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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第106ページ  大事な人がいる未来を、少しだけ信じた


真白から「大事な人」と言われた凛は、名前のない関係を急いで決めつけず、大切にしていくことを少しずつ覚え始めた。

けれど、その温かさを知ったからこそ、凛は自分の未来や母との関係にも、もう一度向き合わなければならなくなる。


今回は、「大事な人」という言葉を胸に抱えた凛が、母との距離、自分の働き方、そして“ちゃんと生きる”という思い込みを見つめ直していくページです。



 朝、凛は青いノートを開いた。


 昨日の夜に書いた文字が、まだ少しだけ新しく見える。


『私はまだ、この気持ちの名前を知らない。

でも、名前がないままでも、大事にしていい。

今日、少しだけそう思えた。』


 何度読み返しても、胸の奥が小さく震えた。


 真白に「大事な人」と言われた。


 その事実は、朝になっても消えていなかった。


 夢ではなかった。


 思い込みでもなかった。


 真白は確かに、凛を大事な人だと言った。


 恋人という名前ではない。


 約束でもない。


 未来を保証する言葉でもない。


 それでも凛にとっては、十分すぎるくらい温かい言葉だった。


 けれど、温かいものはいつも、凛を少し不安にさせる。


 大事だと言われたら、その場所を失いたくなくなる。


 失いたくないと思うと、怖くなる。


 怖くなると、また自分を責めたくなる。


 そんな自分の癖を、凛はもう少しだけ理解し始めていた。


 凛はペンを取り、新しいページにゆっくり書いた。


『大事だと言われて、嬉しかった。

でも、嬉しいだけではなかった。

失うのが怖くなった。

もっと欲しくなりそうで怖くなった。

でも、それでも、嬉しかったことをなかったことにはしたくない。』


 書き終えて、凛は深く息を吐いた。


 以前の凛なら、“怖い”が出てきた瞬間に、“嬉しい”まで否定していたかもしれない。


 怖いならやめよう。


 傷つくくらいなら離れよう。


 大事になる前に諦めよう。


 そうやって、自分を守ってきた。


 でも今は少し違う。


 怖い。


 でも嬉しい。


 不安。


 でも大事。


 矛盾した感情を、そのまま並べて置けるようになってきた。


 それは青いノートのおかげでもあり、真白や七海や灯との会話のおかげでもあった。


 凛はノートを閉じ、大学へ向かう支度をした。


 今日は午後にキャリアセンターの相談会がある。


 以前写真を撮った、「自分に合う働き方を考える相談会」だった。


 申し込むか迷っていたが、昨夜、寝る前に思い切って予約を入れた。


 送信ボタンを押したあと、凛はしばらく布団の中で固まっていた。


 怖かった。


 また就活の話をする。


 また未来のことを考える。


 自分がどれだけ普通の道から遅れているかを見せられる気がした。


 でも同時に、少しだけ思った。


 壊れない働き方を探すことは、逃げではない。


 自分の命を守ること。


 真白がそう言ってくれた。


 凛はまだ、その言葉を完全には信じきれていない。


 けれど、信じてみたいと思っている。


 大学へ向かう電車の中、凛は窓の外を見ていた。


 冬の街は白く乾いている。


 駅ごとに人が増え、車内の空気が少しずつ重くなる。


 凛はイヤホンをつけ、音楽の音量を少しだけ上げた。


 人の声が遠くなる。


 それだけで、少し呼吸がしやすくなる。


 凛はバッグの中の青いノートへ手を当てた。


 そこにある。


 自分に戻る場所。


 それだけで、少し安心できる。


 大学に着くと、掲示板の前には就活関連のチラシが並んでいた。


 企業説明会。


 模擬面接。


 グループディスカッション対策。


 エントリー締切。


 その文字を見るだけで、胸はまだ重くなる。


 でも今日は、以前のように逃げ出したくなるほどではなかった。


 怖いものが少し具体的になっているからかもしれない。


 凛は「働くこと」が全部怖いわけではない。


 壊れる働き方が怖い。


 自分を消し続ける場所が怖い。


 苦しさを言えない環境が怖い。


