第110ページ 読んでほしい人が、心に浮かんだ
母への気持ちを、凛は少しだけ整理できた。
理解できることと、許せることは違う。
母にも事情があったとしても、自分が寂しかった事実まで消さなくていい。
そう気づいた凛は、作品を書き進める中で、初めて「誰に読んでほしいのか」を考え始める。
それは、有名になりたいからではない。
褒められたいからでもない。
ただ、昔の自分のように「大丈夫」と言いながら一人で泣いている誰かへ、そっと届いてほしいと思ったからだった。
朝、凛はいつもより少し遅く目を覚ました。
カーテンの向こうは薄曇りだった。
冬の光は弱く、部屋の中には青白い静けさが広がっている。
枕元にはスマートフォン。
机の上には青いノート。
そしてパソコンの中には、まだ途中の作品。
『生きづらさに、名前をつけるなら』
そのタイトルを思い出しただけで、凛の胸は少しだけ熱くなる。
昨日、母への気持ちを書いた。
許すことと、理解することは違う。
母にも事情があった。
でも、凛が寂しかったことは消えない。
その文章を書いた時、胸は痛かった。
でも書き終えたあと、不思議と少しだけ息がしやすくなった。
母を悪者にしたいわけではない。
でも、自分の傷をなかったことにもしたくない。
その両方を同じ場所に置けたことが、凛にとっては大きかった。
凛は布団から起き上がり、机へ向かった。
まだ少し眠い。
身体は重い。
けれど、今日は書きたい気持ちがあった。
パソコンを開く。
画面が明るくなる。
文書ファイルを開くと、昨日書いた文章がそこにあった。
『母のことを、今なら少し理解できる。
母も不安だったのだと思う。
普通でいることが、私を守る方法だと信じていたのだと思う。
でも、理解できることと、許せることは違う。』
凛はその文章を読み返し、深く息を吐いた。
何度読んでも少し苦しい。
でも、嘘ではない。
凛は今、ようやく“本当のこと”を書き始めている気がした。
綺麗な言葉ではない。
明るい言葉でもない。
誰かを前向きに励ますだけの文章でもない。
でもそこには、確かに凛がいる。
普通になれなくて苦しかった凛。
母を許せない自分を責めていた凛。
真白に会いたいと思う自分を怖がっていた凛。
働くことに怯えながら、それでも壊れない働き方を探したいと思い始めた凛。
そのすべてが、少しずつ文章の中に入っている。
凛はキーボードへ指を置いた。
今日は何を書けばいいのだろう。
幼い自分。
母への気持ち。
真白との出会い。
就活の不安。
書きたいことはたくさんある。
でも、どこから書けばいいのかわからない。
凛は一度パソコンから目を離し、青いノートを開いた。
真白にもらった、自分へ戻るためのノート。
最初のページには、こう書いてある。
『これは、私が私へ戻るためのノート。』
その言葉を見るだけで、凛は少し落ち着く。
パソコンに向かうと、どうしても“作品として整えなきゃ”と思ってしまう。
でも青いノートは違う。
上手くなくていい。
誰にも見せなくていい。
ただ、自分へ戻るために書けばいい。
凛はペンを持ち、新しいページへ書いた。
『私は、この作品を誰に読んでほしいんだろう。』
その問いを書いた瞬間、凛の手が止まった。
誰に読んでほしいのか。
今まで、あまり考えていなかった。
ただ書きたいと思った。
自分の痛みを形にしたいと思った。
誰かへ届いたらいいと思った。
でも、その“誰か”がどんな人なのか、はっきり考えたことはなかった。
凛はペン先を見つめる。
読んでほしい人。
それは、たくさんいる気がした。
普通になれなくて苦しい人。
人の顔色を読みすぎて疲れてしまう人。
母や家族との関係に傷ついているのに、相手を責めきれずに自分を責めている人。
働くことが怖いのに、それを甘えだと思っている人。
