第64ページ 「大丈夫じゃない」を隠さなくていい
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
雨は夕方になっても止まなかった。
講義が終わる頃には、窓の外は薄暗くなっている。
七海はあれから少し落ち着いたものの、まだ目元が赤かった。
「……ごめんね、なんか」
帰り支度をしながら、七海が小さく言う。
「急に泣いて」
凛は首を振る。
「謝らなくていいよ」
その言葉を言いながら、凛は少し不思議だった。
昔の自分なら。
誰かの涙を前にすると、“何か正しいことを言わなきゃ”と焦っていた気がする。
でも今は違う。
無理に励まさなくてもいい。
“苦しいんだね”と隣にいるだけでもいい。
そんなふうに、少しずつ思えるようになっていた。
「……凛ちゃん変わったよね」
七海がぽつりと言う。
凛は少し目を瞬かせる。
「そうかな」
「前はもっと、“自分が悪い”って顔してた」
その言葉に、凛は静かに息を止める。
確かに。
昔の凛は、ずっと自分を責めていた。
苦しいのも。
疲れるのも。
人とうまくいかないのも。
全部、“自分が普通じゃないから”だと思っていた。
「……今も思う時あるよ」
凛は小さく笑う。
「全然ある」
「でも前より、自分に優しくなった感じする」
七海はそう言って、小さく息を吐いた。
二人は一緒に大学を出る。
傘へ当たる雨音。
冷たい風。
街は灰色だった。
でも。
凛はその空気を、以前ほど嫌いじゃなくなっていた。
「ねえ」
七海が歩きながら言う。
「凛ちゃんってさ、なんでそんな人の苦しさわかるの?」
その質問に、凛は少し考える。
昔の自分なら、きっと答えられなかった。
でも今は。
「……自分も苦しかったからかも」
自然とそう言葉が出た。
七海は静かに聞いている。
「“大丈夫なふり”してる人見ると、なんとなくわかる時ある」
今日の七海もそうだった。
笑おうとしていた。
いつもの“明るい子”をやろうとしていた。
でも。
凛には、その奥にある限界が少し見えてしまった。
「そっか」
七海は小さく笑う。
「なんか凛ちゃんって、最近すごい安心する」
凛は少し戸惑う。
「安心?」
「うん」
七海は前を向いたまま続ける。
「無理に元気出させようとしないから」
その言葉に、凛の胸が静かに揺れる。
昔の凛は、“正しい言葉”を探していた。
でも。
真白や灯と出会って知った。
苦しい時、本当に欲しいのは“正論”じゃない時がある。
“わかるよ”じゃなくても。
“そこにいてくれる”だけで救われる夜がある。
「……私もさ」
七海が小さく言う。
「今日、多分凛ちゃんじゃなかったら泣いてなかった」
凛は少し驚く。
「なんで?」
「だって凛ちゃん、“泣いても引かなそう”だから」
その言葉が、凛の胸へ静かに落ちる。
引かない。
否定しない。
それはきっと、昔の自分が一番欲しかったものだった。
「……最近思うんだよね」
七海は雨の街を見ながら言う。
「みんな、“ちゃんとしてるふり”上手すぎるって」
凛は静かに頷く。
本当にそうだ。
大学でも。
SNSでも。
バイト先でも。
みんな普通に見える。
でも実際は。
苦しい人も。
壊れかけてる人も。
泣きたい人も。
たくさんいる。
ただ。
見えないだけだった。
「凛ちゃんはさ」
七海が少し笑う。
「“大丈夫じゃない”を最近隠さなくなったよね」
その言葉に、凛は少し目を伏せる。
確かに。
“しんどい”。
“怖い”。
“疲れた”。
そういう言葉を、少しずつ口にできるようになってきた。
以前は全部飲み込んでいたのに。
「……多分、隠し続ける方が苦しくなったんだと思う」
凛は静かに言う。
苦しいを無視して。
普通のふりをして。
壊れそうでも笑って。
そうやって生きることに、限界が来ていた。
「でもさ」
七海は小さく笑った。
「凛ちゃんが“しんどい”って言うと、なんか私も言っていい気がする」
その瞬間。
凛の胸がじわりと熱くなる。
自分が弱さを見せることで、誰かも弱さを見せられる。
そんなこと、昔は考えたこともなかった。
“ちゃんとしてない自分”は、隠すべきものだと思っていたから。
駅が近づいてくる。
人の流れ。
濡れたアスファルト。
信号の光が滲んで見えた。
「今日、泣けてちょっと楽になった」
七海がぽつりと言う。
凛は静かに頷く。
「……泣くのって、悪いことじゃないのかもね」
「うん」
凛は小さく笑う。
「最近ちょっと思う」
限界まで我慢するより。
苦しいをちゃんと感じられる方が、壊れなくて済むのかもしれない。
七海は改札前で立ち止まった。
「ありがとね」
その言葉は、とても静かだった。
凛は少しだけ笑う。
「こちらこそ」
七海が去っていく背中を見送りながら、凛はぼんやり思う。
昔の自分は、“助けてもらう側”で精一杯だった。
でも今は。
誰かの苦しさを受け止められる瞬間が少しずつ増えている。
それはきっと。
自分自身も、“受け止めてもらってきた”からなのだと思った。
真白に。
灯に。
七海に。
“苦しいままでいていい”と言ってもらえたから。
凛も少しずつ、誰かへ同じ温度を返せるようになり始めていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




