第111ページ 初めて、作品を誰かに渡す夜
凛は、自分の作品を「夜に崩れそうな人」へ届けたいと思い始めた。
それは、昔の自分のように、大丈夫じゃないのに大丈夫と言ってしまう人。
助けてと言えず、ひとりで自分を責め続けてしまう人。
けれど、誰かへ届けたいと思うことと、実際に誰かへ読んでもらうことは違う。
今回は、凛が初めて作品の一部を灯へ送る決意をするページです。
怖さと願いの間で震えながら、凛は自分の言葉を誰かへ渡す一歩を踏み出します。
朝、凛は青いノートを開いた。
昨日の夜に書いた言葉が、まだ少し新しく見える。
『読んでほしい人が浮かんだ。
夜に崩れそうな人。
大丈夫と言いながら、本当は大丈夫じゃない人。
その人へ、私は書きたい。』
凛はその文章を何度も読み返した。
夜に崩れそうな人。
その言葉を書いた時、凛の中で作品の向かう先が少しだけ見えた気がした。
自分のために書いてきた言葉。
自分へ戻るために書いてきた言葉。
でも、その言葉はいつの間にか、誰かの夜へも向かい始めていた。
それは嬉しいことだった。
でも同時に、怖いことでもあった。
誰かへ届けたいと思うほど、凛の中には不安が生まれる。
本当に届くだろうか。
独りよがりではないだろうか。
重すぎないだろうか。
読んだ人を余計に苦しくさせてしまわないだろうか。
そもそも、自分なんかが誰かへ言葉を渡していいのだろうか。
凛はノートを閉じ、机の上のパソコンを見た。
作品ファイルは、まだ未完成だった。
章立ても粗い。
文章も整っていない。
何度も同じようなことを書いているところもある。
それでも、その中には凛の本当の気持ちがあった。
普通になれなかった苦しさ。
母を理解したいのに許せない痛み。
働くことへの怖さ。
真白への名前のない感情。
七海や灯に救われた夜。
そして、昔の小さな自分へ届けた言葉。
それらを読み返すたび、凛は思う。
これはまだ未完成だけれど、確かに自分の一部だ。
だからこそ、誰かへ見せるのが怖い。
否定されたら、自分の一部ごと否定される気がするから。
凛はパソコンを開いた。
画面にタイトルが表示される。
『生きづらさに、名前をつけるなら』
その文字を見るだけで、胸が少し熱くなる。
凛は昨日書いた章を開いた。
『夜に崩れそうなあなたへ』
そこには、まだ短い文章がある。
『この文章を、私は夜に崩れそうなあなたへ渡したい。
昼間は笑えても、夜になると自分を責めてしまうあなたへ。
大丈夫と言いながら、本当は大丈夫じゃなかったあなたへ。
私はあなたを救えるほど強くない。
でも、同じ暗さの中で、ここにいるよと書くことならできる。』
凛はその文章を見つめた。
この部分なら、灯に読んでもらえるかもしれない。
そう思った瞬間、心臓が大きく鳴った。
灯。
いつも「わかる」と返してくれる人。
凛の文章を、夜に必要だと言ってくれた人。
崩れそうな時に、凛の投稿を読み返してくれる人。
最初に読んでもらうなら、灯がいいかもしれない。
そう思った。
でも、怖い。
SNSへ投稿するのとは違う。
投稿は、不特定多数へ向ける言葉だった。
誰が読むかはわからない。
反応が来ても、少し距離がある。
でも灯へ送るということは、ひとりの人へ自分の作品を渡すことだ。
読んでほしいと願う相手へ、自分から差し出すことだ。
その分、怖さが近い。
灯がどう思うか。
重いと思わないか。
期待外れだと思われないか。
今までの投稿の方が良かったと言われたらどうしよう。
凛は画面を閉じかけた。
やっぱりまだ早い。
もう少し整えてからでいい。
完成してからでいい。
もっとちゃんとした文章になってからでいい。
そう思った。
でも、その時、七海の言葉を思い出した。
最初からまとまってる方が怖いよ。
生きづらさなんて、そもそもぐちゃぐちゃじゃん。
凛は小さく息を吐いた。
そうだ。
これは、完璧な作品ではない。
まだ途中の、ぐちゃぐちゃな言葉たちだ。
でも、それでも誰かへ届くことがあるかもしれない。
灯はきっと、完成度だけを見る人ではない。