誰かを大事に思うことが怖くて、愛される前に逃げたくなる人。
SNSで誰かの幸せを見るたび、自分だけ止まっている気がしてしまう人。
そして。
昔の自分みたいに、大丈夫じゃないのに大丈夫と言っている人。
凛は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
そうだ。
読んでほしい人は、昔の自分に似ている誰かだ。
あの頃の凛のように、誰にも気づかれず、ひとりで「大丈夫」の仮面をかぶっている人。
凛はノートへ続けて書いた。
『大丈夫じゃないのに、大丈夫と言ってしまう人に読んでほしい。
誰かを困らせないように、自分の苦しさを飲み込んできた人に読んでほしい。
自分が弱いから苦しいのだと思っている人に、そうじゃないかもしれないよ、と伝えたい。』
書いているうちに、目の奥が少し熱くなった。
自分が弱いから苦しい。
凛はずっと、そう思っていた。
普通にできない自分。
人より疲れやすい自分。
些細なことで傷つく自分。
誰かを必要とする自分。
それらを全部、“弱さ”だと決めつけていた。
でも今は少しだけ違う。
苦しさには理由があった。
寂しさには歴史があった。
怖さには、過去の記憶があった。
それを知ることで、凛は少しずつ自分を責める以外の方法を覚え始めている。
だから、そのことを誰かにも伝えたいと思った。
正解としてではなく。
説教としてではなく。
ただ、隣に座るような言葉で。
凛はノートを閉じ、パソコンへ向き直った。
作品の中に、新しい段落を作る。
そして、ゆっくり打ち始めた。
『この文章を、私は昔の自分に似た誰かへ渡したい。
大丈夫じゃないのに大丈夫と言ってきた人。
助けてと言えず、ひとりで壊れそうになっている人。
自分の生きづらさを、ただの弱さだと思い込んでいる人。
その人に、あなたが悪いだけではなかったのかもしれない、と伝えたい。』
打ち終えたあと、凛はしばらく画面を見つめた。
怖い。
こうやって“誰かへ届けたい”と書くと、急に責任が生まれる気がする。
誰かへ届かなかったらどうしよう。
誰かを傷つけてしまったらどうしよう。
自分なんかがそんなことを書いていいのだろうか。
そういう不安がすぐに浮かぶ。
でも、それでも凛は消さなかった。
届けたいと思ったことは本当だった。
救えるなんて言えない。
でも、届いてほしいとは思う。
その願いまで消さなくていい気がした。
大学へ向かう時間になり、凛はパソコンを閉じた。
バッグに青いノートを入れる。
今日は午後から講義が一つと、夕方にバイトがある。
バイト。
その言葉だけで、少し胸が重くなる。
三崎の言葉を思い出す。
もっと気楽に。
もっと周りを見て。
慣れればできる。
悪意のない正論。
でも、凛には苦しかった言葉。
バイト先へ行くのはまだ少し怖い。
けれど今日は、少しだけ違う気持ちもあった。
自分は、壊れる働き方が怖い。
それを知ったから。
どんな時に苦しくなるのか、少しずつわかってきたから。
人が多い時。
声が重なる時。
ミスをして、すぐ自分を責めそうになる時。
相手の顔色を読みすぎて、自分の動きが止まる時。
それがわかっていれば、少しだけ自分を守れるかもしれない。
電車の中で、凛はスマートフォンを開いた。
灯からメッセージが来ていた。
『昨日の夜、また凛ちゃんの投稿読み返してた』
凛は少しだけ目を細める。
『ありがとう』
返すと、すぐ既読がついた。
『あれ読むと、自分だけじゃないって思う』
その言葉に、胸が温かくなる。
凛は少し迷ってから、灯へ送った。
『今、文章をまとめてる』
『作品みたいにできたらいいなって思ってる』
送信した瞬間、また少し緊張した。
作品。
その言葉を誰かに言うのは、まだ恥ずかしい。
でも、灯には伝えたかった。
すぐに返事が来る。
『絶対読みたい』
凛の胸が跳ねる。
