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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第104ページ  嫉妬という名前を、知らないふりしたかった


凛は、真白への気持ちにまだ名前をつけられずにいた。

恋なのか、安心なのか、依存なのか。

そのどれにも似ていて、どれとも違う。

けれど「大事だと思う」という感情だけは、確かに胸の中にあった。


今回は、凛がその“名前のない気持ち”を抱えたまま、初めて小さな嫉妬を覚えるページです。

自分でも醜いと思ってしまう感情に、凛はまた一つ名前をつけようとしていきます。


 その日は、朝から少しだけ空が明るかった。


 冬の空気は冷たいままだったけれど、雲の隙間から薄い光が差し込んでいて、凛の部屋の白い壁を淡く照らしていた。


 凛はベッドの上で、青いノートを膝に置いていた。


 昨日の夜、最後に書いた言葉を読み返す。


『この気持ちに、まだ名前はない。

でも、捨てなくていいと言われた。

だから今日は、名前のないまま、ここに置いておく。』


 何度読んでも、胸の奥が少し熱くなる。


 名前のない気持ち。


 それは今も、凛の中に静かにある。


 真白のことを考えると安心する。


 会いたいと思う。


 声を聞くと、少し呼吸が楽になる。


 でも同時に、怖い。


 これ以上大事になったらどうしよう。


 失った時、自分はどうなってしまうのだろう。


 そんな不安が、温かさの隣にいつも座っている。


 凛はノートを閉じ、バッグへ入れた。


 今日は大学のあと、真白のカフェへ行くつもりだった。


 約束しているわけではない。


 ただ、行きたいと思った。


 そう思った自分に、また少しだけ戸惑う。


 以前なら、行きたいと思っても我慢していた。


 迷惑かもしれない。


 また来たと思われるかもしれない。


 重いかもしれない。


 そんなふうに考えて、結局行かないことが多かった。


 でも最近の凛は、少しだけ自分の「行きたい」を許せるようになっていた。


 大学へ向かう電車の中、凛はイヤホンをつけながら窓の外を見ていた。


 街の景色が流れていく。


 ビル。


 駅。


 歩道橋。


 急ぎ足の人たち。


 その光景を見ながら、凛はふと思う。


 自分は少しずつ変わっている。


 苦しいことが消えたわけではない。


 就活はまだ怖い。


 働くことも怖い。


 母との関係も、完全に整理できたわけではない。


 でも、前より少しだけ“自分の気持ち”を見捨てなくなった。


 苦しいなら苦しいと書く。


 怖いなら怖いと伝える。


 会いたいなら、会いに行く。


 それは全部、凛にとって大きな練習だった。


 講義はいつも通り退屈で、教授の声は遠く聞こえた。


 凛はノートを取りながら、端に小さく言葉を書いた。


『名前のない気持ちは、急がなくていい。

でも、急がないことと、見ないふりをすることは違う。』


 書いたあと、自分で少し驚いた。


 見ないふり。


 凛はずっと、それが得意だった。


 寂しいのに、平気なふりをした。


 苦しいのに、大丈夫と言った。


 欲しいのに、いらないと言った。


 誰かを大事に思っているのに、失うのが怖くて距離を置いた。


 それは全部、自分を守るためだった。


 でも今は、少しずつわかってきている。


 見ないふりをしても、感情は消えない。


 ただ、奥へ沈んで、いつか別の形で苦しくなる。


 だから凛は、名前をつけられなくても、せめて見ないふりだけはしたくなかった。


 夕方。


 大学を出る頃には、空は薄い橙色に変わっていた。


 凛は駅へ向かう人の流れから少し外れ、『cafe 月灯り』へ向かった。


 店の前に着くと、窓から柔らかな灯りが漏れている。


 その光を見るだけで、胸が少し緩む。


 扉を開ける。


 ベルが小さく鳴った。


「いらっしゃいませ」


 真白の声。


 凛は顔を上げた。


 けれど、その瞬間、足が少し止まった。


 カウンター席に、知らない女性が座っていた。


 歳は真白と同じくらいだろうか。


 綺麗な人だった。


 長い髪を低い位置でまとめていて、淡い色のコートを椅子にかけている。


 真白はその女性と、いつもより少し親しげに話していた。


 笑っている。


 凛が見たことのある、穏やかな笑い方。


