第11ページ 休むことが怖い
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
次の日、凛は大学を休んだ。
朝、目覚ましは鳴った。
けれど身体が動かなかった。
布団の中で目を開けたまま、天井を見つめる。
昨日、カフェで泣いたことを思い出す。
真白の言葉。
――置いていかれても、生きてていいんだよ。
あの言葉は、凛の中にまだ残っていた。
でも同時に、別の声も頭の中で響いている。
休んじゃ駄目。
怠けるな。
みんな頑張ってる。
その声は、母のものでもあり、社会のものでもあり、いつの間にか自分自身のものにもなっていた。
スマートフォンを見る。
七海からメッセージが来ていた。
『今日一限休講になったよー』
『……って送ろうと思ったら凛ちゃんいなかった』
『大丈夫?』
凛は画面を見つめたまま、すぐに返信できなかった。
心配をかけてしまった。
また「ちゃんとできなかった」。
その感覚が胸を重くする。
少し考えてから、
『ごめん、体調悪くて休んだ』
と送る。
すぐに返信が来た。
『そっか、大丈夫!?』
『無理しないでね』
優しい言葉。
でも、凛はまた苦しくなる。
心配をかける自分が嫌だった。
布団の中で膝を抱える。
窓の外は曇っていた。
灰色の空。
部屋の中は静かだ。
大学へ行かなかっただけなのに、自分が社会から少し落ちこぼれた気がする。
凛は昔から、「休むこと」が怖かった。
学校を休む。
約束を断る。
できませんと言う。
それは全部、「ちゃんとした人間」から外れることのように思えていた。
だから限界まで耐える。
壊れる寸前まで笑う。
その生き方しか知らなかった。
昼過ぎになっても、凛は何もできなかった。
食欲もない。
ただ時間だけが過ぎていく。
スマートフォンを開けば、SNSには大学生活を楽しむ人たちの写真が並んでいた。
『今日のランチ!』
『テストだるー』
『放課後カラオケ!』
その全部が遠い世界に見える。
凛はスマホを伏せた。
涙が出そうだった。
たった一日休んだだけなのに、自分だけ取り残された気がする。
その時、不意に通知が来た。
真白だった。
『今日は来ない?』
短いメッセージ。
凛は少し驚いた。
どうしてわかったんだろう。
少し迷ってから返信する。
『大学休んだ』
数秒後、返事が来る。
『そっか』
『じゃあ、休めた?』
凛はその言葉に目を止めた。
普通なら、「大丈夫?」とか「ちゃんと寝た?」と聞かれる。
でも真白は、“休めたか”を聞いた。
凛はゆっくり打ち込む。
『罪悪感すごい』
送信してから、少し恥ずかしくなる。
重いと思われただろうか。
けれど真白はすぐに返した。
『真面目な人ほどそうなる』
『でも、限界超えてから倒れる方がもっと苦しい』
凛はその文章を何度も見返した。
限界を超えてから倒れる。
それはまるで、自分の未来みたいだった。
夕方。
凛は少し迷った末、『cafe 月灯り』へ向かった。
外へ出ると、空気は少し湿っていた。
歩いているだけで、「大学を休んだ自分」が街の中で浮いている気がする。
みんな頑張っている時間。
自分だけ逃げている。
そんな感覚が消えない。
店へ入ると、ベルが鳴った。
「いらっしゃい」
真白はいつも通りの声で迎えた。
それだけで少し安心する。
「……こんにちは」
「今日はちゃんとご飯食べた?」
凛は少し黙った。
「……まだ」
「じゃあ先に何か食べな」
真白はメニューを差し出した。
「甘いのでもいいから」
凛は小さく頷く。
結局、サンドイッチとカフェラテを頼んだ。
料理が来るまで、凛はぼんやり窓の外を見ていた。
夕方の街。
行き交う人々。
みんな、ちゃんと生きているように見える。
「休んだだけで、自分が駄目になった気する?」
不意に真白が聞いた。
凛は少し驚く。
「……うん」
「そっか」
真白は静かに頷いた。
「俺もそうだった」
凛は視線を上げる。
「一回休むと、“もう戻れない気がする”んだよね」
その言葉に、凛の胸が小さく震えた。
まさにそれだった。
今日休んだことで、自分が普通のレールから落ちてしまった気がする。
「でも実際は、休まないと壊れることもある」
真白は淡々と言う。
「ちゃんとしてる人ほど、自分の限界無視するから」
凛は俯いた。
昨日、初めて「壊れる音」がした気がした。
あれ以上無理していたら、本当に何かが駄目になっていたかもしれない。
「……真白さんは」
凛は小さく聞く。
「休めるようになるまで、どのくらいかかったの?」
真白は少し考える。
「結構かかった」
苦笑する。
「最初は、“休む=負け”だと思ってたから」
凛は静かに聞いていた。
「でも、無理して働き続けて、ある日ほんとに動けなくなった」
その声は穏やかだった。
けれど、その奥にある苦しさを凛は感じ取ってしまう。
「何もできなくなると、人って“自分には価値がない”って思い始めるんだよね」
凛の胸が痛む。
その感覚が少しわかる。
ちゃんとできないと、自分が空っぽに思える。
「だから今は、壊れる前に休む方が大事だと思ってる」
真白は静かに笑った。
その笑顔は、どこか寂しかった。
凛はふと思う。
真白は、どれほど苦しかったのだろう。
どれほど一人で耐えてきたのだろう。
凛はサンドイッチを一口食べた。
久しぶりに、ちゃんと味を感じた気がした。
「……私」
凛はぽつりと呟く。
「休むの、下手なんだと思う」
真白は少し笑う。
「頑張るの上手な人ほど、休むの下手」
その言葉に、凛は少しだけ笑ってしまった。
本当に少しだけ。
でも、その笑顔は無理やり作ったものではなかった。
真白はそれを見て、何も言わずにカウンターへ戻る。
凛はぼんやりその背中を見つめた。
この店にいると、「ちゃんとしていない自分」を少しだけ許される。
大学を休んだ自分も。
弱い自分も。
壊れかけている自分も。
全部、ここでは隠さなくていい気がした。
窓の外では、夕暮れが静かに街を染めている。
凛はその景色を見ながら、ゆっくり息を吐いた。
まだ怖い。
社会から置いていかれることも。
普通になれないことも。
でも。
休んでも、生きていていい。
その感覚を、凛は少しずつ覚え始めていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




