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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第105ページ  名前がないまま、大事にすること


凛は、初めて自分の中に生まれた嫉妬を言葉にした。

それは醜いだけの感情ではなく、「大事に思うから怖い」という心の揺れだった。

真白との関係にまだ名前はない。

けれど、名前がないままでも大事にしたい気持ちは、確かに凛の中で育ち始めていた。


今回は、凛が“曖昧な関係”の中で不安になりながらも、真白との距離を急いで決めつけず、大切にしていく難しさと向き合うページです。


 朝、目が覚めた瞬間、凛は昨日のことを思い出した。


 佐倉美緒。


 真白の昔を知っている人。


 真白を自然に「真白くん」と呼ぶ人。


 そして、その姿を見て胸がざわついた自分。


 嫉妬。


 昨日、凛はその言葉を初めて青いノートへ書いた。


 書いた時は怖かった。


 自分の中にそんな感情があることを認めたくなかった。


 誰かに嫉妬する自分なんて嫌だった。


 けれど、ノートへ書いてみると、その感情は思っていたより単純ではなかった。


 醜さだけではなかった。


 その奥には、寂しさがあった。


 置いていかれる怖さがあった。


 真白を大事に思い始めている自分がいた。


 凛は布団の中で、ぼんやり天井を見つめる。


 この気持ちには、まだ名前がない。


 恋なのかもしれない。


 安心なのかもしれない。


 依存に近いものなのかもしれない。


 全部が少しずつ混ざっているのかもしれない。


 でも、名前がないからといって、存在しないわけではなかった。


 胸の奥には確かに、真白を大事に思う感情がある。


 それだけは、もう否定できなかった。


 凛はゆっくり起き上がり、机の上の青いノートを開いた。


 昨日の最後の一文を読み返す。


『嫉妬は、醜さだけじゃなかった。

誰かを大事に思う怖さが、少し黒くなって現れたものだった。』


 その文章を見て、凛は小さく息を吐いた。


 自分が書いた言葉なのに、少しだけ救われる。


 感情に名前をつけることは、感情を罰することではないのだと、少しずつわかってきた。


 名前をつけることで、自分を責めるためではなく、自分を理解するために使える。


 それは、凛が最近ようやく覚え始めたことだった。


 凛は新しいページを開き、ペンを取る。


『名前のない関係が怖い。』


 そう書いた瞬間、胸が少し痛んだ。


 名前のない関係。


 それは、今の凛と真白のことだった。


 友達、というには深い。


 恋人、というには何も約束していない。


 ただの店員と客、というには、もう遠すぎる。


 理解者。


 大事な人。


 安心できる場所。


 どの言葉も近いのに、どれも少し足りない。


 凛は続けて書いた。


『名前がないと、不安になる。

でも、名前を急いでつけるのも怖い。

名前をつけた瞬間、そこから外れたら壊れてしまいそうだから。』


 書きながら、凛は真白の言葉を思い出す。


 ――焦って名前つけると、その名前に感情が押し込まれる時もある。


 確かにそうだと思った。


 恋と呼んだ瞬間、恋人にならなければいけない気がする。


 依存と呼んだ瞬間、断ち切らなければいけない気がする。


 友情と呼んだ瞬間、それ以上を望んではいけない気がする。


 名前は安心にもなる。


 でも時々、檻にもなる。


 凛はまだ、この気持ちを閉じ込めたくなかった。


 けれど、曖昧なまま抱えるには、凛の心はまだ少し弱かった。


 不安になる。


 昨日の佐倉のように、真白の世界へ誰かが自然に入ってくるだけで、胸がざわつく。


 自分は何者なのだろうと思ってしまう。


 真白にとって、自分はどれくらい大事なのだろう。


 そう考えてしまう。


 その問いが、怖かった。


 答えを知りたい。


 でも、答えを聞くのが怖い。


 凛はペンを置き、両手で顔を覆った。


「……難しい」


 本当に、人と関わることは難しい。


 一人でいた頃は、こんな感情を知らずに済んだ。


 寂しかったけれど、嫉妬もしなかった。


 不安だったけれど、誰かの返信を待って胸が苦しくなることもなかった。


