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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第108ページ  小さな私が、ずっと待っていた


凛は、自分の痛みを“作品”としてまとめ始めた。

それは、過去を綺麗に飾るためではなく、普通になれなかった自分が、それでも生きる方法を探してきた記録だった。


今回は、凛が作品を書き進める中で、幼い頃の孤独と向き合うページです。

「大丈夫」と笑っていた小さな自分へ、凛は初めて言葉を届けようとします。



 パソコンの画面には、まだ短い文章が並んでいた。


『これは、普通になれなかった私が、普通になれないまま生きる方法を探し始めた記録です。』


 その一文を打ったあと、凛はしばらく動けなかった。


 部屋は静かだった。


 デスクライトの白い光が、キーボードの上へ落ちている。


 窓の外には冬の夜が広がり、遠くを走る車の音だけがかすかに聞こえた。


 凛は画面を見つめながら、胸の奥がじわじわ熱くなるのを感じていた。


 作品にする。


 そう決めた瞬間、今までノートの中に閉じ込めていた記憶が、少しずつ扉を叩き始めた。


 母との電話。


 就活の不安。


 真白の言葉。


 七海の笑顔。


 灯から届いた「わかる」。


 その全部を書く前に、凛にはどうしても戻らなければならない場所があった。


 幼い頃の自分。


 ずっと「大丈夫」と言い続けてきた、小さな凛。


 凛はキーボードへ指を置いた。


 けれど、すぐには打てなかった。


 幼い頃の記憶を書くのは、怖かった。


 そこにはまだ、言葉にしていない寂しさがたくさん眠っている。


 見ないふりをしてきた痛みがある。


 今さら触れたら、また苦しくなるかもしれない。


 でも、それでも書かなければいけない気がした。


 今の凛が生きづらさに名前をつけようとしているなら、その始まりを避けることはできない。


 凛は深く息を吸い、ゆっくり打ち始めた。


『私は、子どもの頃から大丈夫なふりが上手だった。』


 その一文を打った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。


 大丈夫なふり。


 それは凛が最初に覚えた生き方だった。


 泣きたい時に泣かない。


 寂しい時に寂しいと言わない。


 母が疲れている時は、静かにする。


 何かを欲しがる時は、先に諦める。


 そうすれば、母を困らせずに済むと思っていた。


 そうすれば、嫌われずに済むと思っていた。


 凛は続きを打つ。


『母はいつも忙しそうで、疲れていた。

私は母を困らせたくなかった。

だから、学校で嫌なことがあっても、友達の輪に入れなくても、家ではなるべく笑っていた。

大丈夫、と言えば、母は少し安心した顔をした。

その顔を見るたび、私は「大丈夫でいること」がいい子でいる方法なのだと思った。』


 打ちながら、凛の目に涙が滲んだ。


 思い出したのは、小学校の帰り道だった。


 ランドセルが重くて、足が痛くて、それでも家へ帰るまで泣かなかった日のこと。


 教室で、みんなの笑い声の中に入れなかった。


 何を話せばいいかわからず、机の端で鉛筆を握っていた。


 誰かが凛のことを嫌っていたわけではない。


 いじめられていたわけでもない。


 でも、凛にはずっと透明な壁があった。


 みんなの会話の速度に追いつけない。


 笑うタイミングがわからない。


 表情を読みすぎて疲れる。


 帰る頃には、頭の中がぐったりしていた。


 それでも家に着くと、凛は母に言った。


『楽しかったよ』


 母はその言葉を聞いて、少しだけ笑った。


『よかった』


 その笑顔が欲しくて、凛はまた次の日も「楽しかった」と言った。


 本当は、楽しかっただけではなかった。


 寂しかった。


 疲れた。


 自分だけうまくできない気がして怖かった。


 でも、それを言うと母が困る気がした。


