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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第103ページ  この気持ちに、まだ名前をつけられない



真白からもらった青いノートは、凛にとって「自分へ戻る場所」になった。

誰かに見せるためではなく、自分を置き去りにしないために書く。

その小さな約束は、凛の心を少しずつ守り始めていた。


今回は、青いノートに向き合う中で、凛が真白への気持ちを初めて自分の言葉で見つめていくページです。

それが恋なのか、依存なのか、安心なのか。

名前をつけられない感情に、凛はゆっくり触れていきます。



 青いノートの表紙を、凛は指先でそっと撫でた。


 深い青。


 夜の手前みたいな色。


 真白からもらったそのノートは、机の上に置いてあるだけで、少しだけ部屋の空気を変えている気がした。


 誰かに見せるためじゃない。


 投稿するためじゃない。


 上手く書くためでもない。


 ただ、自分へ戻るためのノート。


 昨日、最初のページにそう書いた時、凛は不思議なくらい胸が静かになった。


 言葉は、誰かへ届けるものだけではない。


 自分を守るものにもなる。


 そう思えたことは、凛にとって大きな変化だった。


 けれど今夜、凛がノートを開いて最初に浮かんだのは、真白のことだった。


 カフェの柔らかな灯り。


 ココアの湯気。


 カウンター越しに向けられる穏やかな目。


 「迷惑かどうかは俺が決めることだから」と言ってくれた声。


 「自分に戻る用」と言って青いノートを差し出してくれた手。


 その一つ一つを思い出すたび、凛の胸の奥が静かに熱くなる。


 でも、その熱が何なのか、凛にはまだわからなかった。


 恋。


 安心。


 依存。


 憧れ。


 救われた感謝。


 どの言葉も当てはまるようで、どの言葉も少し違う気がした。


 凛はペンを持ち、青いノートの二ページ目を開く。


 真っ白な紙。


 そこへ、ゆっくり書いた。


『真白さんのことを考えると、安心する。

でも、安心するほど怖くなる。』


 書いた瞬間、胸が少し痛んだ。


 凛はペンを止めずに続ける。


『会いたいと思う。

声を聞きたいと思う。

返信が来るとほっとする。

でも、そう思う自分が怖い。

これは好きなのか、甘えなのか、依存なのか、まだわからない。』


 依存。


 その言葉を書く時、凛の指先は少し震えた。


 怖い言葉だった。


 誰かを必要としすぎること。


 一人で立てなくなること。


 相手を困らせること。


 そういう印象が、凛の中にはあった。


 だから真白へ会いたいと思うたび、凛は自分を責めそうになる。


 頼りすぎているのではないか。


 重くなっているのではないか。


 いつか嫌われるのではないか。


 でも、青いノートへ書いていると、少しだけ違う声も生まれてくる。


 本当に全部、悪いことなのだろうか。


 誰かの声で安心すること。


 会いたいと思うこと。


 そばにいると呼吸が楽になること。


 それは全部、ただの依存なのだろうか。


 凛はペン先を見つめた。


 真白は言っていた。


 “一緒にいると安心する”って、人間関係の自然な部分だと思う、と。


 自然。


 その言葉を、凛は何度も思い出す。


 安心したいのは自然。


 寂しいのも自然。


 甘えたいのも自然。


 それでも凛はまだ、自分の感情へすぐ罪悪感を持ってしまう。


 きっと長い間、欲しがらないように生きてきたからだ。


 凛はノートへ続けて書いた。


『私は、誰かを必要とする自分をずっと怖がってきた。

必要とした瞬間、相手に迷惑をかけると思っていた。

でも、本当はずっと、誰かの隣で安心したかった。』


 そこまで書くと、目の奥が少し熱くなった。


 真白のことを考えていたはずなのに、いつの間にか幼い頃の自分へ繋がっていく。


 母の帰りを待っていた夜。


 熱を出しても「大丈夫」と言った日。


 友達に置いていかれるのが怖くて、寂しいと言えなかった頃。


 凛はずっと、誰かの隣にいたかった。


 でもその願いを出すのが怖かった。


 だから“平気な人”のふりを覚えた。


 一人で大丈夫な人。


 迷惑をかけない人。


 ちゃんとしている人。