『まだ全然途中だよ』
『途中でも読みたい』
『凛ちゃんの文章、夜に必要な人いると思う』
夜に必要な人。
その言葉を見た瞬間、凛の目に涙が滲みそうになった。
灯はいつも、乱暴なようでいて、凛の大事なところをまっすぐ言葉にしてくれる。
夜に必要な文章。
凛は誰かの朝を明るくするような文章を書ける自信はない。
でも、眠れない夜に、ほんの少しだけ孤独を薄める文章なら書けるかもしれない。
凛は返信した。
『夜に必要な文章って、少し嬉しい』
『それだよ』
灯からすぐ返ってくる。
『凛ちゃんの文章、昼の元気な人向けじゃなくて、夜に崩れそうな人向け』
凛は小さく笑った。
でも、その言葉はしっくりきた。
夜に崩れそうな人。
昔の凛も、今の凛も、何度もそうだった。
昼間は笑える。
授業へ行ける。
バイトもできる。
人と話すこともできる。
でも夜、一人の部屋へ帰ると、急に全部が崩れそうになる。
自分だけが取り残されている気がする。
明日が怖くなる。
生きることが下手すぎる気がする。
そんな夜に、凛の言葉が誰かの隣へ置かれるなら。
それは、とても意味のあることに思えた。
大学の講義中、凛はノートの端へ書いた。
『この作品は、夜に崩れそうな人へ向けて書きたい。
朝になればまた頑張るしかない人へ。
昼間は笑っているけれど、夜になると自分を責めてしまう人へ。
その人に、今夜だけは自分を責めなくていいと伝えたい。』
その文章を書いた時、凛は少しだけ胸が震えた。
読んでほしい人が見えてきた。
それは不特定多数の誰かではない。
顔も名前もわからないけれど、確かに存在する誰か。
夜に泣いている人。
大丈夫なふりをしている人。
自分の生きづらさに名前がつかず、自分が悪いと思っている人。
その人へ向けて書く。
そう思うと、作品の輪郭が少しだけはっきりした。
夕方、凛はバイト先へ向かった。
制服へ着替える時、少し緊張する。
今日は混むかもしれない。
またミスをするかもしれない。
三崎に何か言われるかもしれない。
不安は消えない。
でも凛はロッカーの中で、深く息を吸った。
「壊れないように」
小さく呟く。
頑張るためではなく、壊れないために。
その言葉を胸に置くと、少しだけ足が動きやすくなった。
店は夕方から混み始めた。
注文。
配膳。
レジ。
食器の音。
人の声。
凛は何度か頭がいっぱいになりかけた。
でもそのたび、自分の状態へ意識を向ける。
今、音が多い。
今、焦っている。
今、自分を責めそうになっている。
そう名前をつけるだけで、少しだけ飲み込まれにくくなる。
途中で一度、注文を確認し忘れそうになった。
心臓が大きく跳ねる。
またミスする。
そう思った瞬間、凛は深呼吸した。
端末を見直す。
厨房へ確認する。
小さな声で「確認します」と言う。
たったそれだけのこと。
でも、以前ならパニックになっていたかもしれない。
今日は、少しだけ自分を責める前に動けた。
バイトが終わる頃、身体はかなり疲れていた。
でも、心が完全に潰れてはいなかった。
三崎がバックヤードで言った。
「今日、落ち着いてたね」
その言葉に、凛は少し驚く。
「……そうですか」
「うん。確認もできてたし」
たったそれだけ。
でも、凛の胸は少しだけ熱くなった。
褒められたことが嬉しい。
でも、今日はそれ以上に、自分で自分を少し褒めたかった。
壊れないように働けた。
完璧ではない。
疲れた。
でも、途中で自分を見失わなかった。
帰り道、凛は夜風の中を歩きながら、青いノートを思い出した。
今日のことを書きたい。
自分を責める前に確認できたこと。
壊れないようにと呟いたこと。
読んでほしい人が心に浮かんだこと。
その全部を、作品へ繋げたいと思った。
家へ帰ると、凛はすぐ机へ向かった。
疲れている。
でも、少しだけ書きたかった。
青いノートを開く。