凛の言葉の奥にある痛みを、ちゃんと読んでくれる人だ。
凛は青いノートを開き、今の気持ちを書いた。
『灯ちゃんに読んでもらいたい。
でも怖い。
読んでほしい人ができた途端、その人に嫌われる未来まで想像してしまう。
私はいつも、大事なものほど渡すのが怖い。』
書きながら、胸が少し痛んだ。
大事なものほど渡すのが怖い。
本当にそうだった。
真白への気持ちもそうだ。
青いノートもそうだ。
作品もそうだ。
自分にとって大事なものほど、誰かへ見せるのが怖い。
大切に扱ってもらえなかった時、自分が壊れてしまいそうだから。
でも、誰にも見せないままだと、それはずっと自分の中だけに閉じ込められる。
凛はそれも少し違うと思っていた。
作品は、自分のために始まった。
でも今は、誰かへ渡したい願いも生まれている。
その願いを、怖いからという理由だけで消したくなかった。
大学へ向かう電車の中、凛はずっと灯へ送るかどうかを考えていた。
スマートフォンを開き、閉じる。
灯とのトーク画面を開く。
何度も文字を打ちかけて、消す。
『作品の一部、読んでもらってもいい?』
それだけの文章が、なかなか送れない。
電車の窓に映る自分の顔は、少し緊張していた。
凛はイヤホンから流れる音楽を聞きながら、深呼吸する。
怖い。
でも、送りたい。
その二つが胸の中で揺れている。
大学に着くと、七海が教室の前にいた。
「おはよ」
「おはよう」
凛の顔を見るなり、七海は目を細めた。
「今日、何か送信前の顔してる」
「何その顔」
「メッセージ打って消してる人の顔」
凛は少しだけ笑った。
でも、すぐに頷く。
「灯ちゃんに、作品の一部読んでもらおうか迷ってる」
七海はすぐに表情を柔らかくした。
「いいじゃん」
「でも怖い」
「うん」
「まだ途中だし」
「うん」
「変だったらどうしようって思う」
七海は少し考えてから言った。
「灯ちゃんは、途中でも読んでくれると思うけど」
「うん」
「でも怖いなら、怖いって一緒に送れば?」
凛は顔を上げた。
「怖いって?」
「そう。『まだ途中で怖いんだけど、読んでもらいたい』って」
その言葉に、凛の胸が少し揺れた。
怖いことまで一緒に渡す。
それは、凛にとって新しい考え方だった。
今まで凛は、何かを渡す時、できるだけ整えようとしていた。
不安を隠して。
怖さを隠して。
ちゃんとした顔で差し出そうとしていた。
でも本当は、怖いまま渡してもいいのかもしれない。
「怖いけど読んでほしい」と言ってもいいのかもしれない。
「……それなら送れるかも」
凛が言うと、七海は笑った。
「じゃあ送ろ」
「今?」
「今」
「え、ここで?」
「勢い大事」
七海は軽い口調だったけれど、その目は優しかった。
凛はスマートフォンを取り出した。
灯とのトーク画面を開く。
指先が少し震える。
でも、七海が隣にいるだけで、少しだけ怖さが薄くなる。
一人で頑張らない練習。
あの日、七海とキャリア講座を休んだ時のことを思い出す。
怖さは、誰かと半分にできる時がある。
凛はゆっくり文字を打った。
『灯ちゃん』
『今、作品みたいに文章まとめてて』
『まだ途中で、すごく怖いんだけど』
『一部だけ読んでもらってもいい?』
送信。
送ってしまった。
凛はスマートフォンを机へ伏せた。
心臓がうるさい。
七海が隣で小さく拍手した。
「送れたじゃん」
「送れた……」
「偉い」
凛は机に額をつけたくなった。
怖い。
でも、少しだけ達成感もある。
自分の大事なものを、初めて誰かへ渡そうとしている。
数分後、スマートフォンが震えた。
凛は息を止める。
七海が「見る?」と小声で聞く。
凛は小さく頷き、画面を開いた。
灯からだった。
『読みたい』
『怖いのに送ろうとしてくれてありがとう』
その言葉を見た瞬間、凛の胸が一気に熱くなった。
怖いのに送ろうとしてくれてありがとう。
そんなふうに受け取ってもらえると思っていなかった。
凛は涙が出そうになるのをこらえた。
七海が画面を覗かずに聞く。
「大丈夫そう?」
凛は小さく頷いた。
「うん」
「よかった」
凛は深呼吸した。