 そのふりを続けるうちに、本当に自分が何を欲しがっているのかわからなくなった。


 でも今、真白と出会ってから、その蓋が少しずつ開いている。


 会いたい。


 そばにいたい。


 帰りたくない。


 もう少し話したい。


 そういう言葉が、胸の奥から出てくるようになった。


 それが怖い。


 けれど同時に、少し嬉しい。


 自分の中に、まだ誰かを求める力が残っていたことが。


 誰かと生きたいと思える部分が、まだ死んでいなかったことが。


 凛はペンを置き、スマートフォンを見た。


 真白とのトーク画面を開く。


 最後のメッセージは昨日の夜。


『ノート、凛ちゃんにすごく必要な場所だと思う』


 その文字を見るだけで、胸が少し温かくなる。


 送りたい。


 今書いていることを、少しだけ真白へ話したい。


 でも、怖い。


 “あなたのことを考えて書いています”なんて、重い気がする。


 真白が困るかもしれない。


 距離を取られるかもしれない。


 凛はスマートフォンを伏せた。


 青いノートへ戻る。


 ここは、自分へ戻るための場所。


 まずは真白へ送る前に、自分で自分の気持ちを見つめればいい。


 凛はもう一度ペンを持った。


『真白さんへすぐ伝えなくてもいい。

まず私が、私の気持ちを知ってあげればいい。』


 その一文を書いた瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。


 昔の凛は、感情が生まれるとすぐに焦っていた。


 これは正しいのか。


 間違っているのか。


 迷惑なのか。


 重いのか。


 相手にどう思われるのか。


 そうやって、自分の感情より先に相手の反応を考えていた。


 でも今は、少しだけ立ち止まれる。


 これは何だろう。


 私は何を感じているんだろう。


 そうやって、自分の感情の隣に座ることができる。


 それは、青いノートがくれた新しい時間だった。


 翌日。


 凛は大学へ向かう電車の中でも、青いノートのことを考えていた。


 バッグの中にあるだけで、少し安心する。


 まるで自分の一部を持ち歩いているみたいだった。


 大学に着くと、七海が教室の前で待っていた。


「凛ちゃん、おはよ」


「おはよう」


「なんか今日、ちょっと眠そう」


「昨日、少し書いてた」


「投稿?」


 凛は首を横へ振る。


「ううん。青いノート」


「あ、真白さんにもらったやつ?」


「うん」


 七海はにやりと笑った。


「いいねえ」


「何その顔」


「いや、真白さんってほんと凛ちゃんのことよく見てるよね」


 その言葉に、凛の胸が少し跳ねる。


「……そうかな」


「そうだよ。普通、人に“自分へ戻る用のノート”なんて渡せないよ」


 凛は少し黙った。


 確かにそうかもしれない。


 真白は、凛が何を必要としているかを、時々凛より先にわかっているように見える。


 それが安心でもあり、怖くもある。


 七海は凛の顔を覗き込んだ。


「で、凛ちゃんはどうなの?」


「どうって?」


「真白さんのこと」


 凛の呼吸が一瞬止まった。


「え」


「いや、見てればわかるじゃん」


「何が」


「凛ちゃん、真白さんの話する時だけ顔が迷子」


「迷子?」


「嬉しそうなのに怖そう」


 その表現に、凛は言葉を失った。


 嬉しそうなのに怖そう。


 まさにそうだった。


 真白のことを考えると、嬉しい。


 でも同時に怖い。


 その感情を、七海は見抜いていた。


 凛は視線を落とした。


「……自分でもよくわからない」


「うん」


「好きなのか、安心なのか、依存なのか」


「うん」


「どれなのかわからない」


 七海は茶化さなかった。


 ただ、静かに頷いた。


「別に、今すぐ名前つけなくてもよくない?」


 凛は顔を上げた。


「え?」


「好きです、依存です、安心です、って分類しなくてもさ」


 七海は机へ頬杖をつきながら言った。


「大事なんだな、でよくない?」


 その言葉に、凛の胸が静かに揺れた。


 大事なんだな。


 それは、どの言葉よりもしっくりくる気がした。


 恋なのか。


 依存なのか。


 安心なのか。


 まだわからない。


 でも、真白が大事。


 それは確かだった。


 会いたいと思う。


 傷つけたくないと思う。