 でも、真白と出会ってから、凛の世界には色が増えた。


 温かさも。


 嬉しさも。


 安心も。


 そして、嫉妬も、不安も、失う怖さも。


 全部が増えた。


 生きることは、前より少し苦しくて、前より少し温かい。


 その矛盾をどう扱えばいいのか、凛にはまだわからなかった。


 大学へ向かう支度をしていると、スマートフォンが震えた。


 真白だった。


『昨日ちゃんと眠れた?』


 その一文を見た瞬間、胸が少し柔らかくなる。


 でも同時に、少し怖くなる。


 優しい。


 だから怖い。


 大事にされている気がする。


 でも、それがいつかなくなるかもしれないと思うと怖い。


 凛は少し迷ってから返信した。


『少し眠れました』


『昨日のこと、まだ考えてます』


 送信。


 すぐ既読がついた。


『うん』


『考えていいと思う』


 その返事に、凛は少し目を伏せた。


 考えすぎ、と言わない。


 真白はいつも、凛の思考をすぐには止めない。


 苦しさに沈みすぎないように手は差し伸べてくれるけれど、考えること自体を否定しない。


 それが凛には、少し救いだった。


『でも、自分を責める方向には行きすぎないでね』


 続けて届いたメッセージに、凛は小さく笑った。


 見抜かれている。


 凛は返信した。


『もう少し責めかけてました』


『やっぱり』


 真白からそう返ってきて、凛はほんの少しだけ笑えた。


 大学では、就活関連の掲示が増えていた。


 説明会、面接対策、自己分析講座、エントリー締切。


 掲示板の前を通るだけで、凛の胸は少し重くなる。


 でも以前のように、一瞬で飲み込まれる感じは少し減っていた。


 怖い。


 でも、その怖さに名前をつけられる。


 働くことそのものが怖いのではなく、壊れる働き方が怖い。


 普通に合わせ続けて、自分を失うのが怖い。


 そうわかるだけで、恐怖は少し輪郭を持つ。


 輪郭があるものは、ほんの少しだけ距離を取れる。


 凛は掲示板の前で立ち止まり、ひとつのチラシを見た。


『自分に合う働き方を考える相談会』


 以前なら、その言葉を見ても素通りしていたかもしれない。


 自分に合う働き方なんて、甘えだと思っていたから。


 でも今は、少し違う。


 自分に合う形を探すことは、逃げではない。


 壊れないための選択。


 生きていくための準備。


 凛はスマートフォンでそのチラシの写真を撮った。


 すぐに申し込む勇気はまだない。


 でも、写真を撮っただけでも少し前進した気がした。


 昼休み、七海が凛の隣に座った。


「今日、なんか考え事してる?」


「うん」


「真白さん?」


 凛はむせそうになった。


「なんで」


「顔に書いてある」


「そんなに?」


「うん。でっかく」


 七海はからかうように笑ったが、その目は優しかった。


 凛は少し迷ってから、昨日の佐倉の話をした。


 真白の昔を知っている女性が来たこと。


 親しげに話していたこと。


 それを見て、胸がざわついたこと。


 嫉妬みたいで嫌だったこと。


 七海は黙って聞いていた。


 話し終わると、七海は「そっか」と言った。


「それ、普通に嫉妬じゃん」


 あまりにもあっさり言われて、凛は固まった。


「やっぱり?」


「うん」


「嫌な感じする」


「まあ嫉妬って気持ちいい感情ではないよね」


 七海はストローでアイスティーを混ぜながら言った。


「でも、凛ちゃんが誰かに嫉妬するの、ちょっと安心した」


「え?」


 凛は顔を上げる。


 七海は笑った。


「だって凛ちゃん、ずっと自分の感情に蓋してきたじゃん」


「うん」


「嫉妬ってさ、相手に興味なかったら出ないでしょ」


 凛は黙る。


「真白さんが大事だから出たんだよ」


 その言葉は、昨日真白に言われたことと少し似ていた。


 誰かを大事に思う怖さ。


 大事だから、ざわつく。


 大事だから、知らない時間が寂しい。


 七海は続ける。


「もちろん、嫉妬で相手を縛り始めたらしんどいけど、感じるだけなら人間じゃん」


「人間……」


「そう。凛ちゃん、感情を持っただけで罪人みたいになるのやめな」


 その言い方が七海らしくて、凛は少し笑ってしまった。


 罪人。


 確かに、凛は感情を持っただけで自分を罰していた。


 寂しいと思っただけで。


