第85ページ 「普通になろう」とするたび、息ができなくなった
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
夕方から、凛はバイトだった。
大学を出たあと、一度家へ帰る気力がなく、そのまま駅前をぼんやり歩いて時間を潰した。
冬の夕暮れは早い。
まだ十七時前なのに、空はもう暗くなり始めていた。
人の流れが絶えない駅前。
急ぎ足の会社員。
笑いながら歩く高校生。
コンビニの前で煙草を吸う男。
その中を歩きながら、凛はどこか現実感の薄い気持ちになっていた。
周囲の人たちは、みんな“自分の人生”を進めているように見える。
でも凛だけが、まだ“生き方”を探している途中だった。
いや。
探しているというより、“普通になれない自分”をどう扱えばいいのかわからないまま立ち尽くしている感じだった。
バイト先へ着く。
チェーン系のカフェレストラン。
制服へ着替えながら、凛は小さく深呼吸した。
今日は平日だったが、店内はそこそこ混んでいる。
人の声。
食器の音。
厨房から聞こえる指示。
それだけで、頭の中が少しずつ騒がしくなっていく。
でも凛は笑顔を作った。
“ちゃんとしなきゃ”。
そのスイッチは、今でも反射みたいに入る。
「朝比奈さん、ホールお願い」
三崎の声。
「はい」
凛はすぐ返事をする。
動かなきゃ。
迷惑かけないように。
そう思えば思うほど、身体が強張る。
注文を取る。
料理を運ぶ。
レジ対応。
忙しく動き回るうちに、凛は少しずつ余裕を失っていった。
厨房から声が飛ぶ。
「テーブル七番まだ?」
「ドリンク先お願い!」
「朝比奈さん、オーダー入ってないよ!」
「すみません!」
凛は慌てて端末を確認する。
入れ忘れ。
頭が真っ白になる。
周囲の視線が怖い。
申し訳なさで胸がいっぱいになる。
「落ち着いて」
三崎が横から低い声で言った。
怒鳴ってはいない。
でもその一言だけで、凛の呼吸はさらに浅くなる。
「焦ると余計ミスするから」
「……はい」
凛は小さく返事をする。
わかっている。
頭では。
でも“落ち着かなきゃ”と思うほど、身体は緊張していく。
忙しい時間帯が終わったあと、凛はバックヤードで小さく息を吐いた。
手が少し震えている。
疲れた。
でも。
周囲のスタッフたちは普通に働いている。
笑っている。
雑談している。
凛だけが、毎回“生き残るだけで精一杯”みたいになっている。
「朝比奈さん」
三崎が近づいてくる。
凛の肩が少し跳ねた。
「さっきのオーダーミスだけど」
「……すみません」
反射みたいに謝る。
三崎はため息をつくわけでもなく、淡々と言った。
「もっと周り見ながら動けると楽になるよ」
その言葉。
普通の指導だった。
責めているわけじゃない。
でも凛には苦しかった。
“もっと周りを見て”。
凛は昔から、周りを見すぎるくらい見てきた。
人の表情。
声色。
空気。
全部気にしすぎて、逆に動けなくなるくらい。
なのに。
それでも“足りない”と言われる。
「あと、考え込みすぎかな」
三崎は苦笑した。
「もっと気楽でいいと思うよ」
凛は曖昧に笑った。
気楽。
その言葉。
できるなら最初から苦しくない。
でもそんなこと、言えるわけがなかった。
バイトが終わる頃には、凛の心はすっかり擦り減っていた。
帰り道。
夜風が冷たい。
凛はイヤホンもつけず、ただ静かに歩いていた。
三崎の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
――もっと周りを見ながら。
――もっと気楽に。
――考え込みすぎ。
悪意なんてない。
でも。
凛は昔から、その“普通のアドバイス”にずっと苦しめられてきた。
頑張ればできる。
慣れればできる。
考えすぎなければいい。
そう言われるたび、“できない自分が悪い”気がした。
凛は駅前の横断歩道で立ち止まる。
赤信号。
周囲にはたくさん人がいる。
みんな自然に歩いている。
働いている。
生きている。
でも自分だけ、“普通に生きること”へ毎日こんなに体力を使っている。
「……疲れた」
小さく呟く。
本当に。
普通になろうとするたび、息ができなくなる。
帰宅後。
凛はコートも脱がずに床へ座り込んだ。
部屋は静かだった。
でも頭の中はうるさい。
“もっとちゃんと”。
“もっと普通に”。
その声がずっと消えない。
凛はスマートフォンを手に取る。
真白とのトーク画面を開く。
何か話したかった。
でも短い言葉では足りなかった。
凛はしばらく画面を見つめ、それからゆっくり文字を打ち始めた。
『今日バイトでまたミスした』
送信。
続けて打つ。
『三崎さんに、“もっと気楽に”って言われた』
そこで一度止まる。
でも今夜は、ちゃんと書きたかった。
凛は深呼吸して、続きを打つ。
『多分、普通の人には普通にできることなんだと思う』
『でも私は、“普通にする”だけで毎日すごく疲れる』
『空気読んで、人の顔色見て、ちゃんとしようとして』
『それでも上手くできなくて』
『最近、なんで自分だけこんなに苦しいんだろってずっと考えてる』
文字を打ちながら、凛の目に涙が滲む。
でも止めたくなかった。
これは多分、今まで誰にもちゃんと言えなかったことだったから。
『私、ずっと普通になろうとしてきた』
『でも普通になろうとするたび、どんどん息ができなくなってた』
送信。
凛はスマートフォンを握りしめた。
胸が痛い。
でも同時に、少しだけ呼吸が深くなる。
自分の苦しさを、初めてちゃんと文章にできた気がした。
既読。
返事が来るまで、凛は静かに天井を見つめる。
数分後。
画面が光った。
『凛ちゃん』
『多分、“普通”が苦しい人に、“普通にしなよ”って言葉はかなりきついんだと思う』
その一文を見た瞬間、凛の目から涙が零れた。
わかってもらえた。
“考えすぎ”じゃなく。
“努力不足”じゃなく。
苦しいものとして受け止めてもらえた。
『俺も昔、“もっと普通に働け”って言われ続けてかなり壊れたから』
真白は続ける。
『だから凛ちゃんが疲れる感覚、少しわかる』
凛はスマートフォンを胸へ抱える。
涙が止まらない。
今までずっと、“普通にできない自分”を責めてきた。
でも今夜。
初めて少しだけ思えた。
苦しかったのは、“弱いから”だけじゃなかったのかもしれない。
“普通に合わせ続けること”自体が、自分には苦しすぎたのかもしれない。
『凛ちゃんさ』
真白からまたメッセージ。
『最近、“苦しい理由”をちゃんと言葉にできるようになってきてるよね』
凛は静かに目を閉じる。
確かに。
昔はただ、“自分が悪い”だけだった。
でも今は違う。
何が苦しいのか。
どうして疲れるのか。
少しずつ、自分の痛みを理解し始めている。
『それって、多分すごく大事なことだと思う』
その言葉を見た瞬間、凛の胸の奥が少しだけ温かくなる。
理解する。
責めるんじゃなく。
無理やり普通になるんじゃなく。
“自分はどうして苦しいのか”を知ろうとすること。
それはきっと、凛が今まで一度も自分へしてこなかった優しさだった。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




