表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

109/130

第109ページ  許すことと、わかることは違う

幼い頃の自分と向き合った凛は、ずっと「大丈夫」と笑っていた小さな自分が、本当は誰かに見つけてほしかったのだと気づいた。

その痛みに触れたことで、凛の中には母への気持ちがもう一度浮かび上がってくる。


母を責めたい気持ち。

母も不器用だったのだと理解したい気持ち。

でも、簡単には許せない気持ち。


今回は、凛が「許す」と「理解する」は同じではないのだと知りながら、自分の傷を無理に綺麗に終わらせないことを選び始めるページです。

朝、凛は目覚ましの音より先に目を覚ました。


 部屋の中はまだ薄暗かった。


 カーテンの隙間から、冬の朝の白い光が細く差し込んでいる。


 布団の中は温かいのに、胸の奥だけが少し重かった。


 昨日、幼い頃の自分を書いた。


 大丈夫じゃなかったのに、大丈夫と笑っていた小さな凛。


 母を困らせないように、寂しいと言わなかった凛。


 学校で疲れても、友達の輪に入れなくても、家では「楽しかった」と言った凛。


 その子に、昨日初めて言葉を届けた。


 大丈夫じゃなかったよね。

 寂しかったよね。

 それでも、よくここまで生きてきたね。


 そう書いた時、凛はたくさん泣いた。


 泣いたあと、少しだけ胸が軽くなるのかと思った。


 けれど朝になって残っていたのは、軽さだけではなかった。


 むしろ、胸の奥にずしりとした感情が残っている。


 母への気持ちだった。


 母は、凛を傷つけたかったわけではない。


 それは今なら少しわかる。


 母もきっと必死だった。


 一人で働きながら、凛を育てて、自分の不安も疲れも抱えていた。


 普通でいることが安全だと思っていた。


 普通から外れることが怖かった。


 だから凛にも、「普通にしなさい」と言い続けた。


 その言葉が凛を守ると信じていたのかもしれない。


 でも。


 そう理解しようとするたび、胸の奥から別の声が上がる。


 でも、私は苦しかった。


 そう思う自分がいる。


 母にも理由があった。


 でも、私は寂しかった。


 母も不器用だった。


 でも、私はずっと大丈夫なふりをしていた。


 母を悪者にしたいわけじゃない。


 でも、自分の傷をなかったことにもしたくない。


 凛は布団の中で小さく息を吐いた。


「……難しい」


 ぽつりと呟く。


 母のことを考えると、いつも心が二つに割れる。


 責めたい自分。


 責めたくない自分。


 わかってあげたい自分。


 でも、わかってしまったら、自分の傷まで小さくなってしまう気がして怖い自分。


 凛はゆっくり起き上がり、机の上の青いノートを開いた。


 昨日の最後のページを読む。


『小さな私が、ずっと待っていた。

私は今、その子を迎えに行くために書いている。』


 その言葉を見た瞬間、また胸が少し熱くなる。


 凛は新しいページを開いた。


 ペンを持つ。


 しばらく迷ってから、ゆっくり書いた。


『母のことを理解したい。

でも、まだ許せないところがある。

理解したら、許さなきゃいけない気がして怖い。』


 書いた瞬間、心臓が少し強く鳴った。


 許せない。


 その言葉を書くことが怖かった。


 ひどい娘みたいだった。


 母を責める冷たい人間みたいだった。


 でも、それも本当だった。


 凛は母を完全には許せていない。


 大丈夫じゃないのに大丈夫と言い続けた時間。


 普通になれない自分を責め続けた時間。


 母のため息ひとつで、自分が悪いのだと思っていた時間。


 その記憶は、今も凛の中に残っている。


 母が謝ったからといって、一瞬で消えるものではない。


 母の事情が少しわかったからといって、なかったことになるものではない。


 凛は続けて書いた。


『母も苦しかったのかもしれない。

でも、私も苦しかった。

母の苦しさを理解することと、私の苦しさを消すことは違う。』


 その一文を書いた時、凛は小さく息を止めた。


 今、自分は大事なことを書いた気がした。


