第53ページ あの子は、昔の私みたいだった
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
次の日の朝。
凛は重たい身体を引きずるように大学へ向かっていた。
昨日の夜は、あまり眠れなかった。
途中で何度も目が覚めたし、起きた瞬間から胸の奥が少し重い。
でも。
以前みたいに、“全部終わりだ”という感覚ではなかった。
苦しい。
でも、それを誰かへ言えた。
真白へ、“しんどい”と送れた。
そのことが、凛の中で小さな支えになっていた。
大学へ着く。
秋の空は薄曇りだった。
人の多いキャンパスを歩きながら、凛はぼんやり周囲を見る。
笑いながら歩く学生たち。
急ぎ足で講義へ向かう人。
どこか疲れた顔をした人。
以前の凛なら、“みんなちゃんとしてる”としか思わなかった。
でも最近は少し違う。
この人たちも、何か抱えているのかもしれない。
そんなふうに考える瞬間が増えていた。
講義が終わった昼休み。
凛は自販機の前で飲み物を買っていた。
その時。
少し離れたベンチで、一人の女子学生が俯いているのが目に入った。
短い髪。
痩せた肩。
スマートフォンを握りしめたまま、何度も深呼吸している。
顔色が悪かった。
凛は思わず視線を止める。
――大丈夫かな。
そう思った瞬間。
その子が急に立ち上がり、そのままふらついた。
「あ……」
凛は反射的に駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、その子はハッとしたように顔を上げた。
「え……あ、はい」
でも明らかに無理をしている。
呼吸が浅い。
目も少し潤んでいた。
「座った方が……」
「だ、大丈夫なんです」
その言い方。
凛は胸が少し痛んだ。
昔の自分と同じだったから。
本当は大丈夫じゃないのに。
反射みたいに、“大丈夫”と言ってしまう。
「……無理してません?」
凛が小さく聞く。
その瞬間、相手の表情が少し揺れた。
「え……」
「顔色、悪いから」
女子学生は視線を落とす。
そして小さく笑った。
「……ちょっと寝不足で」
それも、多分本当。
でも全部じゃない。
凛にはなんとなくわかった。
その“誤魔化し方”を、自分もずっとしてきたから。
「少し座りませんか」
凛が言うと、相手は少し迷ったあと、小さく頷いた。
二人でベンチへ座る。
沈黙。
でも凛は、無理に話さなかった。
それが今は大事な気がした。
「……ありがとうございます」
女子学生が小さく言う。
「いえ」
凛はペットボトルを握りながら、静かに隣を見る。
その子はまだ少し呼吸が乱れていた。
スマートフォンの画面には、就活サイトが映っている。
凛は胸の奥がざわついた。
就活。
最近、その言葉を聞くだけで怖くなる。
「就活ですか」
凛が聞くと、女子学生は苦笑した。
「……はい」
「大変ですよね」
「もう、なんか……」
そこで言葉が止まる。
そして、少しだけ掠れた声で呟いた。
「無理かもしれない」
その瞬間。
凛の胸が強く揺れた。
昔の自分みたいだった。
限界なのに。
でも止まれなくて。
“頑張らなきゃ”だけで動いている感じ。
「周りみんなちゃんとしてて」
女子学生は俯いたまま続ける。
「面接とかインターンとか普通に行ってて」
手が小さく震えていた。
「私だけ、なんか上手くできなくて」
凛は静かに息を止める。
その言葉を、凛も何度心の中で繰り返してきただろう。
“自分だけ上手くできない”。
その感覚。
「……疲れてるんですよ」
凛はゆっくり言った。
女子学生は少し驚いたように顔を上げる。
「え?」
「ちゃんとしなきゃって、ずっと頑張ってる感じするから」
言いながら、凛は少し不思議だった。
以前の自分なら、こんなこと言えなかった。
誰かへ優しい言葉をかける前に、“自分がもっと頑張らなきゃ”と思っていたから。
「……そうかも」
女子学生は小さく笑った。
その目は少し潤んでいた。
「なんか最近、ずっと息苦しくて」
凛は黙って聞く。
「でも、“みんなやってるし”って思うと止まれなくて」
その言葉に、凛の胸がじわりと痛む。
“みんな頑張ってる”。
あの言葉は、人を追い詰めることがある。
凛は少し迷ってから、静かに言った。
「……ちゃんと苦しい時って、“休んだ方がいい”時もあると思います」
女子学生は目を瞬かせる。
「でも……」
「私、最近までずっと、“無理しても頑張る方が正しい”って思ってたんです」
凛は自分の言葉に少し驚いていた。
こんなふうに、自分のことを話せるようになるなんて。
「でも、限界って本当にあるから」
凛は小さく笑う。
「壊れる前に休むのって、多分悪いことじゃない」
女子学生はしばらく黙っていた。
やがて、小さく呟く。
「……そんなふうに言われたの、初めてかも」
その瞬間、凛の胸が静かに揺れた。
初めて。
それは昔の凛も欲しかった言葉だった。
頑張れじゃなく。
“苦しいよね”と言ってほしかった。
“休んでもいい”と言ってほしかった。
「……無理しないでくださいね」
凛が小さく言うと、女子学生は少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
その笑顔は、どこか泣きそうだった。
女子学生が去ったあと、凛はしばらくベンチへ座ったまま空を見上げる。
曇り空。
少し冷たい風。
凛は胸へそっと手を当てる。
昔の自分みたいだった。
苦しいのに。
“頑張らなきゃ”しかなくて。
助けを求めることすらできない人。
でも。
今の凛は、その苦しさへ少しだけ気づけるようになっている。
そして。
誰かへ、“無理しないで”と言えるようになり始めていた。
それはきっと。
自分自身にも、少しずつ同じ言葉を向けられるようになってきた証なのかもしれなかった。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




