第56ページ 一人で生きてきたつもりだった
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
朝。
目が覚めた瞬間、凛は少しだけぼんやりしていた。
カーテンの隙間から薄い光が差し込んでいる。
スマートフォンを見る。
時間は八時過ぎ。
通知欄には、夜中の灯とのやり取りが残っていた。
『少しだけ呼吸戻ってきた』
その文字を見て、凛は静かに息を吐く。
よかった。
まず最初に、そう思った。
昨日の灯は、本当に危うかった。
文字越しでもわかるくらい、沈んでいた。
凛はベッドの上で膝を抱える。
胸の奥が少しざわついていた。
誰かへ、“消えないでほしい”と思ってしまった。
その感情は、凛にとって少し怖かった。
大事な人ができるほど、人は怖くなる。
離れていくかもしれない。
壊れてしまうかもしれない。
そんな不安が増えるから。
でも同時に。
灯と繋がっていた昨日の夜は、どこか温かかった。
一人じゃない感じがした。
凛はゆっくり起き上がり、顔を洗う。
鏡を見る。
少し寝不足気味の顔。
でも。
昔みたいな、“空っぽの疲れ方”ではない気がした。
大学へ向かう準備をしながら、凛はぼんやり考える。
昔の自分は、“全部一人で抱えなきゃいけない”と思っていた。
苦しくても。
寂しくても。
誰かへ頼ることは、弱さだと思っていた。
でも最近は違う。
真白へ“しんどい”と言う。
七海へ弱音を吐く。
灯と夜中に言葉を交わす。
そんな時間が、少しずつ凛を支えていた。
大学へ向かう電車の中。
窓の外を流れる景色を見ながら、凛は小さく息を吐く。
“誰かに支えられている”。
その感覚は、まだ少し慣れない。
むしろ怖い。
期待してしまうから。
失った時、苦しくなるから。
でも。
凛はもう、“完全に一人”ではなくなってきていた。
昼休み。
凛は学食の隅の席で一人、パンを食べていた。
人は多い。
騒がしい。
でも今日は、そこまで苦しくない。
「いた」
声がして顔を上げる。
七海だった。
トレーを持ったまま、当然みたいに凛の前へ座る。
「今日ぼっち飯?」
「いつも半分ぼっち飯だよ」
凛が小さく言うと、七海は吹き出した。
「確かに」
そんなやり取りをしながら、七海はカレーを食べ始める。
「昨日バイトだった?」
「うん」
「死んでた?」
「まあまあ」
七海は笑いながら、「お疲れ」と言った。
その軽い言葉が、妙に優しかった。
凛はぼんやり七海を見る。
前の自分なら。
“誰かといること”にもっと緊張していた。
沈黙が怖かった。
嫌われないか不安だった。
でも今は。
こうして、ただ一緒にご飯を食べる時間が少し心地いい。
「何その顔」
七海が怪訝そうに言う。
「え?」
「なんか今、“この人うるさいな”って思った?」
「思ってない」
凛は少し笑った。
「……なんか普通に一緒にいるなって思ってた」
七海は少しきょとんとする。
「何それ」
「前の私、多分もっと気張ってたから」
凛はパンを見つめながら小さく言う。
「嫌われないようにしなきゃ、とかずっと考えてた」
七海は少し黙る。
それから、ぽつりと言った。
「今も考えてるでしょ」
凛は少し苦笑した。
「……まあ、少しは」
「でも前より自然になったよ」
その言葉に、凛の胸が静かに揺れる。
自然。
そんなふうに言われたのは初めてかもしれない。
「凛ちゃんさ」
七海はスプーンを持ったまま続ける。
「最近、人頼るようになったよね」
凛は少し目を瞬かせる。
「そうかな」
「うん」
七海は頷いた。
「前って、“全部一人で飲み込む人”って感じだった」
その言葉に、凛は静かに息を止める。
全部一人で飲み込む。
本当にそうだった。
苦しいも。
寂しいも。
限界も。
全部、自分の中へ押し込めていた。
「でも最近、“しんどい”とか言うじゃん」
七海は笑った。
「ちょっと安心する」
凛は少し驚く。
「安心?」
「うん」
七海は真っ直ぐ言った。
「ちゃんと人間っぽくて」
その瞬間、凛の胸がじわりと熱くなる。
人間っぽい。
昔の凛は、“ちゃんとしてない自分”を隠そうとしていた。
弱い部分を見せたら、嫌われると思っていたから。
でも。
今は違う。
苦しい。
疲れた。
怖い。
そういう部分を少しずつ見せ始めている。
それでも。
完全に一人にならずに済んでいる。
「……私さ」
凛はぽつりと言う。
「ずっと、“一人で生きていかなきゃ”って思ってた」
七海は静かに聞いている。
「でも最近、少し違うかもって思う」
助けてもらった。
話を聞いてもらった。
“苦しい”を否定されなかった。
その全部が、凛を少しずつ支えている。
七海は小さく笑った。
「人間、一人じゃ結構無理だよ」
その言葉が、凛の胸へ静かに落ちる。
一人じゃ無理。
昔の凛なら、その言葉を“弱さ”だと思っていた。
でも今は。
少しだけ違う。
支え合わないと壊れてしまう人間もいる。
そして多分。
凛自身も、その一人だった。
学食の窓から柔らかい光が差し込んでいる。
周囲は相変わらず騒がしい。
でも。
凛はその中で、小さく息を吐く。
一人で生きてきたつもりだった。
でも本当は。
誰かの言葉に。
誰かの優しさに。
少しずつ支えられながら、ここまで来ていたのかもしれなかった。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




