第67ページ 「普通でいてほしい」の中で
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
翌朝。
凛は大学を休んだ。
目が覚めた瞬間から、身体が重かった。
熱はない。
でも。
胸の奥がずっと張り詰めている。
無理をすれば行けるかもしれない。
昔なら、多分行っていた。
“みんな頑張ってる”。
その言葉に押されるみたいに。
でも今日は。
凛は布団の中で、小さく息を吐いた。
「……休もう」
その言葉を口にした瞬間、胸がざわつく。
罪悪感。
置いていかれる怖さ。
“怠けてるだけなんじゃないか”という声。
色んな感情が一気に湧いてくる。
それでも。
昨日、身体はちゃんと悲鳴を上げていた。
凛はスマートフォンを開き、大学の欠席連絡を送る。
送信。
その瞬間、胸がぎゅっと痛くなる。
休むだけで、こんなに怖い。
凛はぼんやり天井を見る。
窓の外は曇りだった。
静かな部屋。
でも頭の中だけがうるさい。
――みんな行ってるのに。
――甘えてるだけかも。
――こんなんで社会人になれるの?
そんな声が止まらない。
その時。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
母だった。
凛の胸が少し強張る。
電話に出る。
「もしもし」
『凛?』
母――美咲の声。
『今大丈夫?』
「うん」
『大学?』
凛は少し黙る。
「……今日は休んだ」
その瞬間、電話の向こうが少し静かになった。
『体調悪いの?』
「ちょっと……疲れて」
本当は、“怖くなった”と言いたかった。
でも、うまく言えない。
『ちゃんと寝てる?』
「うん」
『食べてる?』
「まあ……』
美咲は少し息を吐いた。
『凛、昔から無理するから』
その言葉に、凛は少し目を伏せる。
無理してきた。
確かにそうだ。
でも。
その“無理”を作った一部は、母の言葉でもあった。
普通にしなさい。
ちゃんとしなさい。
我慢しなさい。
凛は幼い頃から、そう言われ続けてきた。
『大学、ちゃんと行けてる?』
その質問に、凛の胸が少し痛む。
“ちゃんと”。
母は悪気なく言っている。
でもその言葉は、凛にとってずっと苦しかった。
「……行ってるよ」
小さく答える。
『就活とかも始まるでしょ?』
「うん」
『今大変な時期だもんね』
美咲は続ける。
『でも、みんな通る道だから』
その瞬間。
凛の胸がざわりと揺れた。
みんな通る道。
またその言葉。
悪意じゃない。
母はきっと、励ましているつもりだ。
でも。
“みんなできる”という前提が、凛にはずっと苦しかった。
「……うん」
それしか言えない。
『凛は考えすぎるところあるから』
美咲が言う。
『もっと気楽にやればいいのに』
凛は静かに目を閉じる。
昔からそうだった。
母は、“凛を普通へ戻そう”とする。
苦しさを否定しているわけじゃない。
でも。
“普通にできるようになってほしい”という願いが、いつも根底にある。
『でもまあ』
美咲は少し柔らかい声で言った。
『ちゃんと休みなさいね』
その言葉に、凛は少しだけ戸惑う。
昔なら。
“休んでばっかりじゃ駄目”と言われる気がしていた。
でも今の母は、少し違う。
年齢を重ねたからか。
凛が本当に限界そうに見えるからか。
わからない。
ただ。
母もまた、不器用なのだと思った。
愛し方も。
心配の仕方も。
『無理しすぎないようにね』
その言葉を最後に、電話は切れた。
凛はスマートフォンを胸の上へ置く。
静かな部屋。
外は曇り空。
凛はぼんやり天井を見る。
母はずっと、“普通でいてほしい”人だった。
それは多分。
凛を傷つけたかったからじゃない。
“普通じゃないと苦しい”世界を、母自身も知っていたからだ。
だから。
娘には普通に生きてほしかった。
傷つかないように。
置いていかれないように。
でも。
その願いは時々、凛を苦しめた。
「……普通ってなんだろ」
小さく呟く。
ちゃんと働けること?
毎日笑えること?
無理してでも社会へ合わせられること?
凛にはもう、わからなかった。
でも。
一つだけ少し変わったことがある。
昔の凛なら、母の言葉を全部“正しい”と思っていた。
“普通になれない自分が悪い”と。
でも今は。
自分には、自分の限界がある。
無理できない理由がある。
そう思える瞬間が、少しずつ増えている。
凛は布団へ潜り込みながら、小さく息を吐く。
休むのはまだ怖い。
罪悪感も消えない。
それでも。
“壊れないために止まる”ことを、少しずつ覚え始めていた。
それはきっと。
“普通”になることよりも難しい、生き方の練習なのかもしれなかった。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




