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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第8ページ 普通でいてほしい


「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」


誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。

人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。

ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。


そんな“生きづらさ”を、

「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。


この物語は、

“普通”になれなかった人たちの物語です。


誰にも言えない孤独。

理解されない苦しさ。

消えたいわけじゃないのに、

この世界にうまく馴染めない感覚。


主人公・朝比奈凛は、

そんな痛みを抱えながら生きています。


けれど、

生きづらさには、理由があります。


そして、

名前のつかない痛みにも、

いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。


この物語が、

今苦しんでいる誰かの心に、

小さな灯りとして残りますように。



 六月の終わり。


 凛は久しぶりに実家へ帰った。


 大学の課題とアルバイトに追われる日々の中で、ほとんど休めていなかった。母から何度か「たまには帰ってきなさい」と連絡が来ていたこともあり、土日の短い休みを使って地元へ戻ることにしたのだ。


 新幹線の窓から見える景色は、東京とは違ってゆっくり流れていた。


 灰色のビル群が減り、田んぼや低い住宅街が増えていく。


 その風景を見ながら、凛は少しだけ息を吐いた。


 懐かしいはずなのに、帰るのが少し怖かった。


 実家の最寄り駅に着くと、美咲が改札の前で待っていた。


「凛!」


 母は嬉しそうに手を振る。


 凛も小さく笑った。


「久しぶり」


「痩せた?」


「そうかな」


「ちゃんと食べてる?」


 矢継ぎ早の質問。


 その声には本当に心配している響きがあった。


 だから凛は、胸が苦しくなる。


 母は悪い人じゃない。


 むしろ、ちゃんと愛してくれている。


 それがわかるからこそ、自分の苦しさを責めてしまう。


 夕飯は凛の好きなハンバーグだった。


「大学どう?」


 食卓で美咲が聞く。


「友達できた?」


「……うん」


「よかった。安心した」


 美咲は心から嬉しそうだった。


 凛は曖昧に笑う。


「バイトも始めたんでしょ?」


「うん」


「偉いじゃない。ちゃんと社会経験しなきゃね」


 その言葉に、凛の胸が少し重くなる。


 ちゃんと。


 社会経験。


 正しい言葉。


 だから苦しい。


「凛は昔から心配だったのよ」


 美咲は味噌汁をよそいながら言った。


「人付き合い苦手だったし、すぐ顔に出るし」


 凛は黙って聞いていた。


「社会出たら、そういうの通用しないから」


 その瞬間、真白の言葉が頭をよぎる。


 ――社会って、結構残酷。


 凛は箸を握る手に力を込めた。


「……頑張ってるよ」


 そう言うと、美咲は笑った。


「うん、凛は真面目だから大丈夫」


 またその言葉だ。


 真面目だから。


 頑張り屋だから。


 昔から何度も言われてきた。


 でも、本当は。


 真面目でいるほど苦しかった。


 夜。


 実家の自室へ戻る。


 高校時代とほとんど変わっていない部屋。


 本棚。


 机。


 カーテン。


 懐かしい匂い。


 けれど、凛は不思議と落ち着かなかった。


 ベッドへ座り、スマートフォンを見る。


 七海からメッセージが届いていた。


『実家どうー?』


『ゆっくり休みなよ!』


 その優しさに少しだけ救われる。


 続いて、真白からも珍しくメッセージが来ていた。


『帰省中?』


 凛は少し驚いた。


『うん、実家』


『そっか。ちゃんと休めるといいね』


 その短い文章を見て、凛はぼんやり思う。


 真白の「休んで」は、本当に休んでいい気がする。


 でも母の「頑張って」は、休んではいけない気がする。


 どうしてこんなに違うのだろう。


 翌朝。


 凛は早く目が覚めた。


 リビングへ行くと、美咲が一人で新聞を読んでいた。


「あら、早いじゃない」


「うん……」


「コーヒー飲む?」


「飲む」


 静かな朝だった。


 テレビのニュースが流れている。


 アナウンサーが「社会人に必要なコミュニケーション能力」について話していた。


 凛はその言葉だけで少し息が詰まる。


「東京、疲れない?」


 不意に美咲が聞いた。


 凛は少し驚く。


「え?」


「人多いし」


「……まあ」


「凛、昔から人に気遣いすぎるから」


 その言葉に、凛は顔を上げた。


 母はコーヒーを飲みながら続ける。


「小さい頃から、人の機嫌ばっかり見てたでしょ」


 凛の胸がざわつく。


 気づいていたんだ。


 母は。


「でもね」


 美咲は少し真面目な顔になる。


「社会って、ある程度我慢しなきゃいけないのよ」


 凛は何も言えなかった。


「みんな嫌なことあっても頑張ってるんだから」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が重く沈む。


