第51ページ それでも、明日へ戻っていく
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
次の日の朝。
凛は実家の窓から差し込む光で目を覚ました。
カーテンの隙間から入る冬前の朝日。
少し冷たい空気。
ぼんやり天井を見つめながら、凛は小さく息を吐いた。
昨日、泣いた。
母の前では泣かなかったのに。
一人になった瞬間、ずっと張っていたものが切れたみたいに涙が出た。
でも。
不思議と、嫌な涙ではなかった。
痛かった。
苦しかった。
それでも。
“自分はちゃんと苦しかったんだ”と認められた涙だった。
凛はゆっくり起き上がる。
スマートフォンを見る。
灯から夜中にメッセージが来ていた。
『ちゃんと寝れた?』
短いその言葉を見ただけで、胸が少し温かくなる。
『少しだけ』
凛は返信した。
それから身支度をして、リビングへ向かう。
キッチンでは美咲が朝ご飯を作っていた。
「おはよう」
「……おはよう」
少しぎこちない挨拶。
でも。
前みたいな“息が止まりそうな緊張”は少し減っていた。
「もう帰るの?」
「うん。午後からバイトあるし」
「そっか」
美咲は味噌汁をよそいながら、小さく頷く。
食卓へ座る。
湯気の立つ味噌汁。
焼き鮭。
卵焼き。
昔から変わらない朝食だった。
凛は箸を持ちながら、ぼんやり思う。
この家はずっと苦しかった。
でも。
苦しかっただけじゃない。
母も、不器用なまま必死だった。
それを少しだけ知れたことは、凛の中で大きかった。
「凛」
不意に美咲が言う。
「無理なら、ちゃんと休みなさいね」
凛は少し目を瞬かせる。
以前の母なら。
“頑張りなさい”だった。
でも今は違う。
その変化が、まだ少し信じられない。
「……うん」
凛は小さく頷いた。
食事を終え、駅へ向かう。
空はよく晴れていた。
冷たい風が頬へ当たる。
電車へ乗り込むと、窓際の席が空いていた。
凛はそこへ座り、流れていく景色をぼんやり眺める。
実家を出る時、いつも胸が重かった。
“ちゃんとできなかった自分”を突きつけられる場所だったから。
でも今日は少し違う。
苦しかった。
今も完全に楽になったわけじゃない。
それでも。
“あの家で頑張ってきた自分”を、少しだけ認められた気がした。
スマートフォンが震える。
灯だった。
『実家ミッションお疲れ』
凛は少し笑う。
『かなりHP削られた』
『わかる』
『実家ってなんであんなMP減るんだろ』
そのやり取りに、小さく肩の力が抜ける。
『でも』
凛は少し迷ってから打ち込む。
『前より少しだけ、苦しくなかった』
送信。
数秒後。
『凛ちゃん、ちゃんと変わってきてるね』
その言葉に、凛は窓の外を見る。
変わってきている。
そうなのだろうか。
以前の自分なら。
苦しいを全部飲み込んでいた。
でも今は違う。
苦しい。
疲れた。
怖い。
そういう感情を、少しずつ言葉にできるようになってきた。
そして。
助けてもらうことも。
休むことも。
“生きるために必要なこと”だと思い始めている。
電車がトンネルへ入る。
窓へ、自分の顔が映った。
少し疲れている。
でも。
以前より、“無理して笑ってる顔”じゃない気がした。
凛はぼんやり考える。
未来はまだ怖い。
社会も怖い。
就活も。
働くことも。
“普通になれない自分”も。
全部まだ怖い。
でも。
最近、少しだけ変わったことがある。
前までは、“消えたい”に近かった。
苦しすぎて。
疲れすぎて。
“ここからいなくなりたい”と思う日が何度もあった。
でも今は。
怖いままでも。
苦しいままでも。
“もう少し生きてみたい”と思う瞬間が、少しだけ増えている。
真白。
灯。
七海。
そして母。
“わかろうとしてくれる人”がいること。
それが、凛の中で小さな支えになり始めていた。
スマートフォンを見る。
灯からまたメッセージ。
『帰ったら甘いもの食べな』
凛は少し笑う。
『子ども扱い』
『疲れた人類には糖分必要』
その言葉を見ながら、凛は小さく息を吐く。
こんなふうに。
“生き延びるための会話”をできる人がいる。
それが、少し嬉しかった。
電車が東京へ近づいていく。
灰色のビル群。
忙しそうに歩く人たち。
相変わらず、この街は息苦しい。
でも。
凛はその景色を見ながら、静かに思う。
“普通になれなかった私”でも。
苦しみながら生きている私でも。
もう少しだけ。
明日へ戻ってみたいと。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