 凛はその記憶を、文章へ変えていった。


 書いているうちに、胸が苦しくなる。


 でも、不思議と手は止まらなかった。


 まるで、ずっと誰かに見つけてもらうのを待っていた小さな凛が、ようやく声を出し始めたみたいだった。


『私は、子どもなのに、母の顔色ばかり見ていた。

母が疲れている日は、話しかけない。

母が機嫌のいい日は、少しだけ近づく。

母がため息をついたら、自分が悪いことをしたのだと思う。

そうやって私は、母の感情を天気予報みたいに読もうとしていた。』


 打ったあと、凛は手を止めた。


 天気予報。


 その表現に、自分で胸が痛くなる。


 母の機嫌は、凛にとって天気のようなものだった。


 晴れていれば安心できる。


 曇っていれば静かにする。


 嵐になりそうなら、息を潜める。


 小さな凛は、ずっとそうやって暮らしていた。


 誰も、凛にそんなことをしろとは言わなかった。


 でも凛は覚えてしまった。


 相手の表情を読むこと。


 声色を拾うこと。


 空気を乱さないこと。


 自分の感情を後回しにすること。


 それが、幼い凛の生存方法だった。


 今の凛が人の顔色を読みすぎるのは、性格の問題だけではなかった。


 弱いからでも、考えすぎだからでもない。


 そうしないと安心できなかった時間が、長すぎたのだ。


 凛は涙を拭い、青いノートを開いた。


 パソコンへ打つには少し苦しすぎる感情を、まずノートへ置きたかった。


『小さな私は、ずっと母を困らせないようにしていた。

でも、本当は私も困っていた。

誰かに、大丈夫じゃないよね、と聞いてほしかった。』


 その一文を書いた瞬間、涙がぽろりと落ちた。


 大丈夫じゃないよね。


 誰かにそう言ってほしかった。


 学校で疲れて帰ってきた日。


 母のため息を聞いて胸が縮んだ日。


 友達の輪に入れず、家へ帰ってから一人で布団に潜った日。


 そんな時、凛はずっと待っていたのかもしれない。


 誰かが気づいてくれることを。


 大丈夫なふりをしている小さな自分を見つけてくれることを。


 でも誰も来なかった。


 だから凛は、自分で自分の気持ちを見ないようになった。


 苦しいことへ名前をつける前に、飲み込むようになった。


 それが大人になった今も続いていた。


 凛は青いノートを胸へ抱えた。


「……ごめんね」


 誰へ向けた言葉なのか、すぐにはわからなかった。


 でも多分、小さな凛へだった。


 ずっと置き去りにしてきた自分。


 大丈夫じゃなかったのに、大丈夫と言わせ続けた自分。


 凛は小さく呟く。


「本当は、寂しかったよね」


 声に出した瞬間、胸の奥で何かが崩れた。


 涙が止まらなくなる。


 悲しいというより、ようやく見つけたような涙だった。


 凛はそのまましばらく泣いた。


 誰にも見せない涙。


 でも、もう隠すための涙ではなかった。


 小さな自分へ会いに行くための涙だった。


 少し落ち着いてから、凛は真白へメッセージを送った。


『幼い頃のことを書いてたら、泣いてしまいました』


 送ってから、少しだけ迷った。


 重かったかもしれない。


 でも、今は一人で抱えたくなかった。


 既読がつく。


『そっか』


『ちゃんと触ったんだね』


 その返事を見た瞬間、また涙が滲んだ。


 ちゃんと触った。


 そう言われると、苦しくなったことも少し意味を持つ気がした。


『苦しいです』


 凛は送った。


『でも、書かなきゃいけない気がします』


 真白から少し間を置いて返事が来た。


『書かなきゃいけない、じゃなくて、書いてあげたい、でもいいかも』


 凛はその言葉を何度も読んだ。


 書いてあげたい。


 小さな自分のために。


 大丈夫と笑っていた子のために。


 誰にも気づいてもらえなかった寂しさのために。


 凛はスマートフォンを握りしめた。


『書いてあげたい、の方が優しいですね』


『うん』


『今の凛ちゃんが、昔の凛ちゃんに会いに行ってる感じがする』


