第107ページ 私の痛みを、作品と呼んでもいいですか
凛は、自分が壊れない働き方を探してもいいのだと、少しずつ思い始めた。
文章に関わる仕事。
自分の言葉を、誰かへ届けること。
それはまだ夢というには怖すぎるけれど、凛の中で確かに小さな灯りになっていた。
今回は、凛がこれまで書いてきた文章を初めて“作品”としてまとめようとするページです。
自分の痛みを誰かに渡す怖さと、それでも届けてみたい願いの間で、凛はまた一歩進もうとします。
夜の部屋は静かだった。
デスクライトの明かりだけが、机の上を白く照らしている。
凛は青いノートを開いたまま、しばらく何も書けずにいた。
机の上には、これまで書いてきたノートが何冊か積まれている。
大学の課題用ではない。
就活のメモでもない。
誰かへ提出するためのものでもない。
ただ、凛が苦しい夜に書いてきた言葉たちだった。
普通になれなかったこと。
母へ言えなかったこと。
就活が怖かったこと。
働くことが怖かったこと。
真白へ会いたいと思ったこと。
七海と一緒に休んだ日のこと。
灯から届いた「わかる」に救われたこと。
そして、自分の中にある生きづらさへ、少しずつ名前をつけてきたこと。
その全部が、ノートの中にあった。
凛は一冊目のノートを開く。
最初のページには、少し震えた文字でこう書かれている。
『私はずっと、“普通”になりたかった。』
その一文を見た瞬間、胸の奥が静かに痛んだ。
まだ最近のことなのに、ずいぶん遠い日の自分の言葉のようにも感じる。
あの時の凛は、ただ苦しかった。
普通になれない自分を責めていた。
人と同じようにできないことが怖くて、社会へ出る未来が真っ暗に見えて、毎日呼吸するだけで精一杯だった。
でも今、その一文を読み返すと、少しだけ違って見える。
それは弱音ではなかった。
生き延びようとしていた人の言葉だった。
凛はページをめくる。
真白に文章を見せた日のこと。
灯へ送った一文。
SNSへ投稿した短い言葉。
知らない誰かから届いた「わかる」。
ひとつひとつ読み返すたび、凛は胸の中に小さな波が立つのを感じた。
恥ずかしい。
拙い。
まとまっていない。
でも、嘘ではなかった。
どの言葉も、その時の凛が本当に感じていたものだった。
凛は青いノートの新しいページへ、ゆっくり書いた。
『これまで書いたものを、まとめてみたい。』
書いた瞬間、心臓が少し強く鳴った。
まとめる。
それは、ただノートへ吐き出すこととは違う。
誰かへ見せる可能性を持たせること。
“文章”として形にすること。
もしかしたら、“作品”と呼べるものに近づけること。
その言葉が浮かんだ瞬間、凛は怖くなった。
作品。
そんな大げさなものではない。
自分の書いてきたものは、ただの弱音だ。
日記のようなものだ。
泣き言の寄せ集めだ。
作品なんて呼んだら、笑われるかもしれない。
調子に乗っていると思われるかもしれない。
けれど、胸の奥には別の小さな声もあった。
それでも、形にしてみたい。
誰かへ渡せるものにしてみたい。
自分の痛みを、ただ痛みのまま終わらせるのではなく、誰かの夜にそっと置ける言葉にしてみたい。
凛はペンを握ったまま、長く息を吐いた。
「……怖い」
小さく呟く。
でも、最近の凛は知っている。
怖いからといって、全部やめなくてもいいことを。
怖いままでも、少しだけ進めることを。
凛はスマートフォンを手に取り、真白へメッセージを送った。
『今まで書いた文章を、少しまとめてみたいと思ってます』
送信した瞬間、胸が跳ねた。
すぐに既読がつく。
『いいね』
たった一言。
でも、その一言で凛の胸は少し緩んだ。
『でも怖いです』
『作品みたいにするの、変じゃないかなって』
真白から返事が来る。
『変じゃないよ』
『凛ちゃんが自分の言葉を大事にしたいと思ったなら、それはもう十分、作品に近づいてると思う』
凛は画面を見つめたまま、目の奥が熱くなるのを感じた。
自分の言葉を大事にしたい。
そうだ。
これは、上手い文章を書きたいというだけではない。
