第90ページ 「離れていかないで」が言えなかった
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
閉店後の『cafe 月灯り』は、いつもより静かだった。
客のいない店内。
小さなジャズ。
コーヒーの残り香。
柔らかな灯り。
凛はカウンター席へ座ったまま、両手でココアのマグカップを包んでいた。
温かい。
でも胸の奥は、どこか落ち着かなかった。
さっき真白に言われた言葉。
――“失いたくない”が初めて生まれるから。
その一文が、ずっと頭の中へ残っている。
失いたくない。
凛はその感情を、今までちゃんと認めたことがなかった。
誰かを大事に思えば思うほど、不安になる。
だから本当は、最初から近づかない方が安全だと思っていた。
でも今は違う。
真白と話す時間が好きだった。
ここへ来ると少し呼吸ができる。
苦しい時、“会いたい”と思う。
そんな感情が、凛の中で少しずつ大きくなっている。
だから怖い。
凛はぼんやり窓の外を見る。
夜の街。
冬の風。
人通りはもう少ない。
「眠れなかったの、七海ちゃんのことだけじゃないでしょ」
真白が静かな声で言った。
凛は少し肩を揺らす。
「……うん」
隠せないと思った。
最近、真白には少しずつ見透かされるようになっている。
凛はマグカップへ視線を落とした。
「なんか……」
言葉を探す。
でも上手くまとまらない。
「最近、自分がどんどん重くなってる気がする」
その本音を口にした瞬間、胸が少し痛む。
真白は黙って聞いている。
「返信遅いだけで不安になるし」
「会いたいって思うし」
「安心したいって思うし」
凛は唇を噛んだ。
「そういうの、駄目な気がして」
真白は少し目を細める。
「駄目って?」
「……依存、みたいで」
その言葉を言った瞬間、自分でも少し苦しくなる。
依存。
凛は昔から、その言葉が怖かった。
誰かを必要とすること。
一人で立てなくなること。
それは弱いことで、迷惑なことだと思っていたから。
真白はしばらく黙っていた。
それから静かな声で言った。
「凛ちゃんって、“誰かを必要とすること”にかなり罪悪感あるよね」
凛は小さく目を伏せる。
「……あると思う」
本当にそうだった。
昔から、“迷惑をかけない”が最優先だった。
だから寂しくても我慢した。
苦しくても一人で抱えた。
頼った瞬間、嫌われる気がしていた。
「でもさ」
真白がゆっくり続ける。
「人って、本来ちょっとは誰かに寄りかかりながら生きるもんだと思うよ」
凛は顔を上げる。
「全部一人で抱え込む方が、むしろ危ない時あるし」
その言葉に、凛の胸が少し揺れる。
一人で抱え込む。
それは凛がずっとやってきたことだった。
苦しいも。
不安も。
寂しいも。
全部、自分の中だけで処理しようとしてきた。
でもその結果、何度も壊れかけた。
「……でも」
凛は小さく言う。
「頼りすぎたら、いつか嫌われそうで怖い」
真白は静かに凛を見る。
責めるでもなく、困るでもなく、ただ穏やかに。
その視線だけで、少し泣きそうになる。
「凛ちゃん、多分今まで、“安心して甘えても大丈夫”って経験が少なかったんだろうね」
その言葉を聞いた瞬間、凛の胸がじわりと熱くなる。
甘える。
その感覚が、凛にはよくわからなかった。
欲しいと言えば迷惑になる。
寂しいと言えば重くなる。
そう思っていたから。
「だから今、“誰かへ安心したい”って感情が出てきて、自分で怖くなってるんだと思う」
凛はゆっくり目を閉じた。
本当にそうだった。
真白といると安心する。
でも安心するほど、不安になる。
なくなった時が怖いから。
凛は小さく息を吐く。
言いたい言葉が、胸の奥にあった。
でも怖かった。
言った瞬間、重くなる気がした。
嫌われる気がした。
それでも。
今夜はどうしても、胸の奥が苦しかった。
「……真白さん」
「ん?」
凛は唇を少し震わせる。
心臓がうるさい。
「私」
言葉が止まる。
本当は言いたかった。
――離れていかないでほしい。
でも。
その言葉を口にした瞬間、自分が壊れそうで怖かった。
凛は視線を落とす。
「……なんでもない」
結局、飲み込んでしまう。
店の中へ静かな沈黙が落ちた。
真白は何も急かさなかった。
ただ、小さく息を吐いてから言った。
「言えなかった?」
凛の肩が少し震える。
見透かされていた。
凛は俯いたまま、小さく頷く。
「……重い気がして」
声が掠れる。
「こんなの言ったら、困らせる気がした」
その瞬間、涙がぽろりと零れた。
凛は慌てて目元を押さえる。
情けない。
こんなことで泣くなんて。
でも胸の奥が限界だった。
「ごめんなさい……」
反射みたいに謝る。
すると真白は、少し困ったように笑った。
「なんで謝るの」
その声はとても穏やかだった。
凛は涙を拭いながら、小さく息を飲む。
「だって、重いし」
「不安になるし」
「こんなの、普通じゃない」
真白は静かに首を横へ振った。
「安心したいって思うこと、そんなに変かな」
凛は何も言えない。
真白は続ける。
「もちろん、相手に全部預けちゃうのは苦しくなる時あるけど」
「でも、“一緒にいると安心する”って、人間関係のすごく自然な部分だと思う」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
自然。
凛は今まで、“安心したい”を弱さだと思っていた。
でも真白は、それを否定しなかった。
「凛ちゃんさ」
真白は少しだけ笑う。
「最近、“怖い”ちゃんと言えるようになったよね」
凛は目を伏せる。
確かに。
昔なら、“不安”を全部隠していた。
でも今は違う。
苦しい。
寂しい。
怖い。
そういう感情を、少しずつ誰かへ見せ始めている。
「それって、多分ちゃんと人を信じ始めてるってことだと思う」
その言葉を聞いた瞬間、凛の胸が強く揺れた。
人を信じる。
凛は今まで、それが怖かった。
どうせ離れる。
どうせ壊れる。
そう思っていたから。
でも今。
怖いままでも、“ここにいてほしい”と思う人がいる。
それは多分、凛にとって大きな変化だった。
窓の外では、冬の風が静かに吹いている。
凛は涙を拭いながら、小さく思う。
“離れていかないで”は、まだ言えなかった。
でも。
本当はそう思えるくらい、誰かを大事に感じ始めている自分がいる。
そのことだけは、もう誤魔化せなくなっていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




