない。
真白の前に、そっと置きたいと思った。
既読がつく。
『もちろん』
『今日店来る?』
『行きます』
短いやり取りだけで、午後の時間が少しだけ待ち遠しくなる。
それと同時に、また少し怖くなる。
真白に見せたい。
でも見せるのが怖い。
この二つが同時にあることにも、凛は少しずつ慣れ始めていた。
夕方、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。
店へ入ると、ベルが小さく鳴った。
店内には二組ほど客がいた。
窓際で本を読む人。
奥の席で小声で話す二人組。
カウンターの中で真白がカップを並べている。
「いらっしゃい」
真白が顔を上げる。
その声を聞くと、凛の中のざわめきが少し静かになる。
凛はいつもの席へ座った。
「今日は紅茶?」
「はい」
「了解」
真白は手際よく紅茶を淹れた。
湯気の立つカップが置かれる。
凛は両手で包み込むように持った。
温かい。
その温度だけで、少し呼吸が深くなる。
客が帰り、店内が少し静かになった頃、真白がカウンター越しに言った。
「見せたいって言ってた文章?」
凛は小さく頷いた。
バッグからノートを出す。
ページを開く。
昨日の文章。
何度も読み返したせいで、少しだけ紙が柔らかくなっている。
凛はノートを真白の前へ差し出した。
「投稿用じゃなくて」
「うん」
「自分のために書いたやつです」
真白は静かに頷き、ノートを受け取った。
凛はその間、紅茶の表面を見つめていた。
読む音なんてしない。
でも、真白が自分の言葉を読んでいる空気だけで、胸が少し緊張する。
数分後。
真白はノートを閉じず、ページを開いたまま静かに言った。
「これ、すごくいいね」
凛は顔を上げる。
「いい、ですか」
「うん」
真白は文章の一部を指差した。
「“届かなかった日も、書いた私を責めないでいたい”ってところ」
凛は少し目を伏せた。
「そこ、自分に言い聞かせるみたいに書きました」
「うん。だからいいんだと思う」
真白は穏やかに言った。
「誰かを救おうとしてる言葉じゃなくて、凛ちゃんが自分を守ろうとしてる言葉だから」
その言葉に、凛の胸がじわりと熱くなる。
自分を守ろうとしている言葉。
そう言われて初めて、凛は自分の文章を少し違う目で見た。
今まで凛の言葉は、痛みを吐き出すものだった。
苦しさを外へ出すものだった。
でも今は少し違う。
自分を責めすぎないために。
期待に飲まれすぎないために。
自分を置き去りにしないために。
言葉が、自分を守るものになり始めている。
「……私、ずっと言葉で自分を責めてました」
凛はぽつりと言った。
「どうしてできないの、とか」
「普通になれ、とか」
「もっと頑張れ、とか」
真白は静かに聞いている。
「でも最近、言葉で自分を守れることもあるんだって、少し思います」
真白は小さく頷いた。
「うん」
「それ、すごく大事だと思う」
凛は紅茶を一口飲んだ。
少し冷め始めていた。
でも優しい味がした。
しばらく沈黙が流れた。
嫌な沈黙ではなかった。
真白はノートを返しながら言った。
「凛ちゃんの文章、前より少し変わってきたね」
「え?」
「前は、自分の痛みをそのまま見せてる感じだった」
「今は?」
「痛みを見ながら、自分の手を握ろうとしてる感じ」
凛はその言葉に何も返せなかった。
自分の手を握る。
そんなふうに表現されると、胸の奥にいた小さな自分が、少しだけ顔を上げる気がした。
母へ言えなかった言葉を飲み込んでいた幼い凛。
教室で孤立していた中学生の凛。
普通になろうとして息を切らしていた高校生の凛。
それらの自分へ、今の凛が少しずつ手を伸ばしている。
責めるのではなく。
置いていくのではなく。
ここまで生きてきたね、と言うために。
「……そうなれてたらいいな」
凛は小さく言った。
真白は微笑んだ。
「なれてると思うよ」
その日の閉店後。
真白は店の片付けをしながら、凛に一冊の小さなノートを差し出した。
「これ、使う?」
凛は目を瞬かせる。
「え?」
「前に買ったけど、使ってないやつ」
深い青色の表紙。
手のひらに収まるくらいの小さなノートだった。
「いいんですか?」
「うん」
「でも」
「凛ちゃん、また“でも”って言った」
真白が少し笑う。
凛は口を閉じた。
迷惑ではないか。
もらっていいのか。
そんな言葉がすぐに浮かんだ。
でも、真白はもう差し出している。
迷惑かどうかを、凛が先に決めなくていい。