誰かに褒められたいというだけでもない。
凛は、自分が必死で生きてきた証を、雑に扱いたくなかった。
苦しかったこと。
怖かったこと。
消えたいと思った夜。
それでも誰かへ「会いたい」と言えた夜。
それらを、ただ恥ずかしいものとして隠すのではなく、大切に拾い上げたい。
凛はもう一度ノートへ向かった。
パソコンを開く。
真っ白な文書ファイル。
そこへ、タイトルを打った。
『生きづらさに、名前をつけるなら』
画面に文字が表示された瞬間、凛の胸が大きく震えた。
このタイトルは、ずっと凛の中にあった。
苦しさに名前をつけたい。
普通になれない自分を責める前に、その苦しさが何なのか知りたい。
そう願ってきた時間が、このタイトルに詰まっている。
凛は少し迷ってから、最初の文章を打ち込んだ。
『私はずっと、“普通”になれない自分を責めていた。』
そこから、ノートの言葉を少しずつ写していく。
ただそのまま打ち込むだけではなく、少し整える。
読みにくいところを直す。
何度も同じことを書いている部分をまとめる。
けれど、整えすぎると、今度は生々しさが消える気がした。
凛は手を止める。
難しい。
文章をまとめるというのは、自分の痛みをもう一度触り直すことだった。
雑に触ると傷つく。
でも触らなければ、形にならない。
凛は深呼吸しながら、少しずつ進めた。
ページの途中で、母との電話の場面が出てくる。
『普通になろうとして、ずっと苦しかった』
その言葉を打ち込んだ瞬間、また胸が痛んだ。
母へ伝えた時の震え。
電話の向こうで母が黙った時間。
そして、母が言った「苦しかったよね」という言葉。
凛はキーボードの上で指を止めた。
あの会話で、全てが解決したわけではない。
母との関係は、まだ複雑なままだ。
けれど、あの日を境に、凛の中で少し何かが変わった。
母はただの“苦しみを与えた人”ではなくなった。
不器用で、怖がりで、安心のさせ方を知らなかった人として、少しだけ見えるようになった。
それは許しではない。
でも、理解の始まりだった。
凛はそのことも書きたいと思った。
人を許せない自分。
でも、憎みきれない自分。
その間で揺れることも、きっと生きづらさの一部だから。
次に、真白のことを書く場面で手が止まった。
真白は、凛にとって大事な人だった。
けれど、作品の中にどこまで書けばいいのだろう。
名前を変えるべきだろうか。
関係をぼかすべきだろうか。
自分の感情を書くことは、真白のことも巻き込むことになる。
それが怖かった。
凛はスマートフォンを手に取り、真白へ送った。
『真白さんのことを書くの、少し怖いです』
既読。
『どうして?』
『私の気持ちを書くと、真白さんのことも入ってしまうから』
『勝手に書いていいのかなって』
少し間があった。
それから真白の返事が来た。
『凛ちゃんが感じたことを書くのは、凛ちゃんのものだよ』
『ただ、俺本人を説明するんじゃなくて、“凛ちゃんから見えた俺”を書くなら、それは凛ちゃんの言葉なんだと思う』
凛はその文章を何度も読んだ。
凛から見えた真白。
そうかもしれない。
凛が書けるのは、真白そのものではない。
真白に出会って、凛が何を感じたか。
どんな言葉に救われたか。
どんな瞬間に怖くなったか。
それは凛の心の記録だった。
『でも、もし嫌なところがあったら言ってください』
凛が送ると、真白はすぐに返してきた。
『うん。読む機会があればちゃんと言う』
『でも、凛ちゃんが俺を大事に書こうとしてくれてるのは伝わる』
その言葉で、凛は少し泣きそうになった。
大事に書く。
そうしたかった。
真白のことも。
七海のことも。
灯のことも。
母のことも。
自分の痛みも。
誰かを悪者にするだけの文章にはしたくなかった。
でも、綺麗ごとだけにもしたくなかった。
傷ついたことは傷ついたこととして書きたい。
苦しかったことは苦しかったと書きたい。
その上で、それぞれの人の不器用さや弱さも、できるだけ丁寧に見つめたい。
それはとても難しいことだと思った。