 けれど、その笑顔が自分以外へ向けられていることに気づいた瞬間、凛の胸の奥が小さく痛んだ。


 痛い。


 なぜか、痛い。


「凛ちゃん」


 真白が気づいて顔を上げる。


「いらっしゃい」


 いつもの声だった。


 優しい。


 変わらない。


 それなのに、凛の胸はざわざわしていた。


「……こんばんは」


 凛は小さく答えた。


 いつものカウンター席へ座ろうとして、少し迷う。


 女性は真白と話している。


 そこへ自分が入っていくのは、邪魔な気がした。


 凛は少し離れた二人席へ座ろうとした。


 すると真白が言った。


「こっち空いてるよ」


 いつもの席を指す。


 女性の隣の席だった。


 凛は一瞬ためらった。


 けれど断る理由もなく、静かにカウンターへ座った。


「こちら、昔一緒に展示やってた佐倉さん」


 真白が紹介する。


 女性は穏やかに微笑んだ。


「佐倉 美緒です。こんにちは」


「……朝比奈凛です」


 凛は軽く頭を下げた。


 佐倉美緒。


 名前まで綺麗だと思ってしまった。


 その瞬間、凛は自分の中に生まれた感情に戸惑った。


 何を思っているのだろう。


 ただの知り合いかもしれない。


 昔の仕事仲間かもしれない。


 真白には、凛の知らない時間がたくさんある。


 そんなの当たり前だ。


 当たり前なのに、胸がざわつく。


 真白は凛へ紅茶を淹れてくれた。


「今日は紅茶でいい?」


「……はい」


「蜂蜜入れる?」


「大丈夫です」


 声が少し硬い気がした。


 真白はそれに気づいただろうか。


 凛はカップを受け取り、両手で包んだ。


 温かい。


 でも胸の奥は落ち着かない。


 佐倉は真白へ向き直り、楽しそうに言った。


「それで、今度の展示の話なんだけど」


「うん」


「真白くん、また一枚出さない?」


 真白くん。


 その呼び方が、凛の胸へ小さく刺さった。


 真白さん。


 凛はずっとそう呼んでいる。


 でも佐倉は、自然に“真白くん”と呼んだ。


 昔から知っている人の距離。


 凛にはまだ持っていない距離。


 それが、胸の奥をじわじわ苦しくさせる。


 真白は少し考えるように笑った。


「最近あんまり展示用の絵描けてないんだよね」


「でも、あなたの絵好きな人多いよ」


「ありがたいけどね」


「昔より、柔らかくなった気がするし」


 佐倉の声は親しげだった。


 真白の過去を知っている声。


 昔の真白を知っている人。


 凛は紅茶の表面を見つめた。


 真白の昔。


 壊れかけていた頃。


 絵を描いていた頃。


 凛が知らない時間。


 そこに、この人はいたのだろうか。


 そう思った瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。


 嫌だった。


 そう思ってしまった自分に、すぐ嫌悪感が湧いた。


 何が嫌なのだろう。


 真白には真白の人間関係がある。


 凛が知らない人と話すのは当たり前だ。


 それを嫌だと思う権利なんてない。


 なのに、胸が苦しい。


 凛は自分がひどく小さい人間になった気がした。


 佐倉は優しそうな人だった。


 凛へも何度か話を振ってくれた。


「朝比奈さんは学生さん?」


「はい」


「真白くんのお店、よく来るの?」


「……はい。最近」


「いい場所だよね、ここ」


 佐倉は店内を見回して微笑んだ。


「真白くんらしい」


 真白くんらしい。


 その言葉にも、凛はまた少し胸が痛くなる。


 真白らしさを語れる人。


 凛より前から真白を知っている人。


 自分はまだ、真白のほんの一部しか知らない。


 その事実が、なぜか寂しかった。


 しばらくして、佐倉は席を立った。


「じゃあ、展示の件、考えておいて」


「うん。ありがとう」


「また連絡するね」


「うん」


 佐倉は凛にも軽く会釈をして、店を出ていった。


 ベルが鳴る。


 扉が閉まる。


 店内に静けさが戻る。


 凛は紅茶のカップを見つめたまま、動けなかった。


 胸の中に、まだざわざわした感覚が残っている。


 嫌な感じ。


 醜い感じ。


 自分でも認めたくない感情。


「凛ちゃん」


 真白の声。


 凛は顔を上げる。


「大丈夫?」


 その一言で、胸がまた少し苦しくなった。


 大丈夫ではない。


 でも、何が大丈夫ではないのか、自分でも言いたくなかった。