 その違いに気づけたことは、大きかった。


 昼休み、七海が凛の席へ来た。


「今日、相談会だっけ?」


「うん」


「行けそう?」


「怖い」


「正直でよろしい」


 七海はそう言って、凛の隣へ座った。


「でも予約したんでしょ?」


「した」


「じゃあ半分勝ち」


「半分?」


「申し込んだ時点で、もうかなり偉い」


 その言い方が軽くて、凛は少し笑った。


 七海はいつも、重くなりすぎたものを少しだけ軽くしてくれる。


 凛が深刻に抱え込みすぎる言葉を、七海は時々、ぽんと明るいところへ置いてくれる。


「私、働くの怖いって言っていいのかな」


 凛がぽつりと言うと、七海は真面目な顔になった。


「言っていいでしょ」


「でも、相談会でそんなこと言ったら、やる気ないと思われないかな」


「怖いって言うのと、やる気ないのは違うと思う」


 七海はペットボトルのお茶を開けながら言った。


「怖いからこそ、考えようとしてるんじゃん」


 凛はその言葉に、少し目を伏せた。


 怖いからこそ、考えようとしている。


 そうかもしれない。


 以前の凛なら、怖いものから目を逸らしていた。


 就活の話を聞くだけで苦しくなって、自分を責めて、それでも何もできずにいた。


 でも今は、怖いまま相談会へ行こうとしている。


 それは、逃げではないのかもしれない。


 午後、凛はキャリアセンターの小さな面談室にいた。


 白い机。


 資料の入ったファイル。


 柔らかい色の椅子。


 相談員の女性は、以前と同じ人だった。


「朝比奈さん、また来てくれてありがとうございます」


 その言葉に、凛は少し驚いた。


 また来てくれて。


 そう言われるだけで、少しだけ迎え入れられた気がした。


「今日は、自分に合う働き方について考えたい、ということで大丈夫ですか?」


「はい」


 凛は膝の上で手を握った。


「前回、働くことが怖いって話をして」


「はい」


「それから少し考えて……私、働きたくないんじゃなくて、壊れる働き方が怖いんだと思いました」


 言った瞬間、胸が少し震えた。


 でも、言えた。


 相談員はゆっくり頷いた。


「大事な気づきですね」


 その言葉に、凛の肩が少しだけ下がった。


 否定されなかった。


 甘えだと言われなかった。


 大事な気づきだと言われた。


「壊れる働き方、というのは、具体的にどんな働き方を想像していますか?」


 凛は少し考える。


 青いノートへ書いた言葉を思い出す。


「人の顔色をずっと見なきゃいけない場所」


「休みにくい場所」


「苦しいと言えない場所」


「ミスをした時に、すぐ自分の価値がなくなるように感じる場所」


「あと……毎日、普通のふりをし続けないといけない場所です」


 言葉にすると、胸が少し痛くなった。


 でも、輪郭が見えてくる。


 相談員はメモを取りながら、静かに頷いた。


「朝比奈さんにとっては、仕事内容だけでなく、環境や人間関係の負荷がかなり大きいんですね」


「……はい」


「では、逆に、どんな環境なら少し安心できそうですか?」


 凛は言葉に詰まった。


 怖いものはたくさん言える。


 でも、安心できるものを聞かれると、すぐには答えが出ない。


 安心。


 その言葉は、最近ずっと凛の中にある。


 真白といる時。


 七海と本音を話す時。


 灯から「わかる」と届く時。


 青いノートへ書く時。


 それらは確かに安心に近い。


 でも、それを働く環境へ置き換えるのは難しかった。


「……静かなところ」


 凛はゆっくり言った。


「人が多すぎないところ」


「急に大きい声が飛び交わないところ」


「一人で集中する時間があるところ」


「言葉を使う仕事……文章を読んだり、書いたり、整理したりすることなら、少しできるかもしれないです」


 言いながら、顔が熱くなる。


 文章。


 書くこと。


 自分の中で大事になり始めているものを、現実の相談の場で口にした。


 それが少し恥ずかしく、でも少し嬉しかった。


 相談員は否定せず、資料を開いた。


「文章に関わる仕事にも色々あります。ライター、編集、広報、事務で文章作成が多い仕事、Web更新、校正補助などもあります」


 聞き慣れない職種が並ぶ。


