第44ページ お母さんも、“普通”が怖かった
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
その日は朝から雨だった。
窓を叩く雨音で目が覚める。
部屋の中は薄暗く、空気が少し冷たい。
凛は布団の中でぼんやり天井を見つめていた。
昨日、灯と会った。
“消えたい”を抱えながら、それでも生きている人。
その存在が、まだ胸の中へ残っている。
そして同時に。
小さな頃の自分を思い出した。
“普通にならなきゃ”と必死だった自分。
その記憶を思い返すたび、胸の奥が少し痛んだ。
凛はゆっくり起き上がり、キッチンでお湯を沸かす。
温かい紅茶を淹れる。
その湯気を見つめながら、ふと思う。
最近、自分は変わってきている。
昔なら、“苦しい”と思うことすら許さなかった。
でも今は違う。
苦しい。
怖い。
無理。
そんな感情を、少しずつ否定しなくなっている。
それは楽でもあった。
でも同時に、怖くもあった。
もし。
今までの“頑張ってきた人生”が、本当は無理をしていただけだったなら。
自分は何のために、あんなに苦しかったのだろう。
その時、スマートフォンが震えた。
母からだった。
『起きてる?』
凛は少し迷う。
以前なら、“ちゃんとした返事”を考えていた。
でも今は少し違う。
『起きてる』
そうだけ返す。
数秒後。
『電話していい?』
凛は静かに画面を見つめる。
少し怖かった。
前みたいに、「ちゃんとしなさい」と言われたらどうしよう。
でも。
少し話したい気持ちもあった。
『うん』
送信。
すぐ電話がかかってくる。
「……もしもし」
『凛?』
母の声。
懐かしいような、少し緊張するような響き。
「うん」
『体調どう?』
「……ぼちぼち」
少し沈黙。
以前なら、この沈黙が怖かった。
でも今は、無理に埋めなくてもいい気がした。
『最近、寒くなってきたわね』
「うん」
『ちゃんと食べてる?』
「一応」
母は小さく息を吐く。
『凛、前よりちょっと話し方変わった』
その言葉に、凛は少し驚く。
「そう?」
『うん』
美咲は少し言葉を探すように黙った。
『前はもっと、“大丈夫”って感じだった』
凛は静かに目を伏せる。
“ちゃんとした娘”を演じていた。
心配させないように。
迷惑をかけないように。
「……最近、あんまり無理できなくなった」
凛はぽつりと言う。
美咲は黙って聞いていた。
「前までは、“頑張んなきゃ”って思って動いてたけど」
今は違う。
無理をすると、本当に壊れそうになる。
「……怖いの」
自然に言葉が漏れる。
「何が?」
母の声は静かだった。
「今までの自分が、全部無理してた気がして」
その本音を口にした瞬間、胸がぎゅっと痛む。
小学生の頃から。
ずっと。
“普通になろう”としていた。
でももし、それが全部、自分を削ることだったなら。
凛は何のために頑張ってきたのだろう。
電話の向こうで、美咲が小さく息を吐いた。
『……お母さんね』
その声は少し掠れていた。
『凛には、普通に幸せになってほしかったの』
凛は黙って聞く。
『友達がいて』
『ちゃんと学校行って』
『普通に働いて』
『結婚して』
美咲はゆっくり言葉を並べる。
『そういう人生が、一番安心だと思ってた』
その声を聞きながら、凛はふと思う。
母は、“安心”が欲しかったのだ。
娘に。
そしてきっと、自分自身にも。
「……お母さんは?」
凛は小さく聞く。
『え?』
「お母さんは、“普通”だった?」
電話の向こうが静かになる。
長い沈黙。
やがて、美咲が苦笑する。
『全然』
その答えに、凛は少し目を見開いた。
『お母さんも、人付き合い苦手だったし』
『空気読むの下手だし』
『よく浮いてた』
凛は息を止める。
そんな話、初めて聞いた。
「……え」
『だから必死だったの』
美咲の声は静かだった。
『ちゃんとしなきゃって』
『普通にならなきゃって』
凛の胸が大きく揺れる。
母も。
“普通”になろうとしていた。
必死に。
『お母さんね』
美咲は小さく笑った。
『凛が自分に似てる気がして、怖かったのかも』
その言葉が、凛の胸へ深く落ちる。
怖かった。
社会から浮くことが。
生きづらくなることが。
だから母は、“普通でいてほしい”と願った。
愛情だった。
でも同時に、不安だった。
「……そっか」
凛は小さく呟く。
ずっと、“わかってもらえない”と思っていた。
でも本当は。
母もまた、“普通”に苦しんできた人だったのかもしれない。
『ごめんね』
美咲がぽつりと言う。
『お母さん、“頑張れ”しか言えなくて』
凛の胸がじわりと熱くなる。
昔の凛なら、この言葉を聞いても許せなかったかもしれない。
でも今は少し違う。
母もまた、不安だったのだ。
どう生きればいいかわからないまま、“普通”へしがみついてきた。
「……私も」
凛は静かに言う。
「最近まで、“普通にならなきゃ”しかなかった」
でも今は少しずつ違う。
苦しいを認め始めている。
壊れない生き方を探し始めている。
『凛』
美咲の声が少し柔らかくなる。
『無理しすぎないでね』
その言葉に、凛は静かに目を閉じる。
昔は、“頑張れ”だった。
でも今は、“無理しすぎないで”。
その小さな変化が、胸に沁みた。
電話を切ったあと、凛はしばらく動けなかった。
雨音だけが静かに響いている。
母も苦しかった。
母も、“普通”に怯えていた。
そう思った瞬間。
今までずっと怖かった“お母さん”が、少しだけ、一人の弱い人間に見えた。
凛は温くなった紅茶を飲みながら、小さく息を吐く。
“普通”は、誰かを守る言葉にもなる。
でも同時に。
誰かを苦しめる呪いにもなるのだと、少しずつわかり始めていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