でも、凛はそういう文章を書きたかった。
翌日、凛は大学の空き時間に図書館へ行った。
静かな場所で、昨日作り始めた文書を開く。
パソコンの画面に、少しずつ文章が並んでいる。
まだ作品と呼ぶには粗い。
章立てもできていない。
言葉も重なっている。
でも、そこには凛の歩いてきた時間があった。
凛は最初に章のタイトルをつけてみることにした。
『普通になりたかった私へ』
『苦しいと言えなかった夜』
『会いたいと送った日』
『壊れない働き方を探す』
『名前のない大事な人』
タイトルを打つたび、胸が少しずつ熱くなる。
これは、自分の物語だ。
でも、自分だけの物語ではない気もした。
灯の「わかる」。
七海の「人間じゃん」。
真白の「大事な人」。
母の「苦しかったよね」。
それらの言葉が、凛の物語の中に静かに息づいている。
昼休み、七海が図書館の入口まで来て、凛を見つけた。
「いたいた」
「どうしたの?」
「一緒にご飯行こうと思って」
七海は凛のパソコン画面を覗き込みかけて、すぐに止まった。
「あ、ごめん。見ていいやつ?」
その気遣いに、凛は少し胸が温かくなる。
以前なら、隠したかもしれない。
でも今は、少しだけ見せたいと思った。
「少しなら」
凛は画面を七海の方へ向けた。
七海はタイトルだけ読んだ。
『生きづらさに、名前をつけるなら』
七海はしばらく黙っていた。
そして、小さく言った。
「めっちゃ凛ちゃんだね」
凛は少し恥ずかしくなる。
「変?」
「全然」
七海は真面目な顔で首を振った。
「すごくいい」
その言葉に、凛の胸がじわりと熱くなる。
「まだ全然まとまってないけど」
「いいじゃん。最初からまとまってる方が怖いよ」
「そう?」
「うん。生きづらさなんて、そもそもぐちゃぐちゃじゃん」
七海のその言葉に、凛は思わず笑った。
でも、その通りだと思った。
生きづらさは、綺麗に整理されたものではない。
昨日は平気だったことが、今日は無理になる。
大事な人ができて嬉しいのに、同時に怖くなる。
母を嫌いきれないのに、傷ついたことも消えない。
働きたい気持ちと、働くのが怖い気持ちが同時にある。
ぐちゃぐちゃで、矛盾していて、説明しにくい。
だからこそ、言葉にする意味があるのかもしれない。
「凛ちゃんさ」
七海が言った。
「これ、いつかちゃんと読ませてね」
凛の胸が跳ねる。
「怖い」
「うん。怖いと思う」
「でも読みたい」
七海の目は、茶化していなかった。
凛は少しだけ頷いた。
「……いつか」
「うん。いつかでいい」
その“いつかでいい”が、ありがたかった。
今すぐではなくていい。
完成してからでもいい。
見せられると思えた時でいい。
急かされないことは、凛にとって大きな安心だった。
夜、凛は『cafe 月灯り』へ行った。
店内は静かで、真白はカウンターで豆を補充していた。
「今日は図書館で書いてた?」
真白が聞く。
「なんでわかるんですか」
「なんとなく。顔が“書いてきた人”だった」
凛は少し笑った。
いつもの席に座り、温かい紅茶を受け取る。
湯気が白く立ち上る。
「少し、まとめ始めました」
「うん」
「章のタイトルもつけてみました」
「いいね」
凛はバッグから青いノートを出した。
パソコンは持ってきていない。
でも、章のタイトルをノートに写してきた。
凛はそれを真白へ見せる。
真白は静かに読んだ。
『普通になりたかった私へ』
『苦しいと言えなかった夜』
『会いたいと送った日』
『壊れない働き方を探す』
『名前のない大事な人』
最後のタイトルを見た時、真白の指が少しだけ止まった気がした。
凛は顔が熱くなる。
「すみません」
「何が?」
「なんか、勝手に」
「いいタイトルだと思った」
真白は穏やかに言った。
凛は少しだけ目を伏せる。
「名前のない大事な人、って」
「うん」
「それ、今の凛ちゃんの大切な言葉だよね」
凛は静かに頷いた。
本当にそうだった。
恋人でも、友達でも、ただの客と店員でもない。
でも、大事な人。