 凛は少し圧倒された。


 でも同時に、胸の奥が少しだけ明るくなる。


 言葉に関わる仕事は、作家だけではない。


 文章を書くことを、いきなり夢や才能の話にしなくてもいい。


 もっと小さな入口があるのかもしれない。


「もちろん、どの仕事も楽というわけではありません」


 相談員は続けた。


「でも、自分が何に負担を感じやすく、何なら少し力を使いやすいのかを知ることは、選択肢を絞る上でとても大切です」


 凛は静かに頷いた。


 自分が何に負担を感じやすいのか。


 何なら少し力を使いやすいのか。


 今まで凛は、自分の苦しさをただ“弱さ”としてしか見ていなかった。


 でも今は、それを情報として見てもいいのかもしれない。


 自分を責める材料ではなく、自分に合う形を探すための手がかりとして。


 面談の終わりに、相談員は一枚の紙をくれた。


「今日話したことを、家でゆっくり書き出してみてください。得意なこと、苦手なこと、安心しやすい環境、不安になりやすい環境。完璧に書かなくて大丈夫です」


 凛は紙を受け取った。


「ありがとうございます」


「朝比奈さんは、自分の感覚を言葉にする力があると思います」


 その言葉に、凛は顔を上げた。


「え?」


「今日の説明、とても具体的でした。自分の苦しさを言葉にできることは、働き方を考える上でも強みになりますよ」


 強み。


 その言葉に、凛の胸が強く揺れた。


 自分の苦しさを言葉にすること。


 それはずっと、凛にとって“面倒な性質”だと思っていた。


 考えすぎる。


 感じすぎる。


 細かく言葉にしすぎる。


 でも、それが強みになることもあるのだろうか。


 面談室を出たあと、凛は廊下の隅で立ち止まった。


 手には相談員からもらった紙。


 胸の奥には、小さな熱。


 まだ未来は怖い。


 働くことも怖い。


 でも、初めて少しだけ、自分の生きづらさが未来の手がかりになる可能性を感じた。


 弱さだと思っていたものが、全部ではなくても、どこかで使えるものになるのかもしれない。


 凛はすぐに真白へメッセージを送った。


『相談会、行ってきました』


 既読はすぐについた。


『お疲れさま。どうだった?』


『怖かったけど、行ってよかったです』


『文章に関わる仕事の話も少ししました』


 送信した瞬間、胸が少し緊張する。


 真白からすぐに返事が来た。


『いいね』


『凛ちゃんの言葉が、ちゃんと未来の方へ伸び始めてる感じする』


 その一文を見て、凛は目の奥が熱くなった。


 未来の方へ伸び始めている。


 今まで凛の言葉は、過去の痛みへ戻るものだった。


 苦しかったこと。


 怖かったこと。


 傷ついたこと。


 でも今、それが少しずつ未来へ伸びている。


 働き方。


 書くこと。


 生きる形。


 そういうものへ、ゆっくり繋がり始めている。


『でもまだ怖いです』


 凛は送った。


『怖いままでいいと思う』


『怖いまま、少しずつ見ればいいよ』


 真白の返事は、いつも急がない。


 頑張れ、と背中を押しすぎることもない。


 でも、立ち止まっている凛の隣にいてくれる。


 その距離感が、凛にはとてもありがたかった。


 その日の夕方、凛は母からのメッセージを見た。


『最近寒いから、体調気をつけてね。ご飯食べてる?』


 いつものような内容。


 けれど、凛は少しだけ違う気持ちでその文章を見た。


 以前なら、母からの連絡を見るだけで少し身構えていた。


 ちゃんとしているか確認されているように感じた。


 でも今日は、その中に心配もあるのだと思えた。


 もちろん、すべてが優しさに変わったわけではない。


 過去の傷は残っている。


 母の言葉に苦しんできた時間も消えない。


 でも、母もまた不器用な人だった。


 安心のさせ方を知らなかった人。


 普通でいることが安全だと信じていた人。


 そう思うと、少しだけ母の言葉が違って見える。


 凛は返信を打った。


『食べてるよ。今日は大学の相談会に行ってきた』


 少し迷って、続ける。


『自分に合う働き方を考えるやつ』


 送信。


 母からの返事は少し時間を置いて届いた。


『そうなんだ。いいと思う。凛が無理しすぎない働き方を探せるといいね』