 母の苦しさを理解することと、自分の苦しさを消すことは違う。


 それは、凛がずっと混同していたことだった。


 母にも理由があったなら、自分はもう傷ついたと言ってはいけないのではないか。


 母も大変だったなら、自分の寂しさは我慢すべきだったのではないか。


 そんなふうに考えてしまっていた。


 でも違う。


 母にも事情があった。


 それでも、凛は傷ついた。


 その両方が同時に存在していいのだ。


 凛は青いノートを閉じ、朝食の準備をした。


 トーストを焼き、インスタントのスープを作る。


 簡単な朝食。


 昔なら、食欲がない朝は何も食べずに大学へ行ったかもしれない。


 でも最近は、少しだけ自分の身体を気にするようになった。


 食べられる時は、少しでも食べる。


 眠れなかった日は、無理をしすぎない。


 音がつらい日は、イヤホンを使う。


 小さなことばかりだけれど、それは自分を守る練習だった。


 大学へ向かう電車の中で、凛は母からのメッセージを開いた。


 昨日の夜に届いていたものだった。


『相談会お疲れさま。無理しすぎないでね』


 その短い文章。


 以前なら、素直に受け取れなかったかもしれない。


 無理しすぎないでね、と言われても、じゃあ昔からそう言ってほしかった、と思ってしまっただろう。


 今も、その気持ちは少しある。


 今さら優しい言葉を言われても、幼い頃の自分は救われない。


 そう思う自分がいる。


 でも同時に、母が変わろうとしているのかもしれないとも思う。


 凛の言葉を聞いて、母なりに考えてくれたのかもしれない。


 その可能性を、完全に拒絶したいわけでもなかった。


 凛は返信を打とうとして、指を止めた。


 何と返せばいいかわからない。


 ありがとう、と書けばいいのか。


 うん、とだけ返せばいいのか。


 それとも何も返さなくてもいいのか。


 母との距離は、まだ難しい。


 近づきすぎると苦しくなる。


 離れすぎると罪悪感がある。


 凛はしばらく迷ったあと、短く送った。


『ありがとう。今日は大学行ってくる』


 それだけだった。


 でも凛にとっては、そのくらいの距離が今はちょうどよかった。


 優しい娘になりすぎなくていい。


 冷たい娘だと責めすぎなくてもいい。


 今の自分が返せる分だけ返せばいい。


 そう思うことも、凛にとっては新しい練習だった。


 大学へ着くと、キャンパスには朝のざわめきが広がっていた。


 講義へ向かう学生たち。


 コンビニ袋を持った男子学生。


 笑いながら歩く女子のグループ。


 凛はその中を歩きながら、少しだけ自分の中に静かな芯のようなものを感じていた。


 今日は元気というわけではない。


 むしろ、母のことを書いたせいで少し疲れている。


 でも、疲れている自分を責める気持ちは、以前より少し弱かった。


 傷に触れたのだから疲れる。


 それは当然のこと。


 凛は自分にそう言い聞かせる。


 昼休み、七海が凛の隣へやって来た。


「今日、学食行く?」


「うん。軽くなら」


「軽くね。了解」


 二人は学食の端の席へ座った。


 凛はうどんを選び、七海はカレーを持ってきた。


 いつものように七海は最初にスマートフォンを見て、それから凛の顔を覗き込む。


「今日、昨日よりは落ち着いてる?」


「うん。でも母のこと考えてた」


「そっか」


 七海はスプーンを置いた。


「また電話したの?」


「電話じゃなくて、昨日の作品を書いてて」


「うん」


「小さい頃の自分を書いたら、母のことが出てきた」


 七海は黙って聞いている。


 凛は少しずつ話した。


 母を理解したいと思うこと。


 でも、まだ許せない気持ちもあること。


 理解したら許さなければいけない気がして怖いこと。


 母にも事情があったとわかるほど、自分の傷が小さくされるような感覚があること。


 七海は最後まで聞いてから、静かに言った。


「別に、許さなくてもよくない?」


 凛は顔を上げた。


「え?」


「いや、今すぐって意味ね」


 七海はカレーを少し混ぜながら言う。


「理解できるところがあるからって、じゃあ全部許しましょう、めでたしめでたし、みたいなの無理じゃん」


