第10ページ 壊れる音がした
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
その日は朝から駄目だった。
目覚ましが鳴った瞬間、凛は身体を起こせなかった。
胸が重い。
呼吸が浅い。
頭の奥がぼんやりしている。
スマートフォンを見ると、午前七時十二分だった。
一限は九時から。
準備をすればまだ間に合う。
なのに、身体が動かなかった。
天井を見つめたまま、凛はぼんやり考える。
行きたくない。
でも行かなきゃ。
休んだら駄目だ。
ちゃんとしなきゃ。
その考えだけが頭の中を回り続ける。
凛は無理やり身体を起こした。
洗面所へ向かう。
鏡に映る自分の顔は青白かった。
「……大丈夫」
小さく呟く。
そう言わなければ、本当に崩れてしまいそうだった。
大学へ向かう電車の中。
人の多さだけで息が苦しくなる。
誰かの話し声。
香水の匂い。
吊革を握る腕。
全部が近すぎた。
凛は必死に呼吸を整える。
ここで倒れたら迷惑をかける。
ちゃんとして。
ちゃんとして。
自分に言い聞かせる。
大学へ着く頃には、もう限界に近かった。
講義室へ入ると、七海が笑顔で手を振った。
「凛ちゃん、おはよ!」
「……おはよう」
「顔色悪くない?」
「ちょっと寝不足で」
凛は笑った。
その瞬間、自分の笑顔がひどく薄っぺらく感じた。
講義が始まる。
教授の声が遠い。
文字が頭に入らない。
周囲の小さな音ばかり気になる。
誰かの咳払い。
椅子を引く音。
ページをめくる音。
全部が頭の中へ刺さってくる。
呼吸が苦しい。
胸が痛い。
凛は机の下で手を強く握りしめた。
耐えなきゃ。
みんな普通に座っている。
自分だけ苦しいなんておかしい。
でも。
もう限界だった。
休憩時間になった瞬間、凛は講義室を飛び出した。
トイレへ駆け込む。
個室へ入り、鍵を閉める。
その瞬間、身体の力が抜けた。
呼吸がうまくできない。
視界が揺れる。
涙が勝手に滲む。
「……っ、は……」
苦しい。
怖い。
どうしてこんなことになるのかわからない。
死にたいわけじゃない。
でも、このまま生き続けるのが怖い。
凛は震える手でスマートフォンを開いた。
灯から昨夜届いていたメッセージが残っている。
『無理して笑い続けると、自分がどこか行くよ』
その言葉を見た瞬間、涙が溢れた。
もう、自分がどこにいるのかわからなかった。
どれが本音なのか。
どれが「周囲に合わせた顔」なのか。
何もわからない。
しばらくして、凛は何とか呼吸を整えた。
鏡を見る。
泣いた跡を隠す。
笑顔を作る。
戻らなきゃ。
普通にしなきゃ。
その時、スマートフォンが震えた。
七海からだった。
『大丈夫?』
『心配なんだけど』
凛は少し迷ってから返信する。
『ごめん、ちょっと体調悪い』
『無理しないで!』
優しい言葉。
でも今の凛には、その優しさすら痛かった。
期待に応えられない自分を突きつけられる気がして。
午後の講義を休み、凛は大学を出た。
気づけば足は『cafe 月灯り』へ向かっていた。
平日の昼過ぎ。
店内に客は少なかった。
ベルが鳴る。
真白が顔を上げた瞬間、凛はもう駄目だった。
「……あ」
「凛ちゃん?」
真白が立ち上がる。
凛は笑おうとした。
でもうまくできなかった。
「ご、ごめんなさい……」
声が震える。
「なんか……今日……」
そこで言葉が切れた。
涙が溢れる。
止まらない。
凛は慌てて顔を隠した。
「ごめ、なさい……っ」
「謝らなくていい」
真白の声は静かだった。
その声を聞いた瞬間、張っていたものが全部切れた。
凛は小さくしゃがみ込む。
息が苦しい。
頭が真っ白だった。
「……怖い」
気づけば、そう口にしていた。
「このまま、ちゃんと生きれない気がして……」
真白はすぐに何かを言わなかった。
ただ近くに座り、静かに待っていた。
その沈黙がありがたかった。
「……みんな普通にできてるのに」
凛は涙を拭いながら言う。
「大学も、バイトも、人付き合いも……」
声が震える。
「私だけ、こんなに苦しくて……」
真白は少し視線を落とした。
そして静かに言う。
「俺も昔、電車乗れなくなったことあるよ」
凛は顔を上げた。
「え……」
「人の多い場所行くと、息できなくなって」
真白は苦笑する。
「朝、玄関出れない日もあった」
凛は言葉を失った。
今の真白からは想像できない。
穏やかで、落ち着いていて、人に優しくて。
そんな人が、自分と同じように壊れそうだったなんて。
「仕事も辞めた」
真白は静かに続ける。
「“普通に働けない自分”が情けなくて、死ぬほど嫌だった」
店内には静かな音楽だけが流れている。
「……どうやって」
凛は小さく聞いた。
「どうやって、戻ったの」
真白は少し考える。
「戻ってないよ」
「え……?」
「今も普通じゃないと思う」
その言葉に、凛は目を見開いた。
普通じゃない。
真白はそれを、否定しなかった。
「でも、“普通じゃないと生きちゃいけない”わけじゃなかった」
凛の喉が熱くなる。
そんなふうに考えたことがなかった。
普通になれないなら、自分には価値がないと思っていたから。
「凛ちゃん」
真白が静かに言う。
「壊れる寸前まで頑張る癖、あるでしょ」
凛は何も言えなかった。
図星だった。
限界になるまで耐える。
苦しくても笑う。
迷惑をかけないように。
嫌われないように。
そうして、自分を削り続けてきた。
「……頑張らないと」
凛は掠れた声で言う。
「ちゃんとしないと、置いていかれるから」
真白は少しだけ目を伏せた。
「置いていかれても、生きてていいんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、凛はまた涙を零した。
今まで誰も、そんなことを言ってくれなかった。
頑張れ。
ちゃんとしろ。
普通になれ。
そういう言葉ばかりだった。
でも真白は、「置いていかれてもいい」と言った。
凛は泣きながら思う。
本当は、ずっと苦しかった。
誰にも追いつけない気がして。
普通になれない自分が恥ずかしくて。
だから必死に笑っていた。
でも、その笑顔の奥で、自分は少しずつ壊れていたのだ。
窓の外では、夏の陽射しが街を照らしていた。
眩しいほど明るい世界。
その中で凛は、初めて自分の壊れる音を聞いた気がした。
そして同時に。
壊れたままでも、生きていいのかもしれないと、ほんの少しだけ思い始めていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




