第74ページ 知らない誰かの「わかる」
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
その夜、凛は眠れなかった。
ベッドへ入っても、頭の中だけがずっと起きている。
灯から届いた言葉。
――めっちゃわかる。
真白の言葉。
――静かで苦しいね。
その全部が、まだ胸の奥へ残っていた。
凛は暗い部屋の中でスマートフォンを見つめる。
時計は午前二時を過ぎている。
最近、この時間になると世界が少し静かになる。
みんな寝ていて。
頑張っている人たちの気配が薄くなって。
“ちゃんとできない自分”でも、少しだけ息がしやすい。
凛は布団の中で、ノートを開いた。
今日も少しだけ書いていた。
過呼吸を起こした日のこと。
“休むだけで罪悪感がある”ということ。
人と比べるだけで苦しくなること。
その全部を、ぽつぽつと言葉へ変えていた。
書いている間だけは、不思議と呼吸が整う。
感情が、自分の中で暴れなくなる。
凛はノートの一文を読み返す。
『頑張れないんじゃなくて、頑張りすぎて壊れそうだった。』
その文章を見た瞬間、凛の胸が少しざわついた。
“誰かへ見せたい”。
そんな感情が、また小さく浮かぶ。
凛はスマートフォンを手に取る。
SNSの投稿画面を開く。
白い空欄。
そこへ文章を打とうとして、指が止まる。
怖かった。
知らない誰かへ、自分の苦しさを見せるなんて。
“病んでる”。
“重い”。
そんなふうに思われるかもしれない。
でも。
灯や真白へ文章を見せた時、凛は初めて知った。
苦しさは、ちゃんと誰かへ届くことがある。
凛はゆっくり文字を打ち始める。
『頑張れないんじゃなくて、頑張りすぎて壊れそうだった。
「普通」に合わせようとするほど、自分がどこにいるかわからなくなる夜がある。』
そこまで打って、止まる。
心臓がうるさい。
こんな文章、投稿していいのだろうか。
誰にも理解されなかったら。
笑われたら。
凛は投稿ボタンの前で、長い間迷った。
でも。
不思議と、“誰か一人でもわかってくれたら”と思っている自分がいた。
凛は小さく息を吐き、投稿ボタンを押した。
投稿完了。
その瞬間、胸が大きく跳ねた。
「……やば」
消したくなる。
やっぱり無理かも。
凛は慌ててスマートフォンを伏せた。
でも気になる。
数分後、また画面を開く。
通知が一件来ていた。
知らないアカウントからだった。
『すごくわかります』
その短い言葉を見た瞬間、凛は息を止める。
さらにもう一件。
『今の自分みたいで泣きそうになりました』
凛は画面を見つめたまま、動けなくなる。
知らない人。
顔も名前も知らない誰か。
でも。
その人も、同じように苦しかったのかもしれない。
通知は少しずつ増えていく。
『私だけじゃなかったんだ』
『ちゃんと苦しくていいんだと思えた』
『保存しました』
凛は胸の奥がじわじわ熱くなるのを感じた。
こんなこと、想像していなかった。
“共感される”。
それは怖いことだと思っていた。
でも今は。
知らない誰かの“わかる”が、自分まで少し救ってくれている。
凛はスマートフォンを握りしめる。
自分の苦しさは、ずっと“消したいもの”だった。
普通じゃない部分。
人より敏感なところ。
すぐ疲れてしまうこと。
全部、“駄目なもの”だと思っていた。
でも。
その苦しさを言葉へした時、誰かが「わかる」と言ってくれる。
それは凛にとって、とても不思議な感覚だった。
スマートフォンが震える。
真白だった。
『SNS見た』
凛の胸が少し跳ねる。
『ごめん、なんか勢いで載せちゃった』
返信。
すぐ既読。
『いい文章だった』
その一言だけだった。
でも。
凛はその短い言葉だけで、少し泣きそうになる。
『なんか、いっぱい反応来て怖い』
凛は正直に送る。
『でも少し嬉しい』
既読。
『凛ちゃん、多分ずっと“自分の苦しさは隠すもの”だと思ってたでしょ』
そのメッセージに、凛は静かに目を伏せる。
本当にそうだった。
苦しさを見せたら嫌われる。
重いと思われる。
そう信じていた。
『でも、苦しい人って意外といっぱいいるから』
真白は続ける。
『誰かが言葉にしてくれると、“自分だけじゃない”って思えるんだよね』
凛はスマートフォンを胸へ抱える。
“自分だけじゃない”。
その感覚に、凛自身も何度救われてきただろう。
灯の言葉。
七海の涙。
真白の過去。
みんな苦しかった。
だから凛も、“苦しくていい”と思え始めている。
『なんかさ』
凛はゆっくり打つ。
『少しだけ、生きててもいい気がした』
送信。
それは、凛の本音だった。
“普通じゃない自分”でも。
“ちゃんとできない自分”でも。
苦しさを言葉へ変えた時、誰かが「わかる」と言ってくれる。
その事実が、凛を少しだけ孤独から遠ざけていた。
『うん』
真白から返ってくる。
『凛ちゃんの言葉、多分ちゃんと誰かの呼吸になってるよ』
そのメッセージを見た瞬間、凛の目から涙が零れた。
呼吸。
凛自身がずっと欲しかったもの。
苦しい夜、息ができなくなる時。
“自分だけじゃない”と思えるだけで、人は少し生き延びられる。
凛は静かな部屋の中で、小さく泣いた。
悲しいわけじゃなかった。
多分。
初めて、“自分の苦しさにも意味があるのかもしれない”と思えたからだった。
窓の外では、夜が静かに更けていく。
東京の街は眠らない。
苦しい人も。
泣いている人も。
きっと今も、どこかで息をしている。
凛はスマートフォンを見つめながら、ゆっくり思う。
言葉は、魔法じゃない。
全部を救えるわけでもない。
でも。
“わかる”を届けることはできる。
孤独だった誰かへ。
そして。
ずっと孤独だった自分自身へも。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