今日のページへ、ゆっくり書いた。
『読んでほしい人が浮かんだ。
夜に崩れそうな人。
大丈夫と言いながら、本当は大丈夫じゃない人。
その人へ、私は書きたい。』
続けて、もう一文。
『今日、バイトで少しだけ壊れないように動けた。
完璧じゃなかった。
疲れた。
でも、自分を責める前に確認できた。
それだけで、少しだけ前へ進めた気がした。』
書き終えると、凛はパソコンを開いた。
作品ファイルの中に、新しい章の候補を足す。
『夜に崩れそうなあなたへ』
そのタイトルを見た瞬間、凛の胸は静かに熱くなった。
これは、誰かへ向けた章だ。
でも同時に、昔の自分へ向けた章でもある。
凛は本文に、今日ノートへ書いた言葉を少し整えて打ち込んだ。
『この文章を、私は夜に崩れそうなあなたへ渡したい。
昼間は笑えても、夜になると自分を責めてしまうあなたへ。
大丈夫と言いながら、本当は大丈夫じゃなかったあなたへ。
私はあなたを救えるほど強くない。
でも、同じ暗さの中で、ここにいるよと書くことならできる。』
打ち終えたあと、凛はしばらく画面を見つめた。
涙が少し滲んだ。
でも、悲しいだけではなかった。
届いてほしい。
そう思った。
怖いけれど。
まだ未完成だけれど。
それでも、いつかこの言葉が誰かの夜へ届けばいい。
スマートフォンが震えた。
真白からだった。
『バイトお疲れさま』
凛は少し笑って返信する。
『疲れました。でも今日は少しだけ落ち着いて動けました』
既読。
『すごい』
『ちゃんと壊れない方へ進んでるね』
その言葉を読んだ瞬間、凛は胸が温かくなった。
壊れない方へ。
確かに、少しずつそちらへ進んでいる気がする。
派手な変化ではない。
誰かから見れば小さすぎる一歩かもしれない。
でも凛にとっては大きい。
大丈夫と嘘をつくのではなく。
苦しいと認める。
自分を責める前に確認する。
壊れない働き方を探す。
誰かへ読んでほしい文章を書く。
その一つ一つが、凛を少しずつ“生きる方”へ戻している。
凛は真白へ送った。
『作品、読んでほしい人が少し見えました』
すぐに返事が来る。
『どんな人?』
凛は少し考えてから打った。
『夜に崩れそうな人です』
既読。
少し間があって、真白から返ってきた。
『すごく凛ちゃんらしいね』
『その人には、凛ちゃんの言葉が届くと思う』
凛はスマートフォンを胸へ抱えた。
届くかどうかはわからない。
でも、届いてほしい。
今夜、凛はその願いを否定しなかった。
窓の外では、冬の夜が深くなっている。
どこかに、眠れない人がいるかもしれない。
大丈夫じゃないのに大丈夫と言った人がいるかもしれない。
自分だけが駄目だと思っている人がいるかもしれない。
凛はその人へ向けて、静かに言葉を書き続けた。
救うためではなく。
隣にいるために。
あなたが悪いだけではなかったのかもしれない、と伝えるために。
その夜、凛の作品は初めて、はっきりと誰かの方を向き始めた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、凛が初めて「読んでほしい人」を意識するページでした。
それは、有名になりたいからでも、評価されたいからでもありません。
凛が届けたいと思ったのは、夜に崩れそうな人。
大丈夫じゃないのに大丈夫と言ってしまう人。
自分の生きづらさを、ただの弱さだと思っている人でした。
作品を書くことは、自分の痛みを整えることでもあり、誰かへそっと手渡すことでもあります。
凛はまだ誰かを救えるほど強くありません。
でも、「同じ暗さの中にいるよ」と書くことならできる。
その願いが、凛の作品を少しずつ前へ進めていきます。
次のページでは、読者を意識し始めた凛が、作品を誰かへ見せる第一歩として、灯に一部を読んでもらう決意をしていきます。




