第13ページ 消えないで
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
七月の夜は、眠れない。
昼間の熱気が部屋に残っていて、エアコンをつけても空気が重かった。
凛はベッドに横になったまま、スマートフォンの画面を見つめていた。
時刻は午前一時三十八分。
灯とのメッセージ画面が開かれている。
『今日、またバイトでミスした』
凛が送ると、灯はすぐに返した。
『私も今日、人と話すだけで死にそうだった』
その返信に、凛は少しだけ笑う。
灯とは、不思議な距離感だった。
まだ会ったこともない。
本名すら知らない。
でも、誰より本音を話せる気がした。
“苦しい”と言ってもいい。
“消えたい”と思ってしまう日があることを隠さなくていい。
そんな相手は、凛にとって初めてだった。
『凛ちゃんって、頑張りすぎるタイプでしょ』
灯からそう送られてくる。
凛は少し考えてから返信した。
『わかる?』
『わかる』
『私もそうだから』
その文字を見つめながら、凛は胸の奥が少し温かくなる。
同じ。
その感覚に、最近の凛は何度も救われていた。
でも同時に、怖くもあった。
灯の投稿は、ときどきひどく危うい。
『今日、生きてる意味わからなかった』
『消えたい気持ちが頭から離れない』
『朝が来るの怖い』
凛はその言葉を見ながら、胸がざわつく。
わかってしまうからこそ、怖い。
灯が本当に消えてしまうんじゃないかと思う瞬間がある。
『灯ちゃん』
凛はメッセージを打つ。
『ちゃんと寝れてる?』
既読はつかない。
凛は画面を見つめたまま、小さく息を吐く。
少し前まで、凛は「誰かが消えるかもしれない」なんて考えたことがなかった。
でも今は違う。
苦しさを知ってしまったから。
限界まで追い詰められる感覚を、少し理解してしまったから。
翌朝になっても、灯から返信は来なかった。
大学へ向かう途中も、凛は何度もスマートフォンを確認してしまう。
既読はつかない。
胸が落ち着かなかった。
「凛ちゃん?」
七海が不思議そうに覗き込む。
「どうしたの? 今日めっちゃスマホ見てる」
「あ……」
凛は慌てて画面を伏せる。
「ちょっと、連絡待ってて」
「そっか」
七海はそれ以上聞かなかった。
その優しさがありがたかった。
講義中も、凛は集中できなかった。
灯は大丈夫だろうか。
ちゃんと生きているだろうか。
そんなことばかり考えてしまう。
昼休み。
ようやく通知が鳴った。
『ごめん、寝てた』
その文字を見た瞬間、凛は力が抜ける。
『よかった……』
思わずそう返してしまう。
数秒後、灯から返事が来た。
『心配してくれたの?』
『……うん』
『優しいね』
凛はスマートフォンを見つめた。
優しい。
昔からそう言われるたび、少し苦しかった。
優しくしなきゃいけない気がしたから。
でも今は少し違う。
本当に心配だった。
灯が消えてしまうのが怖かった。
『凛ちゃんって、誰かが消えるの怖い人だよね』
灯のメッセージを見て、凛の指が止まる。
その通りだった。
昔からそうだ。
人が離れていくのが怖い。
嫌われるのが怖い。
だから必死に空気を読む。
相手を優先する。
そうやって、自分を削ってしまう。
『昔、急にいなくなった友達いた』
灯はぽつりと送ってきた。
『それから、人が消えるの怖くなった』
凛は胸が締めつけられる。
灯もまた、孤独の中にいる。
そしてその孤独は、凛のものと少し似ている。
講義が終わったあと、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。
店内は静かだった。
真白はカウンターで本を読んでいる。
「いらっしゃい」
「……こんばんは」
凛は窓際の席へ座った。
真白はカフェラテを淹れながら、ちらりと凛を見る。
「今日はなんか考え込んでる顔」
凛は苦笑した。
「最近、顔に出すぎじゃない?」
「出やすいタイプなんだよ、多分」
真白はそう言って少し笑う。
凛は迷ったあと、灯のことを話した。
SNSで知り合ったこと。
苦しさを共有できること。
でも時々、消えてしまいそうで怖いこと。
真白は静かに聞いていた。
「……その人、大事なんだね」
凛は少し驚く。
大事。
そんなふうに考えたことはなかった。
でも、否定できなかった。
「……わからない」
凛は俯く。
「でも、返事来ないだけで怖くなる」
真白は少し考えるように視線を落とした。
「苦しさをわかってくれる人って、特別だからね」
凛はその言葉を静かに聞いていた。
「“大丈夫じゃない自分”を見せられる相手って、そんなに多くない」
その通りだった。
大学では笑う。
バイトではちゃんとする。
母には「大丈夫」と言う。
でも灯には、「消えたい」と言える。
真白には、「苦しい」と言える。
それは凛にとって、呼吸できる場所だった。
「……でも怖い」
凛は小さく呟く。
「もし本当に消えちゃったらって思うと」
真白はしばらく黙っていた。
それから静かに言う。
「人を繋ぎ止めることはできないからね」
凛の胸が少し痛む。
「でも、“消えないで”って思う気持ちは、多分ちゃんと相手に届くよ」
その言葉に、凛は目を伏せた。
届く。
本当にそうだろうか。
凛は今まで、自分の気持ちを伝えるのが怖かった。
重いと思われる気がしたから。
迷惑だと思われる気がしたから。
「……私」
凛はぽつりと言う。
「誰かに、“いてほしい”って思うの、怖い」
真白は少しだけ目を細めた。
「どうして?」
「離れられた時、苦しいから」
凛の声は小さかった。
でも、本音だった。
期待しなければ傷つかない。
そうやって人との距離を測ってきた。
でも最近。
灯にも。
真白にも。
少しずつ、いてほしいと思ってしまう。
それが怖かった。
「……凛ちゃん」
真白が静かに言う。
「人を大事に思うのって、怖いことだよ」
凛は顔を上げる。
「でも、多分それって、生きたいって気持ちに近い」
その瞬間、凛の胸が強く揺れた。
生きたい。
そんな言葉、自分には遠いと思っていた。
でも。
灯に消えてほしくない。
真白に会いたい。
七海と話していると安心する。
そう思う自分がいる。
それはきっと。
この世界に、少しだけ繋がっていたいという気持ちなのかもしれなかった。
夜の店内は静かだった。
窓の外では、夏の風が街の灯りを揺らしている。
凛はカフェラテを両手で包み込みながら、ぼんやり思った。
消えたいわけじゃない。
本当はきっと。
誰かに、「ここにいていい」と言ってほしかっただけなのだ。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