凛はゆっくり手を伸ばした。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
ノートを受け取る。
表紙は少しざらりとしていて、手に馴染む。
凛は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
「それは、誰かに見せる用じゃなくてもいいと思う」
真白が言った。
「自分に戻る用」
凛はノートを見つめる。
自分に戻る用。
その言葉が、すっと胸へ入った。
SNSへ投稿するためではなく。
誰かへ見せるためでもなく。
自分が自分を見失いそうになった時、戻るためのノート。
凛はその青いノートを胸へ抱えた。
「大事にします」
「うん」
真白は少しだけ照れたように笑った。
その顔を見た瞬間、凛の胸がまた小さく揺れた。
真白はいつも、凛に言葉をくれる。
でも今日は、言葉だけではなく、戻る場所をくれた気がした。
家へ帰る道、凛は青いノートをバッグの中で何度も確認した。
なくしていないか不安になるくらい、大事に思えた。
駅前の灯り。
冷たい風。
すれ違う人たち。
その中を歩きながら、凛は思った。
誰かに何かをもらうことも、以前は苦手だった。
申し訳なくなる。
返さなきゃと思う。
受け取る資格があるのか不安になる。
でも今日は、少しだけ受け取れた。
ありがとうと言って、受け取れた。
それもまた、凛にとって小さな変化だった。
部屋へ帰ると、凛はすぐ机の上に青いノートを置いた。
デスクライトをつける。
白い光の下で、青い表紙が静かに浮かび上がる。
凛はゆっくり最初のページを開いた。
真っ白な紙。
まだ何も書かれていない。
そこへ、凛は最初の一文を書いた。
『これは、私が私へ戻るためのノート。』
書いた瞬間、胸の奥が静かに震えた。
続けて書く。
『誰かに見せるためじゃなくてもいい。
誰かに褒められなくてもいい。
ここでは、私は私を置き去りにしない。』
ペン先が少し震えた。
でも、手は止まらなかった。
『苦しい日も、怖い日も、羨ましい日も、寂しい日も、全部ここへ置いていい。
ちゃんとした文章じゃなくていい。
意味のある言葉じゃなくていい。
ただ、私が私を見つけるために書く。』
凛はそこでペンを止めた。
深く息を吐く。
部屋は静かだった。
でも、今日はその静けさが少し怖くなかった。
机の上に青いノートがある。
真白からもらった、自分に戻るための場所。
凛はしばらくそのページを見つめていた。
不意に、スマートフォンが震える。
真白からだった。
『ノート、使えそう?』
凛は少し笑いながら返信した。
『最初のページ書きました』
『何て書いたの?』
凛は少し迷った。
見せる用ではない。
でも、真白には少しだけ伝えたかった。
『私が私へ戻るためのノート、って書きました』
既読。
少し間があり、返事が来る。
『いいね』
『それ、凛ちゃんにすごく必要な場所だと思う』
凛はスマートフォンを胸へ抱えた。
必要な場所。
本当にそうかもしれない。
これからまた、反応に飲まれる日があるかもしれない。
期待に応えようとして苦しくなる日もあるかもしれない。
真白に頼りすぎているのではないかと不安になる日も、母の言葉に戻される日も、就活で押し潰されそうになる日もあるだろう。
でも、そのたびに戻る場所がある。
自分のために書く場所。
自分を置き去りにしない場所。
凛は青いノートをそっと閉じた。
窓の外では、冬の夜が静かに広がっている。
凛は布団へ入り、目を閉じた。
今日は投稿しなかった。
でも、書いた。
誰かへ届けるためではなく、自分の隣に置くために。
それでも凛は少しだけ満たされていた。
書くことは、外へ向かうだけではない。
自分へ帰ってくる道でもある。
そのことを、凛は少しずつ覚え始めていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、凛が“誰かに見せるためではなく、自分の隣に置くための言葉”を見つけるページでした。
SNSで反応をもらうことは嬉しい。
でも、それだけを追いかけると、凛はまた自分を置き去りにしてしまう。
真白からもらった青いノートは、凛にとって「自分へ戻る場所」になりました。
誰かに褒められなくても、投稿しなくても、言葉は凛を守ってくれる。
書くことは、外へ届けるだけでなく、自分自身へ帰ってくる道でもある。
次のページでは、青いノートに書き始めた凛が、自分の中にある“真白への気持ち”とも少しずつ向き合い始めていきます。




