第62ページ 「頑張れ」が刺さる日
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
夕方六時。
コンビニのバックヤードは、いつもより慌ただしかった。
「今日めっちゃ混むな……」
スタッフの一人がぼやく。
雨が降りそうな空気のせいか、客足が多い。
レジ音。
電子レンジの稼働音。
人の声。
凛はレジ対応をしながら、少しずつ呼吸が浅くなっていくのを感じていた。
疲れている。
昨日の就活説明会から、ずっと心がざわついていた。
“普通に働けなかったらどうしよう”。
その不安が、まだ胸の奥に残っている。
「朝比奈さん、品出しお願い」
「あ、はい」
返事をして動く。
でも今日は、頭が少しぼんやりしていた。
飲料コーナーへペットボトルを並べながら、凛はふと周囲を見る。
みんな普通に働いている。
忙しくても。
疲れていても。
ちゃんと動けている。
なのに自分は。
少し疲れるだけで、すぐ心が沈む。
その時。
「朝比奈さん」
後ろから声がした。
三崎だった。
「最近ちょっと元気ない?」
凛は反射的に「大丈夫です」と言いかけて、少し止まる。
昔なら即答していた。
でも今は。
“本当は大丈夫じゃない”ことを、少しずつ認め始めている。
「……ちょっと疲れてるかもです」
小さく答える。
三崎は少し眉を寄せた。
「まあ、みんな疲れてるけどね」
その瞬間。
凛の胸が少しだけ痛んだ。
やっぱり来る。
“みんな頑張ってる”。
その言葉。
「社会出たらもっと大変だし」
三崎は続ける。
「学生のうちに慣れとかないと」
凛は俯く。
以前の自分なら。
この言葉で完全に潰れていた。
“自分は駄目なんだ”と。
“もっと頑張らなきゃ”と。
でも今は少し違う。
苦しい。
刺さる。
それでも。
“それだけが正解じゃない”と思う自分もいる。
「……はい」
凛は曖昧に頷く。
三崎はそれ以上何も言わず、売り場へ戻っていった。
凛は飲料を並べながら、小さく息を吐く。
胸がざわざわする。
でも。
以前みたいに、“全部自分が悪い”とは思わなかった。
多分三崎は、悪意で言っているわけじゃない。
本当に、“頑張るのが普通”の世界で生きてきた人なのだ。
だから。
無理できない人間の感覚が、わからない。
「……しんど」
小さく呟く。
その時だった。
「朝比奈さん、ちょっと休憩入っていいよ」
別の先輩スタッフが声をかけてくれた。
「顔白い」
凛は少し驚く。
「あ……大丈夫です」
反射的にそう言ってしまう。
でも先輩は苦笑した。
「いや、大丈夫じゃなさそう」
その言葉に、凛は少し黙る。
“無理してる顔”が、最近は少し周囲にも見えるようになってきたのかもしれない。
「……じゃあ少しだけ」
凛は小さく頷いた。
休憩室へ入る。
椅子へ座った瞬間、どっと疲れが押し寄せた。
凛はペットボトルの水を飲みながら、ぼんやり天井を見る。
昔の自分なら。
絶対休まなかった。
無理してでも動いていた。
“みんな頑張ってる”に合わせようとしていた。
でも今は違う。
限界へ気づいたら、少し止まる。
それを、“逃げ”だけだとは思わなくなってきている。
スマートフォンが震える。
真白だった。
『バイトどう?』
凛は少し笑う。
タイミングが良すぎる。
『社会向いてないかもってなってる』
送信。
すぐ既読がつく。
『また三崎さん?』
『なんでわかったの』
『凛ちゃん、その顔してる時大体そう』
凛は少し吹き出した。
画面越しなのに、“顔してる”と言われるのがおかしい。
『“みんな頑張ってる”って言われた』
送信。
少し間。
『まあ、あの人そういう価値観だもんね』
凛はスマートフォンを見つめる。
価値観。
以前の凛は、“社会の正解”は一つだと思っていた。
頑張れる人。
無理できる人。
ちゃんと働ける人。
それが“正しい人間”。
でも今は。
それも一つの価値観なのかもしれないと思い始めている。
『凛ちゃんさ』
真白から続けてメッセージ。
『最近、“自分を潰す頑張り方”から少し離れ始めてると思う』
その言葉に、凛の胸が静かに揺れる。
自分を潰す頑張り方。
昔の凛は、まさにそれだった。
苦しくても無理する。
泣きそうでも笑う。
壊れそうでも止まらない。
でも今は。
苦しいと言う。
疲れたら座る。
休む。
そういうことを、少しずつ覚え始めている。
『でも怖いよ』
凛は打つ。
『こんなんで社会やっていけるのかなって』
既読。
『やっていける形、探せばいいんじゃない?』
その返事に、凛は少し息を止める。
“合わせる”じゃなく、“探す”。
その発想は、昔の凛にはなかった。
『普通に働けないと駄目だと思ってた』
凛が送る。
『普通って、結構雑な言葉だからね』
真白の返事。
『無理して壊れる人も、“普通”の中には結構いるし』
凛は静かに目を閉じる。
確かに。
“ちゃんとして見える人”の中にも、壊れかけている人はいる。
七海も。
灯も。
真白も。
みんな、それぞれ苦しさを抱えていた。
凛は休憩室の壁へ背中を預けながら、小さく息を吐く。
社会はまだ怖い。
働くことも不安だ。
でも。
以前みたいに、“自分が弱いから駄目なんだ”だけでは終わらなくなっている。
無理できない理由がある。
苦しい理由がある。
そして。
“壊れないこと”を優先してもいいのかもしれない。
その考えはまだ不安定で、すぐ揺らぐ。
それでも。
凛は少しずつ、“自分を守る生き方”を覚え始めていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




