第71ページ 言葉だけは、逃げなかった
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
その夜。
凛は机の前へ座っていた。
小さなデスクライト。
静かな部屋。
窓の外では、風が少し強く吹いている。
目の前には、真っ白なノート。
大学の課題用ではない。
就活用のメモでもない。
ただ、“書くため”だけのノートだった。
凛はシャーペンを握ったまま、しばらく動けなかった。
何を書けばいいのかわからない。
そもそも。
自分がまた“書きたい”と思うなんて、思っていなかった。
中学生の頃。
凛は毎晩みたいに物語を書いていた。
誰にも見せない、小さな話。
孤独な子が出てくる話ばかりだった。
でも当時は、それが楽しかった。
学校でうまく息ができない日も。
家で母とぶつかった日も。
言葉を書いている間だけは、自分の感情を少し外へ出せる気がしていた。
でも。
いつからかやめた。
“そんなことしても意味ない”。
“もっと将来の役に立つことしなさい”。
そういう声が、自分の中へ増えていったから。
凛はノートを見つめる。
真っ白なページ。
何も書かれていない。
でも。
少しだけ怖くなかった。
昔みたいに、“上手く書かなきゃ”ではなく。
ただ、“書いてみたい”と思っている自分がいた。
凛はゆっくりペンを動かす。
『私はずっと、“普通”になりたかった。』
最初の一文を書いた瞬間。
胸の奥が少しだけ震えた。
文字になる。
頭の中にあった苦しさが、少し形になる。
凛はそのまま、ぽつぽつと言葉を書き続けた。
空気を読みすぎること。
人の感情へ敏感すぎること。
笑わなきゃと思っていたこと。
“ちゃんとしなきゃ”で息ができなくなること。
誰にも言えなかった感情たち。
それを、ゆっくり書いていく。
不思議だった。
書いている間だけ、少し呼吸が深くなる。
誰かへ見せるわけじゃない。
評価されるわけでもない。
それでも。
言葉へ変えることで、自分の苦しさが少し整理されていく感じがした。
気づけば、一時間くらい経っていた。
凛はペンを止める。
ノートには何ページも文字が並んでいる。
上手い文章ではない。
まとまってもいない。
でも。
そこには確かに、“凛の感情”があった。
「……久しぶり」
小さく呟く。
こんなふうに、自分のためだけに何かをしたのは。
凛はノートを見つめながら、ぼんやり思う。
最近ずっと、“生き延びる”ことで精一杯だった。
大学。
バイト。
就活。
人間関係。
壊れないようにするだけで、毎日必死だった。
でも。
“好きだったもの”へ触れた瞬間、少しだけ思い出す。
自分は、“ちゃんと生きるため”だけに存在しているわけじゃない。
苦しくても。
不器用でも。
“好き”と思えるものがあった。
スマートフォンが震える。
真白だった。
『ちゃんと寝てる?』
凛は少し笑う。
『まだ起きてる』
『また考え込みすぎ?』
凛は少し迷ってから返信した。
『今、ちょっと書いてた』
既読。
『お』
『小説?』
『わかんない』
『でも、なんか久しぶりに楽だった』
送信した瞬間。
凛は少し胸が熱くなる。
“楽しかった”じゃない。
“楽だった”。
その表現が、今の凛にはしっくりきた。
生きるのが苦しい人間にとって、“少し楽になれる時間”は、とても大事なのだと思う。
『それ、かなり大事なやつだと思う』
真白から返ってくる。
『好きなことって、“ちゃんとしなきゃ”から少し離れられるから』
凛は画面を見つめながら、小さく息を吐く。
ちゃんとしなきゃ。
その言葉は、ずっと凛を追いかけてきた。
でも。
ノートへ向かっていた時間だけは、その声が少し静かだった。
『なんか、書いてる時だけ少し呼吸しやすかった』
凛が送る。
少し間が空いて。
『じゃあ凛ちゃんにとって、“書く”って結構大事なんじゃない?』
その言葉を見た瞬間。
凛は静かに目を閉じる。
大事。
そんなふうに考えたことはなかった。
でも。
本当はずっと、言葉だけは逃げなかったのかもしれない。
苦しい時も。
寂しい時も。
誰にも言えない夜も。
頭の中にはいつも、言葉が浮かんでいた。
凛はノートをそっと閉じる。
胸の奥が少し温かかった。
未来はまだ怖い。
社会も不安だ。
自分がちゃんと生きていけるかもわからない。
でも。
“好きだったもの”を思い出したことで、少しだけ世界の色が変わった気がした。
役に立つかはわからない。
意味があるかもわからない。
それでも。
“書いていたい”と思える時間がある。
その小さな感情が。
凛をほんの少しだけ、“生きる側”へ引き戻し始めていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