 まただ。


 みんな頑張ってる。


 だからあなたも頑張りなさい。


 その言葉は、凛を追い詰める。


「お母さんだって、ずっとそうだったんだから」


 美咲は笑った。


 でもその笑顔は、少し疲れて見えた。


「結婚して、仕事して、家事して。嫌なことなんていっぱいあったわよ」


「……」


「でも普通はそういうものだから」


 普通。


 その言葉が、また凛の胸に刺さる。


 凛は小さく俯いた。


「……お母さんは」


 声が震える。


「苦しくなかったの?」


 美咲は少し驚いた顔をした。


 数秒の沈黙。


 それから小さく笑う。


「苦しかったわよ」


 凛は顔を上げた。


「え……」


「当たり前じゃない」


 美咲は窓の外を見ながら言った。


「でも、生きるってそういうことでしょ」


 その横顔は、どこか遠かった。


 凛は初めて思う。


 母もまた、苦しかったのかもしれない。


 ただ、その苦しさを「我慢するもの」だと思って生きてきたのだ。


 だから娘にも同じように言う。


 頑張りなさい。


 普通でいなさい。


 我慢しなさい。


 それしか知らなかったから。


「凛」


 美咲が静かに言う。


「お母さんは、あなたに幸せになってほしいの」


 凛の胸が痛くなる。


 それは本心だ。


 愛情だ。


 だから余計に苦しい。


「でもね、世の中って、ちゃんとやれない人には厳しいから」


 凛は唇を噛んだ。


 ちゃんとやれない人。


 その言葉が、自分に向けられている気がした。


「だから、お母さんは心配なの」


 美咲の声は少しだけ震えていた。


「凛は優しすぎるから」


 凛は何も言えなかった。


 優しさ。


 気遣い。


 敏感さ。


 それはずっと、自分の弱さだと思っていた。


 でも母は、それを知っていたのかもしれない。


 知っていて、怖かったのだ。


 この子は社会で傷つく、と。


 だから普通になってほしかった。


 強くなってほしかった。


 凛はその夜、一人で散歩に出た。


 懐かしい住宅街。


 静かな道路。


 遠くの犬の鳴き声。


 東京とは違う静けさ。


 けれど心は落ち着かなかった。


 真白の言葉が頭の中に浮かぶ。


 ――“普通”って、結構暴力的だから。


 でも母は、暴力を振るいたかったわけじゃない。


 ただ、必死だったのだ。


 自分の娘が傷つかないように。


 普通から外れないように。


 そう願って。


 凛は空を見上げた。


 夜空には星が少しだけ見えていた。


 母も苦しかった。


 だから、自分にも苦しさを押しつけてしまった。


 そのことがわかるほど、凛は余計に何も言えなくなる。


 責められない。


 嫌いにもなれない。


 ただ、苦しい。


 その感情に名前はまだついていなかった。


 けれど凛は、少しずつ気づき始めていた。


 自分の「生きづらさ」は、弱さだけでできているわけじゃないことに。


 誰かの期待。


 社会の正しさ。


 愛情の形。


 そういうものが積み重なって、自分を苦しめていたことに。



『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。


この作品は、

「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。


世の中には、

頑張っても周囲に馴染めなかったり、

人より敏感に傷ついてしまったり、

誰かの期待に応えようとして、

自分を見失ってしまう人がいます。


けれど、

それは決して“弱さ”ではありません。


誰にも見えない場所で、

必死に息をして、

壊れそうになりながら今日を生きている。


それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。


凛が少しずつ、

自分の痛みに向き合い、

「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、

この物語が、

誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。


あなたの苦しさには、

ちゃんと理由があります。


そして、

その痛みを抱えたままでも、

人は誰かと出会い、

少しずつ生きていけるのだと、

この作品を通して伝えられていたら幸いです。


最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

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