第9ページ 消えたいわけじゃない
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
東京へ戻ったあとも、凛の中には実家での会話が残っていた。
母は凛を愛している。
それは間違いない。
でも、その愛情は時々、凛を苦しめる。
普通でいてほしい。
ちゃんと生きてほしい。
傷つかないように。
社会からはみ出さないように。
そう願われるほど、凛は「普通になれない自分」を責めてしまう。
七月に入ると、暑さが一気に増した。
大学へ向かうだけで汗が滲む。
満員電車の熱気。
騒がしい構内。
アルバイト。
人間関係。
凛は毎日、何かに押し潰されそうだった。
特に最近は、夜になると胸がざわついた。
理由もなく不安になる。
ちゃんと息が吸えない。
未来を考えると怖くなる。
このまま社会に出て、生きていけるのだろうか。
ずっと無理を続けて、壊れてしまうんじゃないか。
そんな考えが頭の中を回り続ける。
ある夜。
凛は眠れなかった。
エアコンの音だけが静かな部屋に響いている。
時刻は午前二時を過ぎていた。
スマートフォンを開く。
SNSを眺める。
誰かの日常。
笑顔の写真。
楽しそうな動画。
それらをぼんやり見ているうちに、凛は突然息苦しくなった。
どうしてみんな、こんなに普通に生きられるんだろう。
どうして私は、今日を終えるだけでこんなに疲れているんだろう。
凛は画面をスクロールする。
すると、不意にある投稿が目に入った。
『消えたいわけじゃない。ただ、明日が来るのが怖いだけ』
凛の指が止まる。
そのアカウント名は『灯』だった。
投稿には、綺麗な夜空の写真が添えられている。
『ちゃんと生きなきゃって思うほど苦しくなる』
『頑張れって言葉が刺さる日がある』
『みんな普通にできることが、自分には苦しい』
凛は息を止めた。
まるで、自分の心の中を言葉にされたみたいだった。
凛はそのアカウントを開く。
そこには、“死にたい”とは少し違う痛みが並んでいた。
『消えたい』
『朝が来るのが怖い』
『誰にも迷惑かけずにいなくなれたらいいのに』
『でも本当は、誰かに見つけてほしい』
凛はスマートフォンを握る手に力を込めた。
わかる。
全部わかる。
死にたいわけじゃない。
でも、生き続けることが苦しい。
その感覚を、凛はずっと誰にも言えなかった。
言えば「重い」と思われる気がした。
甘えだと言われる気がした。
けれどこの人は、それを隠していなかった。
凛は迷った末、その投稿に初めて“いいね”を押した。
すると数分後、通知が来る。
『ありがとう』
灯からのメッセージだった。
凛の胸が小さく跳ねる。
知らない人。
でも、不思議と怖くなかった。
凛は少し迷ってから返信した。
『投稿、すごくわかります』
送信したあと、急に不安になる。
変だと思われないだろうか。
重いと思われないだろうか。
けれど、すぐに返事が来た。
『わかる人がいてよかった』
その一文を見た瞬間、凛の目が熱くなった。
“わかる人”。
今まで、自分はずっと一人だと思っていた。
こんなことで苦しくなるのは、自分だけだと思っていた。
灯とのやり取りは、それから少しずつ増えていった。
深夜。
眠れない時間。
お互いの「苦しい」を少しずつ言葉にする。
『今日、人と話すだけで疲れた』
『わかる。笑うのしんどい日ある』
『みんな普通に働いてるのすごい』
『私はバイト帰ると毎回泣きたくなる』
灯は、自傷経験があることも隠さなかった。
『昔、リスカしてた』
そのメッセージを見たとき、凛は息を飲んだ。
怖い、とは思わなかった。
むしろ、「そこまで苦しかったんだ」と胸が締めつけられた。
『今は?』
凛が聞くと、灯は少し時間を空けて返した。
『今もたまに消えたくなる』
『でも、生きてる』
その言葉が、凛の中に静かに残る。
生きてる。
ただそれだけのことが、どれほど大変なのか。
灯は知っていた。
数日後。
凛は『cafe 月灯り』へ向かった。
真白はカウンターでグラスを拭いていた。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
凛は窓際の席へ座る。
真白は凛の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「最近、眠れてない?」
「……わかる?」
「なんとなく」
凛は苦笑した。
この人には隠せない。
「SNSで、人と知り合って」
「うん」
「その人の言葉が、すごくわかってしまって」
真白は静かに聞いていた。
「“消えたいわけじゃない”って言ってて」
凛は視線を落とす。
「それが、すごく自分みたいだった」
しばらく沈黙が落ちる。
真白は急いで答えを出さない。
だから凛は安心して話せる。
「……俺も、昔よく思ってたよ」
真白が静かに言った。
「消えたいって」
凛は顔を上げた。
「でも、本当に死にたいわけじゃなかった」
真白は窓の外を見る。
「ただ、“今の苦しさから消えたかった”だけだった」
その言葉に、凛の胸が強く揺れた。
まさに、それだった。
死にたいわけじゃない。
でも、この苦しさの中で生き続けるのが怖い。
「凛ちゃん」
真白が静かに言う。
「“消えたい”って感情は、弱さじゃなくて、限界のサインだったりするから」
凛は何も言えなかった。
限界。
自分はずっと、そのサインを無視してきた気がした。
もっと頑張らなきゃ。
ちゃんとしなきゃ。
そうやって、自分の苦しさを押し込めてきた。
「……でも」
凛は小さく呟く。
「そんなこと思う自分が怖い」
真白は少しだけ笑った。
「怖いって思えてるなら、まだちゃんと生きたいんだと思う」
その言葉に、凛の喉が熱くなる。
生きたい。
そんなふうに考えたことはなかった。
ただ、苦しいだけだったから。
でも本当は。
消えたいんじゃない。
苦しくない場所で、生きたかっただけなのかもしれない。
帰り道。
凛は夜空を見上げた。
東京の空には星が少ない。
それでも、遠くに小さな光が見えた。
灯。
真白。
七海。
この世界には、自分と同じように苦しみながら生きている人がいる。
その事実だけが、凛を少しだけ現実へ繋ぎ止めていた。
アパートへ戻ると、灯からまたメッセージが届いていた。
『今日、生きててえらい』
短いその言葉を見た瞬間、凛の目から静かに涙が落ちた。
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




