第60ページ 傷を見せるみたいに、生きていた
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
カフェを出た頃には、空はもう夕方の色になっていた。
薄暗い街。
冷たい風。
人の流れは多いのに、どこか静かな時間だった。
凛と灯は駅へ向かってゆっくり歩いていた。
隣を歩いているのに、不思議と無理をしている感じが少ない。
沈黙があっても、そこまで苦しくない。
それが凛には新鮮だった。
「……なんか変な感じ」
灯がぽつりと言う。
「何が?」
「初めて会ったのに、初対面感あんまない」
凛は少し笑う。
「わかる」
夜中に何度も、本音を話してきたからかもしれない。
普通の友達より、“苦しい部分”を先に知っている関係だった。
「でもさ」
灯が少し俯きながら言う。
「会って、引かれたらどうしようとは思ってた」
その言葉に、凛は静かに目を向ける。
引かれる。
その怖さは、凛にもよくわかる。
本当の自分を見せた瞬間、離れていかれるんじゃないかという恐怖。
「私も」
凛は小さく言う。
「“思ったより面倒な人だな”って思われたらどうしようって思ってた」
灯は少し笑った。
「お互い重症じゃん」
「うん」
二人で小さく笑う。
その空気が少し温かかった。
駅前の横断歩道で信号待ちをしていた時。
ふと、灯の袖口が少しずれた。
細い手首。
そこに、白く薄い線がいくつも残っていた。
凛は思わず視線を止める。
でもすぐに逸らした。
見てはいけない気がしたから。
灯は少し沈黙したあと、小さく笑った。
「見えた?」
凛は返事に詰まる。
「……ごめん」
「謝んなくていいよ」
灯は信号を見つめたまま言った。
「隠しきれてないし」
その声は、どこか諦めたみたいだった。
凛の胸が少し痛む。
自傷の痕。
SNSでは聞いていた。
でも。
実際に目の前で見ると、胸の奥がざわついた。
痛そう、とか。
怖い、とか。
そういう単純な感情じゃない。
“ここまで苦しかったんだ”という重さが、一気に現実になる感じだった。
「……ごめん、変な空気にした」
灯が苦笑する。
「いや」
凛は小さく首を振った。
「……痛かった?」
聞いた瞬間、自分でも変な質問だと思った。
灯は少し目を丸くしたあと、小さく笑った。
「痛かったよ、普通に」
その答え方が妙に自然で、凛の胸がぎゅっとなる。
「でもね」
灯は静かに続ける。
「身体の痛みの方が楽だった時あった」
凛は息を止める。
その感覚を、“わかる”とは言えなかった。
でも。
心が苦しすぎる時、人は何か別の痛みへ逃げたくなるのかもしれないと思った。
「私さ」
灯は少し笑う。
「昔、“助けて”って言えなかったんだよね」
その横顔は、どこか遠くを見ていた。
「苦しいって言っても、“気にしすぎ”とか、“病みすぎ”とか言われて」
凛は静かに聞いている。
「だから、“見える傷”作った方が楽だった」
その言葉に、凛の胸が強く痛んだ。
見える傷。
心の苦しさは、外から見えない。
だから誰にもわかってもらえない。
でも身体に傷があれば、“痛い”が形になる。
凛はゆっくり息を吐く。
「……ずっと、一人だった?」
小さく聞く。
灯は少し考えてから頷いた。
「かなり」
その答えが、凛には重かった。
多分灯は、本当に長い間、一人で耐えてきたのだ。
「でも最近」
灯が少しだけ笑う。
「凛ちゃんとか真白さんとか見てると、“苦しい人っているんだな”って思える」
凛は少し目を瞬かせる。
「前まで、自分だけ壊れてる気がしてたから」
その言葉に、凛の胸が静かに揺れる。
“自分だけおかしい”。
その感覚は凛もずっと抱えていた。
みんな普通にできているのに、自分だけできない。
みんな笑っているのに、自分だけ苦しい。
だからずっと、自分が弱いと思っていた。
「……私も」
凛は小さく言う。
「最近まで、“自分だけ駄目なんだ”って思ってた」
灯は少し笑う。
「でも違った?」
凛は少し考える。
そしてゆっくり答えた。
「……苦しい人、ちゃんといた」
真白も。
灯も。
七海も。
みんな、それぞれ見えない苦しさを抱えていた。
ただ。
見えないだけだった。
信号が青へ変わる。
二人はゆっくり歩き出す。
凛は横目で灯を見る。
細い身体。
少し疲れた目。
それでも今日、ここへ来た人。
生きて、会いに来た人。
凛はふと思う。
“理解したい”と思う。
でも。
簡単に“わかるよ”とは言いたくなかった。
痛みは人それぞれ違うから。
それでも。
“苦しかったんだね”とは思えた。
それだけでも、昔の凛にはできなかったことだった。
「……なんかさ」
灯が小さく笑う。
「傷あるの見せるの、ちょっと怖かった」
凛は静かに頷く。
「でも」
灯は少し照れくさそうに続けた。
「凛ちゃん、変に否定しない感じして、少し安心した」
その言葉に、凛の胸がじわりと熱くなる。
否定しない。
それはきっと、昔の自分が一番欲しかったものだった。
“普通じゃない自分”を。
“苦しんでいる自分”を。
否定せずに、ただそこにいてくれる人。
凛は夕暮れの街を歩きながら、小さく思う。
人はきっと。
誰かに全部救われるわけじゃない。
でも。
“否定されない場所”があるだけで、生き延びられる夜があるのかもしれなかった。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