 凛は目を閉じた。


 昔の凛ちゃんに会いに行く。


 その表現は、とても静かに胸へ落ちた。


 作品を書くことは、誰かへ届けるためだけではない。


 過去の自分へ会いに行くことでもあるのかもしれない。


 ずっと待っていた小さな自分へ。


 もう一人じゃないよ、と伝えることなのかもしれない。


 翌日、凛は大学へ向かう電車の中で、少しぼんやりしていた。


 昨日泣いたせいで、目が少し重い。


 でも胸の奥は、不思議と昨日より少し静かだった。


 幼い頃の記憶へ触れた痛みは残っている。


 でも、その痛みの中に、ほんの少しだけ温かさもあった。


 小さな凛を見つけられたから。


 大丈夫じゃなかったと、今の自分が認めてあげられたから。


 大学へ着くと、七海がすぐ凛の顔を見て言った。


「泣いた?」


 凛は少し驚く。


「わかる?」


「目が泣いた人」


「そんな顔ある?」


「ある」


 七海は当然みたいに言い、隣へ並んだ。


「大丈夫?」


 凛は少し考えた。


 以前なら、反射的に「大丈夫」と言った。


 でも今は、少し違う言葉を探す。


「……大丈夫、ではあるけど、少し痛い」


 七海は静かに頷いた。


「何が?」


「作品を書いてて、子どもの頃のこと思い出した」


「そっか」


 七海はそれ以上、すぐには聞かなかった。


 ただ隣を歩いてくれた。


 その沈黙がありがたかった。


 人は、苦しい話をした時に、すぐ正解を返してほしいわけではないのかもしれない。


 ただ隣にいてほしい時がある。


 七海はそれが自然にできる人だった。


 昼休み、凛は七海と学食の端の席に座った。


 周りは騒がしかったけれど、二人の間には小さな静けさがあった。


「書くのってさ」


 七海がポテトをつまみながら言った。


「自分をえぐる時あるよね」


 凛は少し笑った。


「七海ちゃん、表現が痛い」


「でもそうじゃない?」


「そう」


 凛は頷いた。


「昨日、本当にそんな感じだった」


「でも、書いたあと少し楽?」


 凛は考える。


「楽というより……見つけた感じ」


「何を?」


「小さい頃の自分」


 七海は少しだけ表情を柔らかくした。


 凛は続けた。


「ずっと大丈夫って言ってた子がいて」


「うん」


「でも本当は寂しかったんだなって」


「うん」


「昨日、やっと気づいた」


 七海はしばらく黙っていた。


 そして、小さく言った。


「凛ちゃん、その子に優しくしてあげなね」


 その一言で、凛の胸がまた熱くなった。


「うん」


 本当に、そうしたいと思った。


 小さな凛を責めるのではなく、抱きしめたい。


 どうして言えなかったの、と責めるのではなく、言えなかったよね、と言いたい。


 よく頑張ったね、と言いたい。


 その日の夕方、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。


 店へ入ると、真白はカウンターの中でグラスを磨いていた。


「いらっしゃい」


「こんばんは」


 凛の顔を見た真白は、少しだけ目を細めた。


「昨日、かなり泣いた顔」


「みんなに言われます」


「みんなって?」


「七海ちゃん」


「七海ちゃん鋭いね」


 真白はそう言って、温かいココアを出してくれた。


「今日は甘い方がいい気がした」


 凛はカップを受け取り、小さく「ありがとうございます」と言った。


 甘い香りが胸の奥へ広がる。


 少し安心した。


「昨日書いたところ、少し話してもいいですか」


 凛が聞くと、真白は静かに頷いた。


「もちろん」


 凛は青いノートを開いた。


 パソコンに打つ前に書いた、幼い自分への言葉。


『小さな私は、ずっと母を困らせないようにしていた。

でも、本当は私も困っていた。

誰かに、大丈夫じゃないよね、と聞いてほしかった。』


 真白はその文章を読んで、しばらく黙っていた。


 沈黙が長くて、凛は少し不安になる。


