第70ページ 好きだったものを、思い出す
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
次の日。
凛は少し遅めの時間に大学へ向かっていた。
昨日、一日休んだことで身体は多少楽になっていた。
でも。
心の奥にはまだ、不安が残っている。
大学を休んだ罪悪感。
就活への恐怖。
“普通に生きられないかもしれない”という感覚。
それらは簡単には消えない。
ただ。
以前みたいに、“全部一人で抱え込むしかない”とは思わなくなっていた。
電車へ揺られながら、凛はぼんやり窓の外を見る。
冬の空は白かった。
人々は忙しそうに歩いている。
みんな、ちゃんと生きているように見える。
でも最近の凛は、少しだけ思う。
“ちゃんとして見える人”も、本当は苦しいのかもしれないと。
講義を終えたあと。
凛は自然と『cafe 月灯り』へ向かっていた。
扉を開ける。
ベルの音。
温かい空気。
「いらっしゃい」
真白がカウンターの奥から笑った。
その顔を見るだけで、少し肩の力が抜ける。
「今日は顔色マシ」
「昨日いっぱい寝たから」
凛が答えると、真白は「それ大事」と小さく笑った。
凛はカウンター席へ座る。
店内は静かだった。
夕方前の、少し落ち着いた時間。
窓際では誰かが本を読んでいる。
コーヒーの匂い。
柔らかい音楽。
この場所へ来ると、凛は少しだけ呼吸がしやすくなる。
「そういえば」
真白が何かを思い出したように言う。
「新しい絵できた」
「え」
凛は少し身を乗り出す。
真白はイラストレーターとして活動している。
SNSへ作品を載せたり、時々依頼を受けたりしていた。
凛は真白の描く絵が好きだった。
静かで。
少し寂しくて。
でも温かい色をしているから。
真白はタブレットを開き、凛へ見せる。
夜の街だった。
街灯。
雨上がりのアスファルト。
一人で歩く小さな人物。
でも。
画面の端には、小さな光が描かれている。
「……綺麗」
凛は自然と呟いていた。
真白は少し照れくさそうに笑う。
「ありがと」
凛は絵を見つめたまま、小さく息を吐く。
真白の絵は、“孤独”を知っている感じがした。
でも。
孤独だけでは終わらない。
どこか、“それでも生きていく”温度がある。
「真白さんってさ」
凛がぽつりと言う。
「昔から絵好きだったの?」
「うん」
真白は頷く。
「しんどい時期も、描いてる時だけちょっと楽だった」
その言葉が、凛の胸へ静かに落ちる。
“楽だった”。
そういう感覚を、凛は最近あまり知らない。
生きることで精一杯だったから。
「凛ちゃんは?」
真白が聞く。
「好きだったものとかないの?」
その質問に、凛は少し戸惑う。
好きだったもの。
そんなこと、長い間考えていなかった。
“ちゃんとする”ばかりで。
“好き”を置いてきてしまった気がする。
「……昔、小説とか書いてた」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
真白が少し目を瞬かせる。
「へえ」
「中学くらいまで」
凛は少し笑った。
「ノートにずっと、暗い話書いてた」
「いいじゃん」
「でもなんか、“そんなことしても意味ない”って思ってやめた」
その言葉を言った瞬間、胸が少し痛んだ。
意味。
役に立つか。
将来へ繋がるか。
そんな基準ばかりで、自分を測るようになっていた。
「凛ちゃんさ」
真白が静かに言う。
「“意味あることしかやっちゃ駄目”って思いすぎじゃない?」
凛は少し黙る。
本当にそうかもしれない。
好きなことを、“役立つか”で判断してしまう。
無駄なことをしてはいけない気がする。
「でもさ」
真白は穏やかに笑った。
「好きって、結構生きるのに大事だよ」
その言葉に、凛は目を伏せる。
好き。
そんな感情。
最近ずっと後回しだった。
壊れないように生きるだけで精一杯だったから。
「……書いてた時は」
凛はぽつりと言う。
「ちょっと楽しかったかも」
それは久しぶりに口にする、本音だった。
誰にも見せない物語を書いていた時間。
夜、一人でノートへ言葉を並べていた時間。
あの頃はまだ、“上手く生きなきゃ”だけじゃなかった。
「じゃあまた書けばいいのに」
真白は自然に言った。
凛は少し笑う。
「今さら?」
「今さらでも」
真白はコーヒーカップを片手に続ける。
「生きるのしんどい時って、“好き”あると少し息できたりするし」
その言葉が、凛の胸へ静かに残る。
好き。
役に立たなくても。
上手じゃなくても。
“やりたい”と思えるもの。
凛はふと思う。
最近の自分は、“ちゃんと生きる”ことばかり考えていた。
でも本当は。
何が好きで。
何をしている時、自分が少し楽になれるのか。
そういうことも、大事なのかもしれない。
店の外では、冬の空が少し暗くなり始めていた。
凛は真白の絵をもう一度見る。
孤独な夜の絵。
でも。
その中には確かに、小さな光が描かれていた。
凛はぼんやり思う。
“普通になれるか”だけじゃなく。
“自分が少しでも呼吸できるもの”を探すこと。
それもきっと、生きていくためには必要なのかもしれなかった。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