 その文を読んだ瞬間、凛は息を止めた。


 無理しすぎない働き方。


 母の口から、そんな言葉が返ってくるとは思わなかった。


 以前なら、「ちゃんと就職しなさい」と言われると思っていた。


 普通の道を勧められると思っていた。


 でも母は今、無理しすぎない働き方と言った。


 凛はスマートフォンを見つめたまま、少しだけ泣きそうになった。


 母も変わろうとしているのかもしれない。


 不器用なまま。


 完全ではないまま。


 それでも、凛の言葉を少しずつ受け取ろうとしているのかもしれない。


 凛は短く返した。


『うん。探してみる』


 それだけだった。


 でも、凛にとっては大きな返信だった。


 夜、凛は青いノートを開いた。


 今日は書きたいことがたくさんあった。


 真白に「大事な人」と言われたこと。


 相談会へ行けたこと。


 文章に関わる仕事の話をしたこと。


 母が「無理しすぎない働き方」と言ってくれたこと。


 全部が、胸の中で静かに繋がっている。


 凛はペンを持ち、ゆっくり書いた。


『大事な人がいると、未来が少し怖くなる。

失いたくないものが増えるから。

でも、大事な人がいると、未来を少し信じたくもなる。

その人に会いたいから。

話したいから。

自分を壊さずに生きる方法を探したいと思えるから。』


 書きながら、凛の胸がじんわり熱くなった。


 真白は凛の未来を全部救ってくれる人ではない。


 真白がいるから、就活の不安が消えるわけではない。


 母との傷がなくなるわけでもない。


 でも、真白が大事な人になったことで、凛は少しだけ思うようになった。


 もう少し生きてみたい。


 壊れない形を探してみたい。


 書き続けてみたい。


 その気持ちは、凛の中の“生きたい側”を静かに育てていた。


 凛はさらに書く。


『私はまだ、普通に生きることが怖い。

でも、普通に生きることだけが未来じゃないのかもしれない。

私には、私の速度がある。

私には、私が壊れない形を探す権利がある。』


 権利。


 その言葉を書いた瞬間、凛は少し驚いた。


 自分に権利がある。


 そんなふうに考えたことは、今までほとんどなかった。


 凛はいつも、許可を求めていた。


 休んでいいか。


 苦しんでいいか。


 甘えていいか。


 普通じゃなくてもいいか。


 でも本当は、許可ではなく権利だったのかもしれない。


 自分を守る権利。


 自分に合う生き方を探す権利。


 壊れない未来を選ぼうとする権利。


 凛は深く息を吐いた。


 部屋は静かだった。


 でもその静けさは、以前のような孤独だけではなかった。


 机の上には青いノートがある。


 スマートフォンには真白や七海や灯や母との言葉が残っている。


 凛は一人で部屋にいる。


 でも、もう完全な一人ではない。


 そのことが、少しだけ心を支えていた。


 最後に、凛はページの下へ小さく書いた。


『大事な人がいる未来を、少しだけ信じたい。

その未来の中で、私は私を置き去りにしないでいたい。』


 書き終えると、凛はノートを閉じた。


 窓の外では、冬の夜が静かに深まっている。


 まだ怖い。


 でも、怖いだけではない。


 そのことを、凛は少しずつ覚え始めていた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、凛が「大事な人」という言葉を胸に、自分の未来へ少しだけ向き合うページでした。

真白との関係にまだ名前はありません。

けれど、「大事な人」と言われたことで、凛の中には少しずつ“未来を信じたい”という感情が生まれ始めます。


キャリアセンターで、自分に合う働き方を考えること。

文章に関わる仕事の可能性を聞くこと。

母から「無理しすぎない働き方を探せるといいね」と言われること。


どれも小さな出来事ですが、凛にとっては大きな変化でした。


普通に生きることだけが未来ではない。

自分が壊れない形を探す権利がある。

凛はそのことを、少しずつ自分の言葉で掴み始めています。


次のページでは、凛が自分の文章をまとめ始め、“作品”として誰かへ届けることへの怖さと向き合っていきます。

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