 変だっただろうか。


 重かっただろうか。


 でも真白は、ゆっくり顔を上げて言った。


「これ、すごく大事なところだと思う」


 凛は息を止めた。


「大事?」


「うん」


 真白はノートへ視線を戻す。


「凛ちゃんの生きづらさって、多分ここからかなり始まってるんだと思う」


 凛は何も言えなかった。


 真白は続ける。


「大丈夫じゃないのに、大丈夫って言うこと」


「自分も困ってるのに、相手を困らせないようにすること」


「それがずっと続くと、自分が何を感じてるのかわからなくなる」


 凛の胸がじわりと痛む。


 本当にそうだった。


 凛はずっと、自分の感情より先に相手の反応を見てきた。


 母が困らないか。


 友達が離れないか。


 真白が重いと思わないか。


 そのせいで、自分が何を感じているのか、いつも後回しになっていた。


「でも、今の凛ちゃんは」


 真白は静かに言った。


「小さい凛ちゃんに気づいてあげてる」


 その言葉に、凛の目に涙が滲む。


「……遅すぎませんか」


「遅くないよ」


 真白はすぐに言った。


「今気づけたなら、今から会いに行ける」


 今から会いに行ける。


 凛はその言葉を胸の中で繰り返した。


 過去は変えられない。


 幼い凛が寂しかった時間を、なかったことにはできない。


 でも、今の凛がその子に気づくことはできる。


 あの時、大丈夫じゃなかったよね。


 寂しかったよね。


 よく頑張ったね。


 そう言ってあげることは、今からでもできる。


 凛は涙を拭いながら、静かに頷いた。


 夜、家へ帰った凛は、パソコンの前に座った。


 昨日書いた文章を開く。


 そして、続きを打った。


『小さな私は、ずっと誰かに見つけてほしかった。

大丈夫と笑うたび、本当は大丈夫じゃないことに気づいてほしかった。

けれど誰も気づかなかったから、私は自分でも気づかないふりをするようになった。

今なら、その子に言ってあげたい。

大丈夫じゃなかったよね。

寂しかったよね。

それでも、よくここまで生きてきたね。』


 打ち終えた時、凛は涙を流していた。


 でも、昨日とは少し違った。


 痛みだけではなかった。


 小さな凛へ、ようやく手紙を書けたような気がした。


 作品を書くことは、過去を暴くことではない。


 過去の自分へ会いに行くこと。


 置き去りにしてきた自分を、今の自分が迎えに行くこと。


 凛はそう思った。


 青いノートへ、最後に一文を書く。


『小さな私が、ずっと待っていた。

私は今、その子を迎えに行くために書いている。』


 書き終えると、胸の奥が少しだけ温かかった。


 窓の外では、冬の夜が静かに続いている。


 凛はパソコンの画面を見つめた。


 まだ作品は途中だ。


 まだ書けないこともたくさんある。


 でも、今日ひとつ、大切な場所へ辿り着けた気がした。


 小さな凛。


 大丈夫なふりをしていた凛。


 その子をもう一度、一人にしないために。


 凛は明日も、続きを書こうと思った。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、凛が作品を書き進める中で、幼い頃の孤独と向き合うページでした。

大丈夫じゃないのに、大丈夫と言っていた小さな凛。

母を困らせないために、自分の寂しさを飲み込んでいた凛。


その子は、ずっと誰かに見つけてもらうのを待っていました。


書くことは、過去をただ掘り返すことではありません。

置き去りにしてきた自分へ会いに行くこと。

そして、「よくここまで生きてきたね」と声をかけることでもあります。


凛は少しずつ、自分の痛みを責めるのではなく、抱きしめる方法を覚え始めています。


次のページでは、幼い自分と向き合った凛が、母への気持ちをもう一度整理し、「許す」と「理解する」の違いに向き合っていきます。

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