 その言い方が七海らしくて、凛は少しだけ笑った。


 七海は続ける。


「お母さんも大変だったかもしれない。でも凛ちゃんも苦しかった。それは別々に置いていいと思う」


「別々に置く……」


「うん。お母さんの事情は事情。凛ちゃんの傷は傷」


 凛はその言葉を胸の中で繰り返した。


 母の事情は事情。


 凛の傷は傷。


 混ぜなくていい。


 どちらか一つを消さなくていい。


 七海は当たり前みたいに言う。


「凛ちゃん、すぐ相手の事情を考えすぎて、自分の傷を引っ込めそうになるよね」


「……なる」


「それ、優しさでもあるけど、癖でもあると思う」


 癖。


 その言葉に、凛は小さく頷いた。


 凛は昔から、相手の事情を先に考えてきた。


 母は疲れているから。


 友達も悪気はないから。


 真白も忙しいから。


 そうやって相手を理解しようとするたび、自分の寂しさや痛みを後回しにしてきた。


 それは優しさだったかもしれない。


 でも同時に、自分を置き去りにする癖でもあった。


「許すってさ」


 七海は少し考えながら言った。


「相手のためにするものみたいに言われがちだけど、本当は自分が楽になるためのものじゃない?」


 凛は黙って聞く。


「だから、まだ楽にならない許し方なら、しなくていいと思う」


 その言葉は、凛の胸へ静かに落ちた。


 まだ楽にならない許し方なら、しなくていい。


 凛は今まで、許さなければ前へ進めないのだと思っていた。


 母を許せない自分は、いつまでも過去に囚われているのだと。


 でも、無理に許そうとするたび、胸が苦しくなった。


 自分の傷をなかったことにしている気がしたから。


 もしかしたら、今の凛に必要なのは“許す”ことではなく、“まだ痛い”と認めることなのかもしれない。


 その日の夕方、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。


 店内は静かで、窓際には一人だけ客がいた。


 真白はカウンターで本を読んでいた。


 凛を見ると、穏やかに笑う。


「いらっしゃい」


「こんばんは」


「今日はココア?」


「はい」


 何も言わなくても、真白は少し甘めに作ってくれた。


 凛はカップを両手で包み、湯気を見つめる。


「作品、進んでる?」


 真白が聞く。


「少し」


「うん」


「でも、母のことを書くのが難しいです」


 真白は本を閉じた。


「そっか」


 凛は今日、七海に話したことを真白にも話した。


 母の事情を理解したいこと。


 でも、許せない自分もいること。


 理解すると、自分の傷を消さなければいけない気がして怖いこと。


 話しながら、凛の声は少し震えた。


 真白は最後まで聞いていた。


 そして、少し時間を置いてから言った。


「理解と許しって、別物だと思う」


 凛は顔を上げた。


「別物」


「うん」


 真白はカウンターへ肘をつき、静かに続けた。


「相手がどうしてそうしたのか理解できることと、自分が傷ついたことを許せることは、同じじゃない」


 その言葉は、七海の言葉とも重なった。


 凛の胸が少し熱くなる。


「理解したからって、すぐ許さなくていい」


 真白は言った。


「むしろ、許せない自分もちゃんと置いておかないと、また凛ちゃんが自分を置き去りにする気がする」


 凛は何も言えなかった。


 自分を置き去りにする。


 それは凛が一番したくないことだった。


 青いノートに何度も書いてきたこと。


 自分を置き去りにしないで書く。


 自分へ戻る。


 なのに母を理解しようとするあまり、また自分の傷を置き去りにしそうになっていた。


「……許せないって書いてもいいんですか」


 凛は小さく聞いた。


「もちろん」


「母を悪者にしたいわけじゃなくても?」


「うん」


「でも、許せないって書いたら、ひどい気がする」


 真白は少しだけ首を横へ振った。


「ひどいかどうかより、本当かどうかじゃない?」


 その言葉に、凛は息を止めた。


 本当かどうか。


 作品を書く時、凛はいつも誰かを傷つけないかを考える。


