第92ページ 幸せだと思った瞬間、怖くなった
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
日曜日の昼過ぎ。
空は薄い冬晴れだった。
雲の隙間から柔らかな光が落ちている。
凛は駅前のロータリーで、小さく肩を縮めながら立っていた。
今日は真白と出かける約束をしている。
ただ近くの古本屋へ行って、遅めの昼ご飯を食べるだけ。
本当にそれだけの予定だった。
でも凛は、朝からずっと落ち着かなかった。
楽しみだった。
その気持ちは本当だ。
でも。
楽しみだと思うほど、胸の奥がざわつく。
こんなふうに誰かとの時間を待ち遠しく感じるのは、凛にとってあまり経験のないことだった。
スマートフォンが震える。
『着いたよ』
真白からのメッセージ。
凛の心臓が少しだけ跳ねる。
顔を上げると、ロータリーの向こうから真白が歩いてくるのが見えた。
黒いコート。
少し眠そうな目。
でも凛を見つけると、柔らかく笑った。
「おはよう」
「……おはようございます」
その笑顔を見るだけで、胸の奥が少し温かくなる。
でも同時に、苦しくもなる。
どうしてこんな感情になるのか、自分でもまだうまくわからなかった。
「寒くない?」
「大丈夫です」
そう答えながらも、凛の指先は少し冷えていた。
真白はそれに気づいたのか、「先に店入ろうか」と笑う。
二人で並んで歩く。
駅前の人混み。
カップル。
家族連れ。
笑い声。
少し前までの凛なら、そういう光景を見るだけで強く苦しくなっていた。
でも今日は違った。
自分も今、“誰かと並んで歩いている側”にいる。
その事実が、不思議で、少しだけ怖かった。
古本屋は小さな店だった。
木の匂い。
静かな空気。
天井まで並ぶ本棚。
凛はその空間へ入った瞬間、少し肩の力が抜けるのを感じた。
「凛ちゃん、本屋好きそうだよね」
真白が小さく笑う。
「……好きです。静かだから」
「わかる」
二人でゆっくり店内を歩く。
真白は写真集コーナーを見ていた。
凛は文芸棚の前で立ち止まる。
背表紙を眺めているだけで、少し落ち着く。
不思議だった。
誰かと一緒にいるのに、疲れない。
気を遣っていないわけじゃない。
でも、“ちゃんとしなきゃ”だけではなくなっている。
その感覚が、凛にはまだ少し信じられなかった。
「これ、凛ちゃん好きそう」
真白が一冊の本を差し出す。
詩集だった。
ページをめくると、短い言葉が静かに並んでいる。
「……綺麗」
思わず呟く。
真白は少し笑った。
「凛ちゃん、こういう“寂しいけど優しい文章”好きだよね」
その言葉に、凛の胸が小さく揺れる。
真白は、時々怖いくらい凛を見ている。
凛自身よりも、自分のことを理解しているように感じる瞬間がある。
「……なんか恥ずかしい」
凛が小さく言うと、真白は笑った。
「なんで」
「見透かされてる感じするから」
「見てるだけだよ」
その返事が優しくて、凛は少し目を伏せた。
昼食は、小さな洋食屋へ入った。
窓際の席。
冬の日差し。
湯気の立つオムライス。
凛はその光景をぼんやり見つめながら、不意に思った。
――幸せかもしれない。
その瞬間だった。
胸の奥へ、急に強い不安が広がった。
怖い。
凛は一瞬、呼吸が浅くなる。
幸せだと思った瞬間、壊れる気がした。
昔からそうだった。
安心した時ほど、不安になる。
嬉しい時間ほど、“いつ終わるんだろう”を考えてしまう。
「凛ちゃん?」
真白の声で、凛はハッと顔を上げた。
「ぼーっとしてた」
「……すみません」
「謝らなくていいよ」
その言葉へ小さく頷きながら、凛は必死に呼吸を整える。
でも胸のざわつきは消えなかった。
楽しい。
安心する。
でも。
こんな時間が続くわけない。
そんな感覚が、凛の中でずっと鳴っている。
帰り道。
二人で川沿いを歩いた。
冬の川は静かだった。
風が冷たい。
でも空は少しだけ明るい。
凛は隣を歩く真白を見ながら、不意に胸が苦しくなる。
どうしてこんなに不安なんだろう。
今、ちゃんと優しくしてもらっているのに。
嫌われてもいないのに。
それでも。
“いつか終わる”が頭から離れない。
「……真白さん」
凛が小さく呼ぶ。
「ん?」
「私、変かもしれない」
真白は少し首を傾げる。
凛は視線を落とした。
「今日、すごく楽しかったんです」
「うん」
「でも、楽しいって思った瞬間、急に怖くなった」
風が静かに吹く。
凛はゆっくり続けた。
「なんか……幸せだと思うと、“こんな時間続くわけない”って思っちゃう」
「だから安心すると、逆に不安になる」
真白は少し黙っていた。
それから静かな声で言った。
「凛ちゃん、多分今まで、“安心が続く経験”少なかったんだろうね」
その言葉に、凛の胸がじわりと痛む。
安心が続く経験。
本当に、なかったのかもしれない。
母の機嫌。
友達との距離。
人間関係。
凛にとって“安心”は、いつも急になくなるものだった。
「だから、“幸せ”を感じると先に壊れる怖さが来るんだと思う」
真白の声は穏やかだった。
責めるでもなく。
否定するでもなく。
ただ静かに、凛の感情を整理してくれる。
凛は小さく目を閉じた。
「……私、こんな自分でここにいていいのかなって思う時ある」
ぽつりと零れる。
「こんなに不安定で」
「すぐ不安になって」
「重くなって」
「普通に安心もできなくて」
言葉にするほど、自分が情けなく感じた。
でも真白は静かに首を横へ振る。
「凛ちゃん、“ちゃんと安心したかった人”なんだと思うよ」
その言葉を聞いた瞬間、凛の胸が強く揺れた。
ちゃんと安心したかった。
多分、それが凛のずっと欲しかったものだった。
でも手に入らなかった。
だから安心を知らないまま、大人になってしまった。
「今はその練習してる途中なんじゃないかな」
真白は小さく笑う。
「“安心しても、すぐ壊れない”を、少しずつ覚えてる途中」
凛は何も言えなかった。
胸の奥が熱い。
怖い。
でも。
今までみたいに、“全部諦めたい”だけではなくなっている。
この時間が終わらないでほしい。
また会いたい。
そう思っている。
それはきっと。
凛の中で、“生きたい側”が少しずつ大きくなっている証だった。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




