第52ページ 何もないのに、苦しい夜
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
東京へ戻った夜。
部屋へ入った瞬間、凛はどっと疲れを感じた。
鞄を床へ置く。
コートを脱ぐ。
それだけで、身体が重い。
「……疲れた」
小さく呟く。
実家へ帰ったからだろうか。
精神的に、思っていた以上に消耗していた。
でも。
今日は前みたいに、“全部駄目だった”感覚ではない。
苦しかった。
それでも。
少しだけ、母とわかり合えた気がした。
それは凛にとって、大きな出来事だった。
凛はコンビニで買ってきたプリンを冷蔵庫へ入れる。
灯に「甘いもの食べな」と言われたことを思い出して、少しだけ笑った。
そのあと、部屋着へ着替えてベッドへ座る。
静かだった。
時計の音だけが小さく響いている。
凛はぼんやりスマートフォンを見る。
SNSを開く。
楽しそうな写真。
恋人同士の動画。
就活報告。
“頑張ってる人たち”。
その画面を見た瞬間。
急に胸が重くなった。
「……あ」
呼吸が浅くなる。
さっきまで、少し前向きになれていたのに。
急に、不安が押し寄せてくる。
みんな前へ進んでいる。
ちゃんと生きている。
なのに自分は。
まだ“苦しい”と向き合っているだけだ。
社会へ出るのも怖い。
未来も怖い。
“普通”にすらなれない。
凛はスマートフォンを伏せる。
胸がざわざわする。
苦しい。
理由がわからない。
何かあったわけじゃない。
でも。
心だけが沈んでいく。
こういう夜がある。
突然。
全部が駄目に思える夜。
凛は膝を抱える。
頭の中で、いろんな声が響く。
――みんな頑張ってる。
――もっとちゃんとしなきゃ。
――社会出たらもっと大変。
――甘えてるだけじゃない?
その声たちは、昔からずっと凛の中にいた。
少し元気になっても。
少し前を向けても。
こうして突然、引き戻される。
「……なんで」
凛は小さく呟く。
「ちゃんとしたいのに」
苦しい。
最近、自分を責めすぎなくなってきたと思っていた。
でも。
完全には消えない。
“普通になれない自分”への焦り。
“置いていかれる怖さ”。
それは今も、凛の胸の中に強く残っている。
気づけば、涙が滲んでいた。
凛は慌てて目を擦る。
でも涙は止まらない。
「……なんで泣いてるんだろ」
理由がわからない。
いや。
本当はわかっている。
疲れているのだ。
ずっと。
頑張ってきたから。
でも。
“少し楽になれた”と思った直後ほど、凛は怖くなる。
また苦しくなるんじゃないか。
また壊れるんじゃないか。
そう思ってしまう。
スマートフォンが震える。
真白だった。
『帰宅できた?』
凛は画面を見つめる。
返事を打とうとして、止まる。
苦しい。
でも。
こんなことで連絡していいのだろうか。
迷惑じゃないだろうか。
その時、ふと思い出す。
“助けてって言えなかった”。
最近、少しずつ変わろうとしている。
だから凛は、小さく息を吸って文字を打った。
『なんか今、ちょっとしんどい』
送信。
心臓が鳴る。
重いと思われたらどうしよう。
でも数秒後、すぐ返信が来た。
『そっか』
それだけだった。
でも。
凛の胸は少しだけ軽くなる。
『理由ある感じ?』
『わかんない』
『じゃあ疲れ溜まってるのかもね』
その返事を見ながら、凛は静かに涙を拭く。
真白は、“正しい答え”を言おうとしない。
無理に励まさない。
それが凛には救いだった。
『なんかさ』
凛はゆっくり打つ。
『前より楽になった瞬間あるのに、急にまた沈む』
送信。
少し間が空く。
『あるある』
その返事に、凛は少し目を瞬かせた。
『回復って、ずっと上向きじゃないから』
続けてメッセージが届く。
『少し楽になって』
『また沈んで』
『でも前より少しマシになって』
『それ繰り返してく感じ』
凛は画面を見つめる。
ずっと、“治る”を勘違いしていた。
一回楽になったら、もう苦しくならないものだと思っていた。
でも違う。
苦しくなる日もある。
戻ったみたいに感じる日もある。
それでも。
少しずつ変わっていくものなのかもしれない。
『凛ちゃん、最近ちゃんと自分の苦しさ見れてるから』
『その分、疲れも出やすい時期なんだと思う』
凛は小さく目を閉じる。
苦しさを見る。
それは、楽なことじゃなかった。
今まで押し込めてきたものを、少しずつ掘り返しているのだから。
『……しんどい』
凛が送る。
『うん。しんどいよね』
その返事を見た瞬間、また涙が溢れた。
“頑張れ”じゃない。
“しんどいよね”。
その言葉だけで、少し救われる。
凛はスマートフォンを胸へ抱えた。
部屋は静かだった。
何も起きていない。
それなのに苦しい夜。
でも。
以前と少し違うことがある。
凛は今、“苦しい”を一人だけで抱え込まなくなり始めている。
それはまだ小さな変化だった。
それでも。
壊れそうな夜の中で、誰かへ“しんどい”と言えたことは。
凛にとって、確かな救いになり始めていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