 嫌われたくないと思う。


 真白がくれた言葉や時間を、大切にしたいと思う。


 それだけは、嘘ではない。


「……大事」


 凛は小さく呟いた。


 七海は少し笑った。


「それでいいと思う」


 凛は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 名前を急がなくていい。


 感情を分類しなくていい。


 大事だと思う。


 まずはそれだけでいい。


 昼休み、凛は中庭のベンチで青いノートを開いた。


 冷たい風がページを揺らす。


 凛はペンを持ち、七海に言われた言葉を書いた。


『今すぐ名前をつけなくてもいい。

好きなのか、安心なのか、依存なのか、まだわからない。

でも、大事だと思う。

それだけは本当。』


 書いていると、胸が少し落ち着いた。


 生きづらさに名前をつけるなら。


 この物語の中で、凛はずっと名前を探してきた。


 苦しさに。


 不安に。


 寂しさに。


 置いていかれる怖さに。


 でも今は少しだけ思う。


 名前をつけることは大事。


 けれど、すぐに名前をつけられない感情があってもいい。


 形になる前の感情を、急いで決めつけなくてもいい。


 ただ、大事に抱えていてもいい。


 その日の夕方、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。


 店へ入ると、真白はカウンターで小さなカードにイラストを描いていた。


 白い紙に、青い花のようなものが描かれている。


「いらっしゃい」


「……何描いてるんですか?」


「ショップカード用の試作」


 真白は少し照れくさそうに見せてくれた。


 小さな月と、青い花。


 静かで、どこか寂しくて、でも温かい絵だった。


「綺麗」


 凛は素直に言った。


 真白は少し笑う。


「ありがと」


 凛はカウンター席へ座った。


 今日は紅茶ではなく、ホットミルクを頼んだ。


 真白は何も言わず、少し蜂蜜を入れて出してくれた。


「疲れてる顔してたから」


 その言葉に、凛の胸が小さく揺れる。


 真白はやっぱり、よく見ている。


 見られていることが怖い日もある。


 でも今日は、その気づきが少し嬉しかった。


「青いノート、書いてる?」


 真白が聞く。


「はい」


「どう?」


「……自分に戻る感じがします」


 真白は静かに頷いた。


「よかった」


 凛はホットミルクを一口飲んだ。


 甘くて、優しい味がした。


 しばらく沈黙が流れる。


 凛はバッグの中にある青いノートを意識していた。


 今日書いた言葉。


 大事だと思う。


 それを真白へ見せるか迷う。


 でも、まだ見せなくてもいい気がした。


 青いノートは、まず自分へ戻るための場所だから。


「今日、七海ちゃんに言われたんです」


 凛はノートを出さずに話し始めた。


「何を?」


「感情に、今すぐ名前つけなくてもいいんじゃないって」


 真白は少し目を細めた。


「いいこと言うね、七海ちゃん」


「はい」


 凛はカップを見つめる。


「私、何でも名前つけようとしてた気がします」


「うん」


「これは不安、とか、これは寂しさ、とか」


「それも大事だよね」


「はい。でも、名前をつけられない感情もあって」


 真白は黙って聞いている。


 凛は少し緊張しながら続けた。


「真白さんのこと考える時の気持ちも、まだ名前がわからないです」


 言った瞬間、心臓が大きく鳴った。


 直接的すぎただろうか。


 重いだろうか。


 真白を困らせただろうか。


 凛はすぐに視線を落とした。


 でも真白は、困った顔をしなかった。


 少しだけ驚いたように瞬きをして、それから静かに笑った。


「そっか」


 その声は、いつものように穏やかだった。


 凛は小さく息を吐く。


「すみません、変なこと言って」


「変じゃないよ」


「でも」


「名前がわからない気持ちって、あるよ」


 真白はカウンターに肘をつき、少し遠くを見るように言った。


「焦って名前つけると、その名前に感情が押し込まれる時もあるし」


 凛は顔を上げる。


「押し込まれる?」


「うん。好きって名前をつけた瞬間、好きならこうしなきゃとか、付き合うならこうとか、形が決まっちゃうことあるでしょ」


 凛は静かに聞いていた。


