第87ページ 「ちゃんとできない自分」がまた怖くなった日
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
朝。
目が覚めた瞬間、凛は少しだけ身体が重いと感じた。
疲れが抜けていない。
頭の奥に薄い霧がかかったみたいだった。
でも今日はゼミがある。
休むほどではない。
そう思って、凛はゆっくり布団から起き上がった。
カーテンを開ける。
曇り空。
冬の冷たい光が部屋へ差し込む。
凛はぼんやり窓の外を見つめながら、昨日の真白とのやり取りを思い出していた。
――“自分を責める”から、“自分を守る”へ変わり始めてる。
その言葉。
凛の胸にはまだ残っている。
でも。
だからといって急に楽になるわけではなかった。
凛は今まで何年も、“ちゃんとしていない自分”を責め続けて生きてきた。
その癖は、簡単には消えない。
大学へ向かう電車の中。
人の多さだけで少し疲れる。
イヤホンをつけ、静かな音楽を流す。
でも今日は、なぜか周囲の音がいつもより刺さる気がした。
笑い声。
ドアの開閉音。
誰かの話し声。
全部が頭へ入ってくる。
凛は吊り革を握りながら、小さく呼吸を整えた。
大学へ着く頃には、もう少しだけ消耗していた。
キャンパスは昼前のざわめきで溢れている。
友達同士で話す学生たち。
サークル勧誘の声。
どこか浮ついた空気。
凛はその中を歩きながら、また少しだけ“外側にいる感覚”を覚えていた。
ゼミ室へ入る。
今日は就活についてのグループ発表があるらしかった。
席へ座ると、近くの女子たちが話している声が聞こえる。
「もう面接三社終わった」
「インターン先、そのまま内定出そうなんだよね」
「やっぱ早めに動いた方がいいよね〜」
その会話を聞いた瞬間、凛の胸がじわりと重くなる。
まただ。
みんな前へ進んでいる。
未来へ向かっている。
なのに自分は、まだ“普通に働けるか”だけでこんなに苦しんでいる。
凛はノートへ視線を落とした。
その時、教授が入ってくる。
「じゃあ今日は、各自の就活状況について軽く共有してもらいます」
その言葉を聞いた瞬間、凛の胃がきゅっと縮む。
共有。
苦手だった。
自分のことを人前で話すのが。
特に“ちゃんとできていない自分”を見せるのが怖い。
一人ずつ順番に話し始める。
「広告系見てます」
「公務員志望です」
「IT企業中心に受けてます」
みんな、ちゃんと考えている。
不安がないわけじゃないのだろう。
でも、“進もうとしている感じ”がある。
凛の番が近づくにつれ、呼吸が浅くなっていった。
「朝比奈さん」
名前を呼ばれる。
視線が集まる。
頭が真っ白になる。
「あ……」
喉が詰まる。
「まだ、あまり方向決まってなくて……」
声が小さくなる。
「最近、説明会とか行き始めた感じです」
それだけ言うので精一杯だった。
数秒の沈黙。
誰も責めていない。
でも凛には、その空気全部が“遅れている人を見る目”みたいに感じた。
「なるほど」
教授は普通に頷いただけだった。
でも凛の胸はもういっぱいだった。
恥ずかしい。
ちゃんとできていない。
みんなは進んでいるのに。
凛だけ、立ち止まっている。
ゼミ終了後。
凛は逃げるように教室を出た。
廊下を歩きながら、胸の奥がじわじわ苦しくなる。
「……なんでこんなことで」
小さく呟く。
たった少し話しただけなのに。
でも凛にとって、“周囲と自分を比べる空間”は、それだけで大きく消耗する場所だった。
中庭の端、人の少ないベンチへ座る。
空は灰色だった。
冷たい風が吹く。
凛はスマートフォンを握りしめた。
頭の中では、さっきの場面が何度も再生されている。
――“まだ決まってなくて”。
あの言葉。
情けなかった。
自分だけ何もできていない気がした。
凛は顔を伏せる。
すると、スマートフォンが震えた。
灯からだった。
『今日なんか無理すぎる』
その一文を見て、凛は少しだけ目を瞬かせる。
『朝から人多いだけで疲れた』
続けて送られてくる。
凛は静かに画面を見つめた。
灯も今、苦しい。
『私も』
凛は短く返した。
『ゼミで就活の話になってしんどかった』
既読。
『あー、それ死ぬやつ』
灯からすぐ返ってくる。
凛は少しだけ笑ってしまう。
“死ぬやつ”。
その雑な言い方が、逆に少し救いだった。
『みんな普通に未来決めてる感じして、自分だけ置いてかれてる気分になる』
凛は正直に送る。
数秒後。
『わかる』
『私も毎日、自分だけ人生下手すぎるって思ってる』
そのメッセージを見た瞬間、凛の胸の奥が少し緩む。
人生が下手。
凛も何度もそう思ってきた。
普通に笑えない。
普通に働ける気がしない。
人と同じように生きるだけで、どうしてこんなに疲れるのか。
『でもさ』
灯が続ける。
『凛ちゃん最近、“苦しい”ちゃんと言えてるじゃん』
その言葉を見た瞬間、凛は静かに息を止める。
確かに。
少し前までの凛は、“苦しい”すら飲み込んでいた。
今は違う。
真白へ。
灯へ。
七海へ。
少しずつ、本音を言えるようになっている。
『私、それできる人すごいと思う』
灯からまたメッセージ。
『私はまだ、平気なふりして壊れること多いから』
凛は画面を見つめたまま、小さく目を伏せた。
みんな苦しい。
七海も。
灯も。
真白も。
“普通に見える人”も、本当はそれぞれ痛みを抱えている。
凛はずっと、“自分だけが駄目なんだ”と思っていた。
でも違うのかもしれない。
みんな、それぞれ苦しみながら生きている。
その苦しみ方が違うだけなのかもしれない。
風が少し強く吹いた。
凛はコートの袖を握りしめる。
胸の苦しさは、まだ消えない。
“ちゃんとできない自分”も、まだ怖い。
でも。
その怖さを、一人だけで抱えているわけではなくなってきている。
凛はスマートフォンのメモアプリを開いた。
ゆっくり文字を打ち始める。
『ちゃんとできない日がある。
周りと比べて、自分だけ置いていかれている気がする日がある。
でも、“苦しい”と言える相手がいるだけで、人は少し呼吸ができる。』
そこまで書いて、凛は静かに息を吐いた。
苦しさはまだ続いている。
でも。
“助けを求めてもいい”を、少しずつ身体が覚え始めていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




