第61ページ 社会へ出るのが、怖い
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
月曜日。
大学のキャンパスは、どこか浮ついた空気に包まれていた。
スーツ姿の学生が増えている。
就活用の髪型。
企業説明会のパンフレット。
“将来”という言葉が、あちこちに転がっている。
凛はその空気を吸い込んだ瞬間、胸が少し苦しくなった。
「今日、合同説明会あるんだっけ」
七海が隣でぼやく。
「うん……」
凛は小さく頷く。
大学側が開く、小規模な企業説明会。
参加自由。
でも実質、“参加した方がいいやつ”だ。
講義室へ向かう途中、周囲の会話が耳へ入る。
「インターンどこ行った?」
「ESマジで終わらん」
「早めに動いた方がいいらしいよ」
その言葉たちを聞くだけで、胃の奥が重くなる。
みんな前へ進んでいる。
ちゃんと、“社会へ出る準備”をしている。
なのに自分は。
まだ、“壊れないように生きる”だけで精一杯だ。
「凛ちゃん顔死んでる」
七海が小声で言った。
「……社会が怖い」
凛が正直に答えると、七海は苦笑する。
「わかる」
でもその“わかる”は、凛とは少し違う気がした。
七海も不安を抱えている。
でも。
凛の中にある恐怖は、もっと根深かった。
“普通に働けなかったらどうしよう”。
その不安。
人間関係。
空気。
毎日決まった時間に動くこと。
“ちゃんとした社会人”を求められる世界。
その全部が、凛には怖かった。
説明会の会場へ入る。
スーツ姿の社員たちが並んでいる。
笑顔。
ハキハキした声。
“社会人らしさ”。
その空気に入った瞬間、凛は少し息苦しくなった。
「本日はお越しいただきありがとうございます!」
マイク越しの明るい声。
拍手。
凛は椅子へ座りながら、小さく指先を握る。
眩しかった。
みんなちゃんとして見える。
ちゃんと話せて。
ちゃんと笑えて。
ちゃんと社会の中へ入っていけそうに見える。
凛はふと思う。
自分は、この世界で生きていけるのだろうか。
説明が始まる。
「社会ではコミュニケーション能力が重要です」
「主体性が大事です」
「自己分析を深めて――」
言葉が頭へ入ってこない。
胸だけがざわざわする。
コミュニケーション。
主体性。
普通。
“できて当たり前”のものたち。
凛は視線を落とした。
昔の自分なら。
ここで“頑張らなきゃ”と思っていた。
できない自分を責めていた。
でも今は少し違う。
怖い。
本当に。
その感覚を、ちゃんと認められるようになっている。
でも。
認められるようになったからこそ、余計苦しい時もあった。
休憩時間。
凛は会場の外へ出た。
冷たい空気を吸う。
「……無理かも」
小さく呟く。
その時、スマートフォンが震えた。
灯だった。
『今日説明会だっけ』
凛は少し驚く。
覚えていたのだ。
『うん』
『今かなりしんどい』
送信。
すぐ既読がつく。
『そりゃしんどいよ』
『社会って、“普通にできる人”前提で作られてる感じあるし』
その言葉に、凛の胸が少しだけ軽くなる。
わかってくれる人がいる。
それだけで、呼吸が少し戻る。
『みんな普通に見える』
凛が送る。
少し間が空いて。
『多分みんな多少無理してる』
『でも、凛ちゃんは“無理への耐久値”低いんじゃなくて、“敏感”なんだと思う』
凛は画面を見つめる。
敏感。
昔はその性質を、ただ“弱さ”だと思っていた。
でも最近は少し違う。
空気を感じすぎる。
人の感情を拾いすぎる。
無理を無理として感じやすい。
それは、生きづらさでもあり。
同時に、凛という人間の特性でもあるのかもしれない。
『でも怖いよ』
凛は打つ。
『働けなかったらどうしようって』
既読。
『凛ちゃん』
灯から返ってくる。
『“普通に働く”しか生き方ないって、誰が決めたんだろうね』
その言葉に、凛は少し息を止める。
普通に働く。
フルタイム。
毎日同じ時間に起きて、働いて、笑って。
それが“正しい人生”だと、ずっと思っていた。
でも。
本当にそうなのだろうか。
その時、凛はふと真白のことを思い出す。
会社を壊れて辞めたあと、今はカフェで働きながら絵を描いている。
昔の凛なら、それを“普通じゃない”と思っていたかもしれない。
でも今は違う。
真白はちゃんと、生きている。
壊れない形で。
『まだわかんないけど』
灯から続けてメッセージが来る。
『“壊れてまで合わせる”が正解じゃない気はしてる』
凛は静かに目を閉じる。
壊れてまで合わせる。
昔の凛は、それをしようとしていた。
でも今は。
少しずつ、“壊れない生き方”を探し始めている。
説明会の会場から、また拍手が聞こえる。
凛は空を見上げた。
灰色の空。
冬が近い。
社会はまだ怖い。
未来も不安だ。
でも。
以前と少し違うことがある。
凛はもう、“普通になれない自分=価値がない”とは、少しずつ思わなくなってきていた。
苦しい理由がある。
無理できない理由がある。
そして。
“普通”だけが、生き方じゃないのかもしれない。
その考えはまだ小さくて、不安定だった。
それでも。
絶望しか見えなかった頃より、ほんの少しだけ。
未来に“余白”が生まれ始めていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