送る文章を選ぶ。
長すぎると重いかもしれない。
短すぎると伝わらないかもしれない。
迷った末に、昨日書いた『夜に崩れそうなあなたへ』の部分をコピーした。
そして、灯へ送った。
『まだ途中だけど、この部分です』
送信。
今度は、スマートフォンを伏せなかった。
画面を見つめたまま、灯からの返事を待つ。
すぐ既読はつかなかった。
きっと読んでいる。
そう思うだけで、胸が苦しくなる。
自分の文章が今、灯の目の前にある。
凛の痛みが、凛の願いが、誰かの手元に届いている。
その事実が怖くて、でも少しだけ嬉しかった。
講義が始まっても、凛はあまり集中できなかった。
教授の声が遠く聞こえる。
ノートを取るふりをしながら、スマートフォンの振動を待っている自分がいる。
こんな時、以前の凛なら自分を責めていただろう。
授業に集中できないなんて駄目だ。
ちゃんとしなきゃ。
でも今日は、少しだけ自分へ言った。
今は怖いから仕方ない。
大事なものを渡した直後だから、落ち着かなくて当然。
そう思うだけで、少し楽になった。
昼休みになる直前、スマートフォンが震えた。
灯からだった。
凛は息を止めて画面を開く。
『読んだ』
その一言のあと、少し長いメッセージが続いていた。
『凛ちゃん、これ、ちゃんと作品だよ』
凛の目が止まる。
作品。
灯がそう言った。
凛は震える指で続きを読んだ。
『私、夜に崩れそうな人って言葉で、もう泣きそうだった』
『昼間は笑えるのに、夜になると自分責めるの、まじでわかる』
『救えるほど強くないけど、同じ暗さの中でここにいるよってところ、すごく凛ちゃんだと思った』
『これ読んだ人、たぶん「自分だけじゃなかった」って思う』
凛は画面を見つめたまま動けなくなった。
目の奥が熱い。
手が震える。
作品だよ。
灯のその言葉が、胸の奥へ深く落ちていく。
自分の痛みを、作品と呼んでもいいのかもしれない。
まだ未完成でも。
拙くても。
怖くても。
誰かがそこに、自分だけじゃないと思えるものを見つけてくれるなら。
凛は小さく息を吐いた。
涙が一粒落ちた。
七海が隣でそっとティッシュを差し出す。
「泣いてる」
「……泣いてない」
「泣いてる人の声」
凛はティッシュを受け取り、目元を押さえた。
「灯ちゃんが、作品って言ってくれた」
七海は柔らかく笑った。
「よかったじゃん」
「うん」
「怖かったね」
「うん」
その瞬間、凛は思った。
怖さを越えた、というより、怖さを抱えたまま誰かへ渡せたのだ。
怖くなくなったわけではない。
今も怖い。
でも、渡せた。
そして、受け取ってもらえた。
それが今、凛の胸を温めていた。
放課後、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。
店へ入ると、真白がカウンターでコーヒーを淹れていた。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
凛の顔を見るなり、真白は少し笑った。
「何かあった顔」
凛はいつもの席へ座った。
「灯ちゃんに、作品の一部を送りました」
真白の手が少し止まる。
「おお」
「怖かったです」
「うん」
「でも、読んでくれて」
凛はバッグからスマートフォンを取り出し、灯のメッセージを開いた。
見せるか少し迷ったけれど、真白には話したかった。
「作品だよって、言ってくれました」
真白は静かに微笑んだ。
「そっか」
その声が、とても優しかった。
「よかったね」
その一言で、凛の目にまた涙が滲んだ。
「はい」
「かなり大きな一歩だね」
「大きいですか」
「うん」
真白はココアを作りながら言った。
「自分の大事な言葉を、自分から誰かへ渡したんだから」
凛は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
自分の大事な言葉を、自分から誰かへ渡した。
本当にそうだった。
今まで凛は、受け身だった。
投稿も、どこかで「誰かが見つけてくれたら」という感覚だった。
でも今日は違う。