 母を悪く書きすぎていないか。


 真白を巻き込んでいないか。


 七海や灯のことを勝手に使っていないか。


 それは大事なことだ。


 でも、そればかり考えていると、自分の本当の痛みが薄まってしまう。


 本当のことを書く。


 それは誰かを攻撃することとは違う。


 凛は少しずつ、その違いを学んでいるところだった。


 真白は続けた。


「凛ちゃんが“許せない”って書くなら、それはお母さんを罰するためじゃなくて、凛ちゃんの傷をちゃんと認めるためでしょ」


 凛の目に涙が滲む。


「……はい」


「なら、書いていいと思う」


 その言葉に、凛は小さく頷いた。


 夜、家へ帰った凛は、パソコンを開いた。


 文書ファイルを開く。


『生きづらさに、名前をつけるなら』


 そのタイトルの下に、昨日書いた幼い頃の文章が続いている。


 凛はその下に、新しい段落を作った。


 指が少し震える。


 でも、今日は書きたいと思った。


『母のことを、今なら少し理解できる。

母も不安だったのだと思う。

普通でいることが、私を守る方法だと信じていたのだと思う。

でも、理解できることと、許せることは違う。

私はまだ、母の言葉に傷ついた自分を抱えている。

その傷を、母の事情で消してしまいたくない。』


 打ちながら、涙が滲む。


 怖い。


 でも、これは本当だ。


 凛は続けた。


『私は母を憎みたいわけではない。

母を悪者にしたいわけでもない。

ただ、私が寂しかったことを、なかったことにしたくない。

母も苦しかった。

でも、私も苦しかった。

その二つを、同じ場所に並べて置けるようになりたい。』


 書き終えた時、凛は深く息を吐いた。


 胸の奥が痛い。


 でも、不思議と少しだけ静かだった。


 母を許せたわけではない。


 でも、許せない自分を少しだけ許せた気がした。


 それは小さなことのようで、凛にとっては大きなことだった。


 凛は青いノートを開き、今日の最後に書く。


『許すことと、わかることは違う。

わかったからといって、すぐ許さなくていい。

私はまだ痛い。

その痛みを、私だけは急かさずにいたい。』


 書き終えると、凛はペンを置いた。


 窓の外では、冬の夜が静かに降りている。


 母から返信が来ていた。


『大学お疲れさま。寒いから早く寝てね』


 凛はその文を見て、少しだけ微笑んだ。


 優しいと思う。


 でも、まだ痛いとも思う。


 その両方を持ったまま、凛は短く返した。


『ありがとう。おやすみ』


 それでよかった。


 全部を解決しなくてもいい。


 全部を許さなくてもいい。


 今日の凛にできる距離で、言葉を返せばいい。


 凛はパソコンを閉じ、青いノートを机の上へ置いた。


 作品は少しずつ進んでいる。


 同時に、凛自身も少しずつ進んでいる。


 過去を綺麗にするためではなく。


 痛みをなかったことにするためでもなく。


 自分の本当の気持ちを、ひとつずつ置いていくために。


 凛は布団へ入り、目を閉じた。


 今夜は、母を許せなくてもいい。


 ただ、自分が寂しかったことを認めて眠る。


 それだけで、少しだけ自分に優しくできた気がした。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、凛が母への気持ちをもう一度見つめ直し、「許す」と「理解する」は違うのだと気づくページでした。


母にも事情があった。

母も不安だった。

母も不器用だった。


でも、それを理解できることと、凛が傷ついた事実を消すことは違います。


凛はまだ、母を完全には許せません。

けれど今回は、「許せない自分」まで責めずに、その痛みを青いノートへ置くことができました。


無理に綺麗な結末へ急がなくていい。

まだ痛いなら、痛いままでいい。

その痛みを急かさずに見つめることも、自分を守る大切な方法なのかもしれません。


次のページでは、母への気持ちを整理した凛が、作品を書き進める中で、初めて「読んでほしい人」を意識し始めていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