 嫉妬。


 その言葉が頭をよぎる。


 凛はすぐに打ち消した。


 違う。


 そんなはずない。


 そんな資格はない。


 真白と自分は、まだ何か名前のある関係ではない。


 なのに嫉妬なんて、おかしい。


 重い。


 醜い。


「……大丈夫です」


 凛は反射的にそう答えた。


 言った瞬間、自分でわかった。


 これは昔の“大丈夫”だ。


 平気なふり。


 隠すための言葉。


 真白もそれに気づいたのか、少しだけ目を細めた。


「そっか」


 それ以上は追及しなかった。


 その優しさに、凛は余計に苦しくなる。


 追及されないと、隠せてしまう。


 でも、隠したままだと胸が痛い。


 凛はカップを両手で握った。


 言いたくない。


 でも、言わないと苦しい。


 青いノートの言葉が頭に浮かぶ。


 見ないふりと、急がないことは違う。


 名前をつけられなくても、見ないふりはしたくない。


 凛は小さく息を吸った。


「……大丈夫じゃない、かも」


 声がとても小さかった。


 真白は静かに凛を見る。


「うん」


 その“うん”が、話していいという合図みたいだった。


 凛は視線を落とした。


「さっきの人と真白さんが話してるの見て」


 言葉が喉でつかえる。


 心臓がうるさい。


 こんなこと言っていいのだろうか。


 でも、ここで飲み込んだら、また自分の感情をなかったことにしてしまう。


 凛は震える声で続けた。


「なんか、胸がざわざわしました」


 真白は何も言わなかった。


 凛は自分の指先を見る。


「真白さんの昔を知ってる人なんだなって思って」


「私の知らない真白さんを知ってる人なんだなって思って」


「それが、なんか……寂しかった」


 言い終えた瞬間、顔が熱くなった。


 恥ずかしい。


 情けない。


 凛は慌てて言葉を足した。


「すみません。変ですよね」


「ただの知り合いなのに」


「私がそんなふうに思うの、おかしいし」


「何の権利もないのに」


「凛ちゃん」


 真白の声が、静かに凛の言葉を止めた。


 凛は口を閉じる。


 真白は困った顔ではなかった。


 怒ってもいなかった。


 ただ、少しだけ真剣な顔をしていた。


「今、すごい勢いで自分を責めたね」


 その言葉に、凛は息を止めた。


 確かにそうだった。


 感情を言った瞬間、それをすぐに罰した。


 おかしい。


 変。


 権利がない。


 重い。


 そうやって、自分の気持ちを潰そうとした。


 凛は目を伏せる。


「……だって」


「うん」


「こんな感情、嫌です」


 声が震えた。


「嫉妬みたいで」


 その言葉を口にした瞬間、胸が強く痛んだ。


 嫉妬。


 とうとう名前をつけてしまった。


 醜いと思っていた感情。


 自分には持つ資格がないと思っていた感情。


 真白は少しだけ黙った。


 それから、静かに言った。


「嫉妬って、そんなに悪い感情かな」


 凛は顔を上げる。


「え?」


「もちろん、相手を縛ったり傷つけたりする形になったら苦しくなるけど」


 真白は言葉を選ぶように続けた。


「でも、今凛ちゃんが言ったのは、“寂しかった”って話でしょ」


 凛は何も言えない。


「俺の知らないところに、自分がいない時間があるのが寂しかった」


「自分の知らない俺を知ってる人がいて、少し不安になった」


「それって、誰かを大事に思い始めた時、結構自然に出る感情だと思う」


 自然。


 また、その言葉だった。


 凛は胸の奥がじわりと熱くなる。


 自然と言われるたび、凛の中で“駄目なもの”として閉じ込められていた感情が、少しだけ外へ出られる気がする。


「……でも、嫌です」


 凛は小さく言った。


「人に嫉妬する自分とか、嫌いです」


「うん」


 真白は頷いた。


「嫌だよね」


「はい」


「でも、嫌だと思いながらでも、ちゃんと言葉にできたのはすごいと思う」


 凛の目に涙が滲む。


「すごくないです」


「すごいよ」


「だって、隠さなかった」


 その言葉に、凛は息を止める。


 隠さなかった。


 本当だ。


 いつものように、大丈夫で終わらせることもできた。


 胸がざわついた理由を、なかったことにすることもできた。


 でも凛は言った。


 寂しかった。


 嫉妬みたいで嫌だった。


 それを言葉にできた。


 真白はカウンターの向こうで、静かに続けた。