その曖昧で温かい場所を、今の凛は急いで壊したくなかった。
「作品にするの、怖いです」
凛は言った。
「うん」
「自分の痛みを、形にするのが怖い」
「うん」
「誰かに読まれたら、もうただの私の中のものじゃなくなる気がする」
真白は静かに聞いていた。
「でも、読まれないまま閉じ込めておくのも、少し違う気がして」
凛は紅茶を見つめる。
「誰かに渡してみたいんです」
「怖いけど」
真白は小さく頷いた。
「それが、“書きたい”ってことなのかもね」
凛は顔を上げる。
「書きたい?」
「うん」
「怖いけど、渡してみたい」
「自分の中だけに閉じ込めておけない」
「誰かに届いたらいいと思う」
真白は静かに言った。
「それって、多分すごく大事な衝動だと思う」
衝動。
その言葉は少し強くて、でも今の凛にはしっくりきた。
書かなくても生きていけるかもしれない。
でも書かずにはいられない夜がある。
誰にも見せない方が安全かもしれない。
でも、それでも誰かへ渡してみたいと思ってしまう。
それは確かに、衝動に近かった。
その夜、家へ帰った凛は、パソコンを開いた。
文書ファイルのタイトルを見つめる。
『生きづらさに、名前をつけるなら』
凛は深呼吸し、本文の最初に一文を加えた。
『これは、普通になれなかった私が、普通になれないまま生きる方法を探し始めた記録です。』
書き終えた瞬間、涙が一粒落ちた。
普通になれないまま生きる。
それは、凛がずっと避けてきたことだった。
普通になる方法ばかり探していた。
普通になれない自分を責めていた。
でも今は違う。
普通になれないままでも、生きる方法を探したい。
その言葉を、凛は初めて自分の文章の最初に置いた。
それはまだ完成ではない。
むしろ、始まりだった。
自分の痛みを作品と呼ぶには、まだ怖い。
でも、痛みを言葉にして、大事に整えて、誰かへ渡そうとしている。
その行為そのものが、凛にとってはもう、作品へ向かう道なのかもしれなかった。
凛は青いノートを開き、今日の最後に書いた。
『私の痛みを、作品と呼んでもいいですか。
まだ怖い。
でも、私はこの痛みを、ただ隠すだけで終わらせたくない。
誰かの夜に、そっと置ける言葉にしたい。』
書き終えたあと、凛はペンを置いた。
部屋は静かだった。
でも、凛の中には小さな熱があった。
不安とは違う。
焦りとも違う。
それは、何かを作り始めた人の胸に灯る、頼りないけれど確かな熱だった。
凛はパソコンの画面をもう一度見た。
まだ短い文章。
まだ粗い章立て。
まだ誰にも見せられない未完成の作品。
でもそこには、凛がいた。
苦しみながら。
怖がりながら。
それでも言葉を選び、自分の生きづらさへ名前をつけようとしている凛がいた。
凛は静かに思った。
いつか、これを誰かに読んでもらいたい。
そしてもし、その誰かが、自分だけじゃないと思ってくれたら。
それだけで、この痛みにも少し意味が生まれる気がした。
冬の夜は深い。
けれど、机の上のデスクライトはまだ消えない。
凛はもう一度キーボードへ指を置いた。
怖いまま。
未完成のまま。
それでも、次の一文を書き始めた。
第107ページ 後書き
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、凛がこれまで書いてきた言葉を初めて“作品”としてまとめ始めるページでした。
ノートに吐き出してきた苦しさ。
SNSへ投稿した短い言葉。
母との会話、真白との時間、七海や灯とのやり取り。
それらはすべて、凛が生きづらさに名前をつけてきた記録でした。
作品にすることは、自分の痛みにもう一度触れることでもあります。
怖いし、恥ずかしい。
けれど凛は、その痛みをただ隠すだけで終わらせたくないと思い始めました。
「普通になれなかった私が、普通になれないまま生きる方法を探し始めた記録」
その一文から、凛の作品は静かに動き出します。
次のページでは、凛が作品を書き進める中で、過去の自分と向き合い、幼い頃の孤独をもう一度見つめ直していきます。