灯に読んでほしいと思い、自分から送った。
怖いと伝えた上で、渡した。
それは凛にとって、確かに大きな一歩だった。
「でも、灯ちゃんに良いって言われたら、また次もちゃんとしなきゃって思いそうで怖いです」
凛が正直に言うと、真白は頷いた。
「思うだろうね」
「やっぱり」
「凛ちゃんの癖だから」
真白は少し笑った。
「でも、気づいてるなら戻れるよ」
「自分のために書くところへ?」
「うん」
凛はココアの湯気を見つめた。
誰かへ渡すこと。
自分のために書くこと。
その二つは、対立するものではないのかもしれない。
自分のために書いた言葉を、誰かへ渡す。
渡したあと、また自分へ戻る。
その往復を覚えていけばいいのかもしれない。
夜、家へ帰った凛は、青いノートを開いた。
今日の出来事を書きたかった。
灯へ送ったこと。
怖かったこと。
作品だと言われたこと。
真白に話したこと。
その全部を、忘れたくなかった。
凛はペンを持った。
『今日、初めて作品の一部を灯ちゃんへ送った。
怖かった。
否定されるのが怖かった。
でも、読んでほしいと思った。
怖いまま渡した。』
手が少し震える。
でも、凛は書き続けた。
『灯ちゃんは、作品だと言ってくれた。
私の痛みを、作品と呼んでくれた。
その瞬間、少しだけ、自分が書いてきたものを信じてもいい気がした。』
胸が熱くなる。
凛は目を閉じた。
まだ作品は完成していない。
まだ誰かへ大きく届けられるものではない。
でも、今日、ひとりへ届いた。
それだけで十分だった。
最初の一人。
灯。
夜に崩れそうな人。
凛の言葉を必要だと言ってくれた人。
その人に届いたのなら、凛はもう少し書き続けられる気がした。
凛はパソコンを開いた。
作品ファイルに、新しい文章を足す。
『作品は、完成してから誰かへ届くものだと思っていた。
でも今日、途中の言葉でも、誰かの心へ触れることがあるのだと知った。
怖いまま渡した言葉を、受け取ってくれる人がいた。
そのことが、私に続きを書く勇気をくれた。』
打ち終えたあと、凛は深く息を吐いた。
窓の外では、冬の夜が静かに広がっている。
どこかに、今日も崩れそうな人がいるかもしれない。
その人へ届く日は、まだ遠いかもしれない。
でも、凛は今日、最初の一歩を踏み出した。
大事な言葉を、誰かへ渡す一歩。
怖さを隠さず、怖いまま送る一歩。
そして、受け取ってもらえた喜びを、ちゃんと自分の中へ置く一歩。
青いノートの最後に、凛は一文を書いた。
『怖いままでも、渡せた。
それだけで今日は、少しだけ私の言葉を信じられた。』
書き終えると、凛はペンを置いた。
胸の奥には、まだ不安がある。
でも、その隣に小さな光もある。
灯が受け取ってくれた言葉。
真白がよかったねと言ってくれた声。
七海が隣でティッシュを差し出してくれた温度。
その全部が、凛の中で静かに灯っている。
凛は目を閉じた。
明日もまた怖くなるかもしれない。
次を書けなくなるかもしれない。
でも今日のことは消えない。
自分の言葉が、誰かに届いた。
そしてそれを、作品と呼んでもらえた。
その記憶を抱いて、凛はまた続きを書くために、静かな夜の中でゆっくり息をした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、凛が初めて作品の一部を灯へ渡すページでした。
自分の痛みを誰かへ見せることは、とても怖いことです。
否定されるかもしれない。
重いと思われるかもしれない。
期待外れだと思われるかもしれない。
それでも凛は、「怖い」と伝えたまま、作品を渡すことができました。
そして灯は、その文章を「作品」だと言ってくれました。
その一言は、凛にとって大きな肯定でした。
完成していなくても、途中でも、怖くても。
本当の言葉は、誰かへ届くことがある。
凛はそのことを初めて実感します。
次のページでは、灯からの感想を受け取った凛が、喜びと同時に「次も良いものを書かなきゃ」というプレッシャーに揺れながら、書き続けるための自分なりの距離感を探していきます。




