第68ページ 誰かが気にかけてくれる夜
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
休んだ日の時間は、妙に長かった。
午前中はほとんど眠っていた。
でも。
昼を過ぎた頃から、逆に落ち着かなくなった。
大学を休んでいる。
みんなは今頃、講義を受けているかもしれない。
就活の話をしているかもしれない。
そんな想像をするたび、胸がざわついた。
凛はベッドの上でスマートフォンを見つめる。
SNSを開く。
大学の友人たちのストーリー。
カフェ。
授業風景。
“今日も頑張ってる”空気。
それを見た瞬間、胸が少し苦しくなった。
「……見なきゃよかった」
小さく呟く。
以前の凛なら。
“自分も頑張らなきゃ”と無理して外へ出ていたかもしれない。
でも今日は、身体が動かなかった。
いや。
本当は、心も限界だったのだと思う。
凛はスマートフォンを伏せ、カーテンの隙間から外を見る。
空は暗くなり始めていた。
冬の夕方は早い。
部屋の中は静かだった。
静かすぎて、自分の考えだけが大きくなる。
――このまま社会へ出られなかったら。
――普通に働けなかったら。
――ずっとこんなままだったら。
不安が止まらない。
凛は目を閉じ、深呼吸する。
でも今日は、呼吸するだけでも少し疲れた。
その時。
スマートフォンが震える。
真白だった。
『起きてる?』
凛は少し身体を起こす。
『起きてる』
返信。
『何か食べた?』
その質問に、凛は少し考える。
そういえば、朝からほとんど何も食べていなかった。
『まだ』
送信。
数秒後。
『今からそっち行ってもいい?』
その文字を見た瞬間、凛の胸が少し跳ねた。
『え』
『スープ作ったから』
凛はスマートフォンを見つめる。
来る。
真白が。
それだけで少し落ち着かなくなる。
部屋、散らかってないだろうか。
顔色やばくないだろうか。
でも同時に。
少し嬉しいと思ってしまった。
『……うん』
小さく返信する。
それから三十分後。
インターホンが鳴った。
凛はゆっくり玄関へ向かう。
扉を開ける。
真白は黒いコートを着て、小さな紙袋を持って立っていた。
「こんばんは」
その穏やかな声を聞いた瞬間。
凛は少しだけ、張っていた力が抜けそうになる。
「……寒かったでしょ」
「まあまあ」
真白は苦笑した。
「でも近いし」
部屋へ入る。
凛は少し気まずくなる。
一人暮らしの部屋へ誰かを入れるのは、ほとんど初めてだった。
「ごめん、散らかってて」
「全然」
真白は自然な様子でテーブルへ紙袋を置いた。
「コンソメスープ。あと適当にパン」
凛はその袋を見る。
温かい匂いがした。
その瞬間。
胸の奥がじわりと熱くなる。
「……ありがとう」
小さく言う。
真白は「どういたしまして」と笑った。
凛はスープを口へ運ぶ。
温かい。
身体の奥へゆっくり染みていく感じがする。
「ちゃんと食べてなかったでしょ」
真白が言う。
凛は少し苦笑した。
「……食欲なくて」
「そういう時ほど、少しでも入れた方がいい」
その言い方は優しかった。
“ちゃんとしろ”じゃなく。
“壊れないように”という感じがする。
凛はぼんやりスープを見つめる。
「なんかさ」
ぽつりと呟く。
「今日、一人でいたら、ずっと悪いこと考えてた」
真白は静かに聞いている。
「休んでるだけなのに、すごい罪悪感あって」
凛は小さく笑う。
「ちゃんとしてない自分が怖くなる」
その言葉は、本音だった。
何もしていない時間。
止まっている時間。
それは凛にとって、“価値がない自分”を見せつけられるみたいで苦しかった。
「……凛ちゃんって」
真白が静かに言う。
「“動いてない自分”嫌いだよね」
凛は少し目を伏せる。
「うん」
認めるのは苦しかった。
でも本当だった。
疲れていても。
苦しくても。
“何かしてないと駄目”と思ってしまう。
止まると、自分が空っぽになる気がするから。
「昔から?」
真白が聞く。
凛は少し考えた。
「……多分」
小さい頃から。
“ちゃんとしてる子”でいようとしていた。
母に心配かけないように。
迷惑かけないように。
普通でいられるように。
「だから、止まると不安になる」
凛は小さく言う。
「自分が駄目人間になった気がして」
真白は少し黙っていた。
それから、穏やかな声で言う。
「でも今日、ちゃんと止まれたじゃん」
凛は顔を上げる。
「え?」
「前の凛ちゃんなら、多分無理して大学行ってた」
その言葉に、凛は静かに息を止める。
確かにそうだった。
以前の自分なら。
壊れそうでも、“行かなきゃ”を優先していた。
でも今日は。
怖かったけれど、休んだ。
それは凛にとって、簡単なことじゃなかった。
「止まるのってさ」
真白は小さく笑う。
「結構勇気いるんだよ」
その言葉が、胸へゆっくり落ちる。
休むことは逃げじゃない。
壊れないための選択。
真白は前から、何度もそう言ってくれていた。
でも。
今日初めて、少しだけ実感できた気がした。
部屋の中は暖かかった。
外はもう夜になっている。
凛は温かいスープを飲みながら、ぼんやり思う。
誰かが気にかけてくれる。
それは、少し怖い。
でも。
とても温かいことなのかもしれなかった。
昔の凛は、“一人で耐える”しか知らなかった。
でも今は。
苦しい時、扉を叩いてくれる人がいる。
“ちゃんと食べてる?”と聞いてくれる人がいる。
その事実が。
凛の孤独を、少しずつ静かに溶かし始めていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