「感情って、隠してる時の方が大きくなることあるから」


「……」


「言葉にできたなら、少し扱えるようになると思う」


 凛は涙を拭った。


 扱えるようになる。


 そうなのだろうか。


 嫉妬という名前をつけたからといって、感情が消えたわけではない。


 でも、さっきまで胸の中で正体不明の黒いものみたいに渦巻いていた感覚が、少しだけ形を持った気がした。


 これは嫉妬。


 でも、その奥にあるのは寂しさ。


 置いていかれる怖さ。


 大事な人を失う不安。


 凛はその感情を、少しだけ見つめられた気がした。


「佐倉さんは」


 真白がゆっくり言った。


「昔、展示で一緒になった人。絵のことで何度か助けてもらったことはあるけど、そういう関係ではないよ」


 凛は慌てて顔を上げた。


「いや、別に、聞きたかったわけじゃ」


「うん。でも、言っておく」


 真白は穏やかに笑った。


「凛ちゃんが勝手に不安を育てなくていいように」


 その言葉に、凛の胸が強く揺れた。


 勝手に不安を育てなくていい。


 凛はいつもそうだった。


 相手に聞けないまま、頭の中で不安を大きくしていく。


 きっと嫌われた。


 きっと迷惑だった。


 きっと自分はいらない。


 事実ではなく、不安だけで世界を作ってしまう。


 でも真白は今、凛が聞く前に少しだけ説明してくれた。


 それは凛を子ども扱いするためではなく、凛が自分を責めすぎないようにするためだった。


「……ありがとうございます」


 凛は小さく言った。


「うん」


「私、すぐ勝手に不安を育てます」


「知ってる」


 真白が少し笑う。


 凛も泣きながら少し笑った。


 その笑いで、胸の重さが少しだけ薄くなる。


 閉店後、凛は青いノートを開いた。


 カウンター席で、真白が片付けをしている横で書く。


 誰かに見せるためではない。


 自分へ戻るために。


『今日、嫉妬した。

自分でも嫌だった。

でも、その奥には寂しさがあった。

真白さんの知らない時間に、自分がいないことが寂しかった。

私は、真白さんを大事に思っているのかもしれない。

だから怖かった。』


 書いていると、涙がまた少し出た。


 でも今度は、少しだけ静かな涙だった。


 感情に名前をつけたから。


 責めるだけでなく、奥にあるものを見ようとできたから。


 真白が片付けを終え、凛の前に温かい水を置いた。


「今日は頑張ったね」


 凛はノートから顔を上げる。


「嫉妬しただけです」


「嫉妬を認めるの、結構しんどいよ」


 真白はそう言った。


 凛は小さく頷いた。


 本当に、しんどかった。


 でも、隠し続ける方がもっと苦しかったのだと思う。


 夜、家へ帰った凛は、もう一度青いノートを開いた。


 最後に一文だけ書き足す。


『嫉妬は、醜さだけじゃなかった。

誰かを大事に思う怖さが、少し黒くなって現れたものだった。』


 書き終えたあと、凛は深く息を吐いた。


 真白への気持ちに、まだはっきりした名前はない。


 でも今日、その中に嫉妬が混ざっていることを知った。


 それは嫌だった。


 怖かった。


 でも、なかったことにしなくてよかった。


 凛は青いノートを閉じ、胸へ抱えた。


 窓の外では、冬の夜が静かに深まっている。


 感情は、綺麗なものばかりじゃない。


 寂しさも、嫉妬も、不安も、全部混ざっている。


 でもそれを一つずつ言葉にしていけば、自分を嫌いになるだけではなく、少しずつ理解できるのかもしれない。


 そう思えた夜だった。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、凛が初めて“小さな嫉妬”に向き合うページでした。

真白の過去を知る人、真白と自然に話せる人。

その存在を見た時、凛の中に生まれたのは、嫌悪したくなるような感情でした。


けれど、その奥にあったのは「寂しい」「置いていかれたくない」「大事だから怖い」という痛みでした。


嫉妬は、ただ醜いだけの感情ではなく、時に“大事に思う怖さ”が歪んで現れたものなのかもしれません。

凛はそれを隠さず、責めるだけでもなく、青いノートへ置くことができました。


次のページでは、凛がこの出来事をきっかけに、真白との関係を“曖昧なまま大事にすること”の難しさと向き合っていきます。

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