第89ページ 安心すると、壊れるのが怖くなった
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
その夜、凛はなかなか眠れなかった。
ベッドへ入っても、頭の中には七海の笑顔が残っていた。
隣に恋人がいる時の、あの柔らかい空気。
安心している人の表情。
それを思い出すたび、胸の奥が静かにざわつく。
羨ましい。
でも。
怖い。
凛は布団の中で目を閉じながら、小さく息を吐いた。
昔から、人と距離が近くなるほど不安になった。
仲良くなるほど、“嫌われる未来”を考えてしまう。
だからどこかで、自分から距離を置いてしまう。
深く関わる前に逃げてしまう。
でも最近は違った。
真白と話したい。
会いたい。
苦しい時、顔を思い浮かべる。
そんな感情が、少しずつ大きくなっている。
だから余計に怖かった。
凛はスマートフォンを開く。
真白とのトーク画面。
少し迷ったあと、小さくメッセージを打った。
『起きてる?』
既読はすぐについた。
『起きてるよ』
短い返事。
それだけで少し安心してしまう自分がいる。
『なんか今日、眠れない』
送信。
『来る?』
真白から返ってきたその言葉に、凛の胸が少しだけ熱くなる。
凛はしばらく画面を見つめていた。
行きたい。
でも。
こんなふうに会いに行くことに、まだ少し罪悪感があった。
頼りすぎている気がする。
重くなっている気がする。
でも今夜は、一人でいる方が苦しかった。
『……行きたい』
送信。
冬の夜道は静かだった。
街灯の光が濡れた道路へぼんやり広がっている。
凛はコートのポケットへ手を入れながら歩いた。
風が冷たい。
でも心の奥は、不思議と少しだけ温かかった。
“会いたい”と思える場所がある。
それは凛にとって、昔はなかった感覚だった。
カフェへ着く。
閉店後の『cafe 月灯り』。
店内には柔らかい灯りが残っていた。
凛が扉を開けると、ベルが静かに鳴る。
「こんばんは」
真白がカウンターの奥から笑う。
その声を聞いた瞬間、凛の中の緊張が少しだけほどけた。
「……こんばんは」
真白はいつもの席を指差す。
「今日もココア?」
凛は小さく頷いた。
店内は静かだった。
流れる音楽。
コーヒーの匂い。
外の風の音。
その空気へ包まれるだけで、凛は少し呼吸が深くなる。
真白がココアを置く。
「顔、ちょっと疲れてる」
「……多分」
凛は苦笑する。
真白はカウンター越しに静かに聞いた。
「今日、七海ちゃんのこと結構引っかかってる?」
凛は少し驚いて顔を上げた。
「わかる?」
「なんとなく」
凛はマグカップを両手で包みながら、小さく息を吐いた。
「なんか……幸せそうだった」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少し痛む。
「羨ましかったし、置いていかれる感じもした」
真白は黙って聞いている。
凛は続けた。
「でも、多分それだけじゃなくて」
そこで一度言葉が止まる。
何を感じているのか、自分でも整理しきれていなかった。
でも今夜は、ちゃんと言葉にしたかった。
「私、多分……安心してる人見ると怖くなる」
真白が少し目を細める。
「怖い?」
「うん」
凛は視線を落とした。
「幸せそうな人って、“失う前提”で見ちゃう」
その言葉を口にした瞬間、自分でも胸がぎゅっと締めつけられる。
真白は何も急かさなかった。
凛は静かに続ける。
「今は幸せでも、いつか終わるんじゃないかって思う」
「嫌われるかもしれないし」
「離れていくかもしれないし」
「だから、安心してる姿見ると逆に怖くなる」
店の中へ静かな沈黙が落ちる。
凛はマグカップの湯気を見つめながら、小さく笑った。
「変だよね」
「幸せそうなの見て、“よかった”だけじゃなく、“怖い”が先に来るの」
真白は静かに首を横へ振る。
「変じゃないと思う」
その言葉に、凛の胸が少しだけ緩む。
「多分凛ちゃん、“安心してたものが急になくなる感覚”を昔からいっぱい経験してきたんだろうね」
その言葉を聞いた瞬間、凛は静かに息を止めた。
なくなる感覚。
母の機嫌。
友達との距離。
“ちゃんとしていないと壊れる関係”。
凛の人生には、そういう不安がずっとあった。
「だから今、“安心できる場所”ができ始めてる分、余計怖いんだと思う」
真白の声は穏やかだった。
凛は目を伏せる。
本当にそうだった。
真白といる時間は安心する。
灯とのやり取りも。
七海の優しさも。
全部温かい。
でも。
温かいものほど、“なくなった時”を想像して怖くなる。
「……最近、自分でもびっくりする」
凛はぽつりと言う。
「真白さんから返信遅いだけで不安になったりする」
言った瞬間、恥ずかしくなる。
重い。
絶対重い。
でも真白は笑わなかった。
「うん」
ただ静かに頷く。
「安心したい気持ちが大きくなってるんだろうね」
凛は目を閉じる。
安心したい。
その感情。
凛は今まで、そんなふうに思ってはいけない気がしていた。
人を必要とすること。
誰かへ依存しそうになること。
それは弱さだと思っていた。
「でもさ」
真白がゆっくり言う。
「人って、本当に安心できる場所できると、最初ちょっと不安定になることあるよ」
凛は少し顔を上げる。
「え?」
「だって、“失いたくない”が初めて生まれるから」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
失いたくない。
凛は今まで、“どうせなくなる”前提で生きてきた。
でも今は違う。
真白との時間がなくなるのが怖い。
灯や七海が離れていくのが怖い。
それはつまり。
ちゃんと“ここにいてほしい”と思っているということだった。
凛は目の奥が少し熱くなる。
「……怖い」
小さく呟く。
「うん」
真白は静かに頷く。
「でも多分、その怖さって、“誰かをちゃんと大事に思えてる証拠”でもあると思う」
凛は何も言えなかった。
怖い。
でも。
昔みたいな、“何も感じない孤独”には、もう戻りたくなかった。
それだけは、少しずつわかり始めている。
窓の外では、夜風が静かに吹いている。
凛は温かいココアを飲みながら、ぼんやり思う。
安心すると怖くなる。
でも。
怖くなるくらい、誰かを大事に思えるようになった自分を、ほんの少しだけ愛おしいとも感じ始めていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




