第12ページ 誰にも言えない夜
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
大学へ戻った日、凛は少し緊張していた。
一日休んだだけなのに、教室へ入るのが怖い。
変に思われていないだろうか。
「サボった」と思われていないだろうか。
そんなこと、誰も気にしていないかもしれない。
でも凛の頭の中では、その不安がどんどん大きくなる。
講義室の扉を開けると、七海がすぐに気づいた。
「凛ちゃん!」
七海はほっとした顔で駆け寄ってくる。
「大丈夫だった?」
「……うん、ごめん」
「謝んなくていいって!」
七海は笑った。
その笑顔を見て、凛は少しだけ安心する。
「昨日ちょっと心配したんだからね」
「……ごめん」
「だから謝らなくていいってば」
七海は軽く肩を叩いた。
その優しさに、凛はまた少し苦しくなる。
ちゃんと返せているだろうか。
七海の期待に応えられているだろうか。
講義が始まっても、凛はどこか落ち着かなかった。
周囲の笑い声。
スマートフォンを触る音。
小さなざわめき。
全部が耳に入ってくる。
でも以前より少しだけ、「苦しい」と認められるようになっていた。
無理をしている。
疲れている。
そう感じる自分を、前ほど責めなくなっている。
それはたぶん、真白の言葉のおかげだった。
昼休み。
七海と二人で学食へ向かう。
途中、七海が突然ため息をついた。
「……なんか疲れた」
珍しく弱い声だった。
凛は少し驚く。
「大丈夫?」
「うーん」
七海は曖昧に笑う。
「最近、ずっと誰かと一緒にいるからかな」
凛は黙って聞いていた。
「一人だと不安なのに、人といても疲れるんだよね」
七海は苦笑した。
「意味わかんないよね」
「……わかる」
凛は小さく言った。
七海が少し目を見開く。
「え?」
「私も……人といると疲れる。でも一人だと、置いていかれそうで怖い」
その言葉を口にした瞬間、凛は少し緊張した。
本音を言いすぎたかもしれない。
重かったかもしれない。
けれど七海は、静かに笑った。
「なにそれ、同じじゃん」
その言葉に、凛の胸が少し温かくなる。
同じ。
凛はずっと、自分だけがおかしいと思っていた。
「私さ」
七海がぽつりと言う。
「高校の時、一回グループから外されたって言ったじゃん?」
「……うん」
「あのあと、人に嫌われるの怖すぎて、ずっと“いい子”やってる気がする」
七海はジュースのストローを弄りながら笑った。
「空気悪くしないように、ずっとテンション上げてさ」
凛は静かに聞いていた。
「でもたまに、何が本当の自分かわかんなくなる」
その言葉が、凛の胸に深く落ちる。
自分と同じだった。
周囲に合わせ続けて、本音がわからなくなる感覚。
嫌われないように笑うこと。
無理をしてでも空気に馴染もうとすること。
それは七海も同じだった。
「……七海ちゃんも、苦しいんだね」
凛がそう言うと、七海は少しだけ驚いた顔をした。
それから、ふっと笑う。
「うん。めっちゃ」
その笑顔は、いつもの明るい笑顔より少し弱かった。
でも凛は、その方がずっと自然に見えた。
帰り道。
七海は突然言った。
「凛ちゃんってさ、不思議だよね」
「え?」
「静かなのに、一緒いると安心する」
凛は戸惑う。
そんなふうに言われることに慣れていない。
「なんか、“ちゃんとしなきゃ”って思わなくていい感じする」
七海は笑った。
凛は何も言えなかった。
自分はずっと、「ちゃんとしてない側」だと思っていたから。
その夜。
凛はバイトだった。
店内は混んでいた。
レジ。
注文。
呼び出し音。
慌ただしい空気。
凛は必死に動く。
「朝比奈さん、急いで!」
三崎の声が飛ぶ。
「すみません!」
焦るほどミスしそうになる。
周囲の空気が張り詰める。
その瞬間、凛の頭の中で何かが切れそうになった。
怖い。
迷惑をかける。
嫌われる。
呼吸が浅くなる。
「朝比奈さん?」
三崎が怪訝そうに眉を寄せる。
「大丈夫?」
「……っ」
返事ができない。
視界が揺れる。
その時、別のスタッフがフォローに入った。
「こっちやっとくから!」
凛は何とか頷いた。
でも胸の奥では、自分を責める声が止まらない。
またできなかった。
また迷惑をかけた。
バイトが終わる頃には、凛は完全に消耗していた。
外へ出る。
夜風が少し冷たい。
駅前の灯りが滲んで見えた。
凛はスマートフォンを開く。
灯からメッセージが届いていた。
『今日は生きるだけで疲れた』
凛は少し考えてから返す。
『私も』
すぐに返信が来た。
『おそろいだね』
その言葉を見た瞬間、凛は少し笑ってしまった。
苦しいことを「おそろい」と言う人がいる。
それは不思議だった。
でも少し救われた。
気づけば、凛は『cafe 月灯り』へ向かっていた。
もう閉店間際だった。
店へ入ると、真白が片付けをしていた。
「あれ、珍しい時間」
「……バイト帰り」
「お疲れさま」
その一言だけで、涙が出そうになる。
凛はカウンター席へ座った。
真白は何も聞かず、水を置いてくれる。
その静けさがありがたかった。
「……今日」
凛はぽつりと言う。
「ちょっと、本気で無理かもって思った」
真白は静かに聞いている。
「周りの人は普通にできてるのに、自分だけできなくて」
声が震える。
「なんか、ちゃんと社会に馴染めない気がして」
しばらく沈黙が落ちる。
真白はゆっくりグラスを拭きながら言った。
「“馴染めない”んじゃなくて、“無理して合わせすぎてる”のかもね」
凛は顔を上げた。
「……え」
「凛ちゃん、人よりずっと周り見てるから」
真白は静かに続ける。
「その分、ずっと神経使ってる」
凛は俯いた。
その通りだった。
空気を読む。
嫌われないようにする。
迷惑をかけないようにする。
そのために、ずっと全身を緊張させている。
「だから、“普通の人と同じようにできない”んじゃなくて」
真白は少しだけ笑った。
「最初から背負ってる重さが違うんだと思う」
その言葉を聞いた瞬間、凛の目の奥が熱くなる。
今まで、自分だけ怠けていると思っていた。
努力が足りないと思っていた。
でも。
本当は、最初から疲れていたのかもしれない。
「……助けてほしいって」
凛は小さく呟く。
「思っちゃ駄目だと思ってた」
真白の手が止まる。
「迷惑かけるから」
凛の声は震えていた。
「でも最近、ちょっとだけ……誰かに助けてほしいって思う」
その言葉を口にした瞬間、凛は泣きそうになった。
弱音を吐いてしまった気がした。
でも真白は、否定しなかった。
「それ、すごく大事なことだと思う」
静かな声だった。
「一人で壊れないために、人は誰かに頼るんだよ」
凛は何も言えなかった。
頼る。
助けてほしいと言う。
そんなこと、自分には許されないと思っていた。
でも今。
この静かな店の中でだけは。
少しだけ、「苦しい」と言ってもいい気がしていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