「でも、感情ってもっと曖昧な時期があっていいと思う」


 真白は続ける。


「大事。安心する。怖い。会いたい。そういうものが混ざってる時期」


 凛の胸がじわりと熱くなる。


 それはまさに、今の凛の感情だった。


 大事。


 安心する。


 怖い。


 会いたい。


 全部混ざっていて、まだ一つの名前にならない。


「……そのままでいいんですか」


 凛が聞く。


 真白は頷いた。


「いいと思う」


「名前つけるのは、必要になった時でいいんじゃない?」


 凛はその言葉を胸の中で繰り返した。


 必要になった時でいい。


 今すぐ答えを出さなくていい。


 恋なのか。


 依存なのか。


 安心なのか。


 それを急いで決めなくてもいい。


 凛は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


「……真白さんは」


 凛は小さく聞いた。


「そういう気持ち、怖くないですか?」


「怖いよ」


 真白はすぐに答えた。


 その素直さに、凛は少し驚く。


「でも、怖いからって全部遠ざけると、何も残らなくなることも知ってるから」


 その言葉に、凛は胸が静かに痛んだ。


 真白もきっと、たくさん失ってきたのだ。


 壊れたことがある人。


 助けてと言えなかった人。


 大事な人が突然消えた経験を持つ人。


 だから真白は、安心の怖さも、求める怖さも知っている。


「凛ちゃんが今、名前をつけられない気持ちを持ってるなら」


 真白はゆっくり言った。


「無理に捨てなくていいと思う」


 凛は目を伏せた。


「捨てる?」


「うん。怖いからって、“これは依存だから駄目”って切り捨てなくていい」


 その言葉を聞いた瞬間、凛の目に少し涙が滲んだ。


 凛はまさに、それをしようとしていたのかもしれない。


 真白へ会いたい気持ち。


 安心する気持ち。


 もっと一緒にいたい気持ち。


 それを“依存”という怖い名前で片づけて、なかったことにしようとしていた。


 でも真白は、捨てなくていいと言った。


 凛はカップを両手で包みながら、小さく頷いた。


「……捨てたくないです」


 その言葉は、思っていたより素直に出た。


 真白は静かに聞いている。


「怖いけど」


「名前わからないけど」


「でも、捨てたくない」


 真白は優しく笑った。


「うん」


 その“うん”だけで、凛の胸の奥が少し温かくなる。


 その日の帰り道、凛はバッグの中の青いノートを何度も思い出した。


 夜道は寒かった。


 でも胸の中には、少しだけ柔らかいものが残っていた。


 名前をつけなくてもいい感情。


 捨てなくていい感情。


 大事だと思う気持ち。


 それを持ったまま歩いていい。


 凛は部屋へ帰ると、すぐに青いノートを開いた。


 今日の最後のページに書く。


『この気持ちに、まだ名前はない。

でも、捨てなくていいと言われた。

だから今日は、名前のないまま、ここに置いておく。』


 書き終えたあと、凛はそっとノートを閉じた。


 窓の外では、冬の夜が静かに深まっている。


 凛は布団へ入り、目を閉じた。


 真白への気持ちに、まだ名前はない。


 でも、それは確かに凛の中にある。


 怖くて、温かくて、苦しくて、少しだけ嬉しいもの。


 それを無理に消さなくてもいい。


 そのまま抱えて眠ってもいい。


 そう思えた夜、凛は少しだけ、自分の心を信じてみたくなっていた。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、凛が真白への気持ちに向き合い始めるページでした。

それが恋なのか、安心なのか、依存なのか。

凛にはまだ、はっきり名前をつけることができません。


でも、名前をつけられない感情も、確かに存在します。

焦って分類しなくてもいい。

怖いからといって、すぐに捨てなくてもいい。


「大事だと思う」

まずはその感覚だけで十分なのかもしれません。


青いノートは、凛にとって自分の本音を急かさず置いておける場所になり始めています。

次のページでは、この“名前のない気持ち”を抱えたまま、凛が真白との距離の近さにさらに戸惑い、初めて小さな嫉妬を覚えていきます。

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