第79ページ 「消えたい」と「助けて」の間で
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
家へ帰った頃には、もう夜になっていた。
凛は玄関のドアを閉めた瞬間、その場へ座り込んでしまった。
電気もつけないまま、冷たい床へ膝を抱える。
疲れていた。
身体も。
心も。
今日一日、“ちゃんとした人間”を演じようとしていた気がする。
就活会場で笑ったこと。
頷いたこと。
周囲へ合わせようと必死に会話へ入ろうとしたこと。
その全部が、今になって一気に押し寄せてくる。
「……無理」
小さく呟く。
苦しい。
胸が詰まる。
凛はそのまま玄関へ座り込みながら、ぼんやり暗闇を見つめた。
頭の中では、今日の場面が何度も繰り返されている。
『朝比奈さんはどう思います?』
急に話を振られた時の、あの視線。
頭が真っ白になった感覚。
自分だけ、会話の流れへ乗れなかった時間。
『もう少し積極性が出るといいですね』
社員の笑顔。
優しい口調。
でも。
その言葉は、凛にとって“あなたはまだ足りない”と言われているように聞こえた。
凛は両手で顔を覆う。
涙は出ない。
でも胸の奥が重く、冷たい。
昔からそうだった。
“みんな普通にできること”が、自分には難しい。
集団。
空気。
会話のテンポ。
誰かの機嫌。
全部を気にしすぎて、頭の中がいっぱいになる。
でも社会は、それを待ってくれない。
“できて当たり前”で進んでいく。
凛はゆっくり立ち上がり、部屋の電気をつけた。
ワンルームの白い灯り。
静かな部屋。
冷蔵庫の低い音だけが響いている。
凛はバッグを床へ置き、そのままベッドへ倒れ込んだ。
天井を見る。
何も考えたくない。
でも頭の中は止まらない。
――社会に出たら毎日これなの?
――無理かもしれない。
――向いてない。
――みんなみたいになれない。
そんな言葉ばかり浮かんでくる。
スマートフォンが震えた。
真白かと思った。
でも違った。
母だった。
凛はしばらく画面を見つめる。
出たくない。
でも無視すると心配される気がした。
少し迷ってから、通話ボタンを押す。
「もしもし」
『凛? 元気?』
母の声。
明るく振る舞っている感じがする。
「まあ……」
『就活どう?』
その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと痛む。
凛は目を閉じた。
「今日、グループディスカッションあって」
『どうだった?』
「……上手くできなかった」
少し沈黙。
それから母は、軽い口調で言った。
『慣れだよ、そういうのは』
その言葉。
悪意なんてない。
母なりに励ましている。
でも。
凛には苦しかった。
“慣れればできる”。
本当にそうなのだろうか。
小さい頃からずっと、“慣れればできる”と言われてきた。
でも。
苦しさは消えなかった。
『凛は考えすぎるから』
母が続ける。
『もっと肩の力抜きなさい』
凛は何も言えない。
力を抜けるなら、最初から苦しくない。
でもそれを説明しても、多分うまく伝わらない。
『みんな最初は不安なんだから』
その言葉を聞いた瞬間、凛の中で何かが静かに沈んだ。
みんな。
またその言葉。
みんなできる。
みんな頑張ってる。
だから自分も頑張らなきゃ。
そうやってずっと、自分を追い込んできた。
「……うん」
それしか言えない。
電話を切ったあと、部屋はさらに静かになった。
凛はベッドの上で丸くなる。
息が浅い。
胸が苦しい。
涙が少し滲む。
「……なんでできないんだろ」
ぽつりと呟く。
普通に話せるだけでいいのに。
空気へ馴染めるだけでいいのに。
どうしてこんなに疲れてしまうんだろう。
どうしてみんなみたいにできないんだろう。
その時。
不意に、暗い感情が浮かんだ。
――もう全部やめたい。
凛はハッと目を開ける。
怖くなる。
でも最近、時々こういう感情が来る。
消えたいわけじゃない。
死にたいとも少し違う。
ただ、“何も感じなくなりたい”と思ってしまう。
頑張れない自分を見たくない。
社会へ怯える自分を消したい。
そんな感覚。
凛は布団を握りしめる。
「……駄目」
小さく呟く。
でも苦しい。
胸がずっと重い。
誰かに助けてほしい。
でも。
“助けて”と言うのも怖い。
重いと思われる気がするから。
その時、スマートフォンが震えた。
灯だった。
『今日やばいくらいしんどかった』
突然のメッセージ。
凛は少し目を瞬かせる。
『バイトでミスして、帰り道ちょっと消えたくなってた』
その言葉を見た瞬間、凛の呼吸が少し止まる。
灯も苦しかった。
自分だけじゃなかった。
凛はスマートフォンを握りしめる。
少し迷ってから返信を打つ。
『私も今日かなりしんどかった』
送信。
すぐ既読。
『就活?』
『うん』
『社会向いてない気がした』
その本音を送った瞬間、涙が少し溢れる。
誰にも言えなかった言葉だった。
既読。
『わかる』
灯から返ってくる。
『私も毎日、普通の人になれない感じする』
凛は静かに画面を見つめる。
普通の人になれない。
その感覚。
凛だけじゃなかった。
『なんかさ』
灯が続ける。
『みんな普通に生きてるように見えるのに、自分だけ難易度違う感じしない?』
その一文を見た瞬間、凛の目から涙が零れた。
本当にそうだった。
凛にとって生きることは、ずっと難しかった。
空気を読むだけで疲れる。
人混みで消耗する。
期待されると苦しくなる。
でも周囲は、それを普通にこなしているように見える。
だから、自分だけ壊れている気がした。
『今日ちょっと、“もう無理かも”って思った』
凛は震える指で送った。
送信したあと、怖くなる。
重かったかもしれない。
でも灯はすぐ返してきた。
『私もよく思う』
『でも、凛ちゃんまだちゃんと“苦しい”って言えてるじゃん』
その言葉を見た瞬間、凛は静かに息を止める。
苦しいって言えてる。
昔の凛は、それすらできなかった。
一人で抱えて。
笑って。
限界まで我慢していた。
『消えたい時って、“本当は助けて”だったりするよね』
灯からまたメッセージ。
凛は画面を見つめたまま動けなくなる。
助けて。
その言葉。
凛はずっと言えなかった。
言った瞬間、迷惑になる気がしていたから。
『……うん』
凛は小さく返した。
涙が止まらない。
でも不思議と、少しだけ呼吸が戻ってくる。
灯も苦しい。
真白も過去に壊れかけていた。
七海も笑いながら泣いていた。
みんな、“普通”の顔をしながら必死に生きている。
凛はずっと、“自分だけがおかしい”と思っていた。
でも違うのかもしれない。
みんな痛みを隠しているだけで、本当は苦しいのかもしれない。
窓の外では、夜が深くなっていた。
街の灯り。
遠くの車の音。
凛はスマートフォンを胸へ抱えながら、小さく目を閉じる。
消えたいと思う夜がある。
でもその奥には、本当は“誰かに気づいてほしい”気持ちがあった。
“助けて”と言いたかった。
“苦しい”をわかってほしかった。
そして今。
凛には、その言葉を少しずつ受け止めてくれる人たちがいる。
それだけで。
今夜の凛は、ほんの少しだけ“明日まで生きてみよう”と思えていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