 羨ましいと思っただけで。


 嫉妬しただけで。


 自分は駄目だと思ってしまう。


 でも感情は、持っただけでは罪ではない。


 どう扱うかが大事なのかもしれない。


 凛は小さく頷いた。


「……青いノートに書いた」


「嫉妬を?」


「うん」


「いいじゃん。感情の避難場所じゃん」


「避難場所」


「そう。心の防災バッグ」


 凛はまた少し笑った。


 七海は本当に、時々変な言葉で大事なことを言う。


 青いノート。


 自分へ戻る場所。


 感情の避難場所。


 凛はその表現を気に入った。


 午後の講義が終わったあと、凛は一度家へ帰ろうと思っていた。


 でも、足は自然に『cafe 月灯り』へ向かっていた。


 昨日、嫉妬を言葉にしたばかりなのに。


 まだ少し恥ずかしいのに。


 それでも真白に会いたかった。


 会いたいと思う自分を、今日は責めないでいたかった。


 店へ入ると、真白はカウンターの中で豆を挽いていた。


 香ばしい匂いが店内に広がっている。


「いらっしゃい」


「こんばんは」


「今日は少し顔が軽い」


「七海ちゃんに、人間じゃんって言われました」


 真白は一瞬きょとんとして、それから笑った。


「何の話?」


「嫉妬しただけで罪人みたいになるのやめなって」


「ああ」


 真白は納得したように頷く。


「七海ちゃん、いいこと言うね」


「はい」


 凛はいつもの席へ座った。


 今日は紅茶ではなく、カフェオレを頼んだ。


 真白は温かいカフェオレを置きながら言った。


「昨日のこと、まだ気まずい?」


 凛は少し考えた。


「少し」


「うん」


「でも、言ってよかったとも思います」


 真白は静かに頷いた。


「俺も、言ってくれてよかったと思ってる」


 その言葉に、凛の胸が少し熱くなる。


「嫌じゃなかったですか」


「嫌じゃないよ」


「面倒じゃ」


「凛ちゃん」


 真白が少しだけ笑う。


「先回り」


 凛は口を閉じた。


 また、相手の感情を自分で決めようとしていた。


 面倒だと思われる前に、自分で“面倒ですよね”と言ってしまう癖。


 それはまだ簡単には消えない。


 でも、気づけるようになっただけ、少し変わったのかもしれない。


「……すみません」


「謝らなくていいけど、今のも癖だね」


「はい」


 凛は少し恥ずかしくなって、カフェオレを見つめた。


 真白はカウンターに肘をつき、静かに言った。


「曖昧な関係って、不安になるよね」


 凛は顔を上げる。


 真白は窓の外を見ながら続けた。


「名前があれば安心することもあるし」


「はい」


「でも、名前があっても不安は消えない時もある」


 凛は黙って聞いていた。


「恋人って名前があっても、離れる人は離れるし」


「友達って名前があっても、傷つけ合うことはあるし」


「逆に、名前がなくても大事にできる関係もある」


 その言葉に、凛の胸が静かに揺れた。


 名前がなくても大事にできる関係。


 それは、凛が今一番知りたかったことかもしれない。


「でも、名前がないと怖いです」


 凛は正直に言った。


「自分がどこに立ってるのかわからないから」


「うん」


「真白さんにとって私は何なんだろうって、考えちゃうから」


 言ってしまった。


 凛はすぐに心臓が速くなるのを感じた。


 聞くつもりではなかった。


 でも、言葉が零れてしまった。


 真白は少し黙った。


 店内の音楽が静かに流れている。


 凛はカップを握る手に力が入った。


 怖い。


 答えを聞くのが怖い。


 でも、真白は逃げるようには見えなかった。


 しばらくして、真白はゆっくり言った。


「大事な人だよ」


 凛は息を止めた。


 大事な人。


 昨日、自分がノートに書いた言葉。


 七海にも言われた言葉。


 それを真白の口から聞いた瞬間、胸の奥が強く震えた。


「……大事」


「うん」


 真白は凛を見た。


「凛ちゃんは、俺にとって大事な人」


 涙が出そうになった。


 でも同時に、怖かった。


 大事な人。


 それは嬉しい。


 でも、もっと欲しくなってしまいそうで怖い。


 凛は唇を噛んだ。


「嬉しいのに、怖いです」


「うん」


「もっと欲しくなりそうで」


「うん」


「大事な人って言われたら、その場所を失いたくなくなる」


 真白は静かに頷いた。


「失いたくないって思うのは、自然だよ」


 凛は目を伏せた。


 自然。


 そう言ってもらうたび、少し救われる。


 でも、自然だからといって、怖さが消えるわけではなかった。


「でも、今は」


 真白は続けた。


「急いで何か名前をつけなくてもいいと思ってる」


 凛は顔を上げる。


「俺も、凛ちゃんとの時間を大事にしたい」


「はい」


「でも、凛ちゃんが今やっと自分の気持ちを見始めてるところで、無理に形を決めると苦しくなる気がする」


 その言葉に、凛の胸がじわりと熱くなった。


 真白は、凛のペースを見てくれている。


 自分の感情を急がせないでいてくれる。


 それがまた、苦しいくらい優しかった。


「だから、今は名前がないまま、大事にしてもいいかなと思ってる」


 真白の声は穏やかだった。


 凛は何も言えなかった。


 名前がないまま、大事にする。


 それは難しい。


 不安になる。


 でも、今の凛には、その方法が一番優しいのかもしれない。


 恋人になるとか、ならないとか。


 依存だから離れるとか、離れないとか。


 そういう二択ではなく。


 今ある温度を、壊さないように大事にする。


 それは、凛にとって新しい関係の持ち方だった。


「……私、すぐ答えが欲しくなります」


 凛は小さく言った。


「不安だから」


「うん」


「でも、答えが出たら出たで、また怖くなる気がします」


「うん」


「だから、今は……名前がないままでも、大事にしたいです」


 言葉にした瞬間、胸が少しだけ軽くなった。


 真白は静かに笑った。


「うん」


 その“うん”は、いつもより少しだけ柔らかかった。


 閉店後、凛は青いノートを開いた。


 カフェのカウンターで、真白が片付けをしている音を聞きながら書く。


『真白さんは、私を大事な人だと言った。

嬉しかった。

でも怖かった。

もっと欲しくなる自分が怖かった。

それでも、名前がないまま大事にしてもいいと言われた。』


 凛は少し手を止めた。


 胸の奥が温かく、少し痛い。


 続けて書く。


『名前がない関係は不安だ。

でも、名前をつけることだけが安心ではないのかもしれない。

大事にすることは、急いで形にすることではなく、今ある温度を雑に扱わないことなのかもしれない。』


 書き終えた時、凛は深く息を吐いた。


 今ある温度を雑に扱わない。


 それは、真白がずっと凛へしてくれていたことだった。


 凛の怖さも。


 嫉妬も。


 寂しさも。


 欲しがる気持ちも。


 真白は雑に扱わなかった。


 だから凛も、この名前のない気持ちを雑に扱いたくなかった。


 怖いから捨てるのではなく。


 不安だから急いで決めるのでもなく。


 今はただ、大事に持っていたい。


 その夜、家に帰った凛は、もう一度青いノートを開いた。


 最後の行に、こう書いた。


『私はまだ、この気持ちの名前を知らない。

でも、名前がないままでも、大事にしていい。

今日、少しだけそう思えた。』


 書き終えると、凛はノートを閉じた。


 窓の外では、冬の夜が静かに広がっている。


 胸の奥にはまだ不安がある。


 でも、その隣に温かさもあった。


 名前がないまま、大事にすること。


 その難しくて優しい方法を、凛は少しずつ覚え始めていた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、凛が“曖昧な関係”の不安と向き合うページでした。

真白にとって自分は何なのか。

名前がない関係の中で、凛はどうしても不安になります。


けれど真白は、凛を「大事な人」だと言いました。

それは恋人という名前ではない。

でも、確かに温度のある言葉でした。


名前がないと不安になる。

でも、名前をつけることだけが安心ではないのかもしれない。

今ある温度を雑に扱わず、大事にしていくこと。


凛はその難しさと優しさを、少しずつ学び始めています。


次のページでは、凛がこの「大事な人」という言葉を胸に、母との関係や自分の未来にも少しずつ新しい向き合い方を見つけていきます。

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