第38ページ 羨ましいと思ってしまった
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
十月の午後。
大学の中庭には、柔らかい秋の日差しが落ちていた。
木々が少しずつ色づき始めている。
凛は講義を終えたあと、一人で自販機の前に立っていた。
今日は比較的、ちゃんと呼吸ができていた。
人の多い教室でも途中で逃げ出さずにいられたし、講義にも集中できた。
もちろん疲れてはいる。
でも。
“ちゃんとできた”に近い日だった。
凛は温かいミルクティーを買い、ベンチへ向かおうとする。
その時。
中庭の向こうから、大きな笑い声が聞こえた。
「やば、マジで!?」
「だから言ったじゃん!」
「写真撮ろー!」
男女混ざったグループ。
五、六人くらいだろうか。
みんな自然に笑っている。
肩を寄せ合って。
スマートフォンを向け合って。
まるで、“青春”そのものみたいだった。
凛の足が止まる。
胸の奥が、じわりと痛んだ。
羨ましい。
その感情が、はっきり浮かぶ。
凛は視線を逸らそうとする。
でもできなかった。
眩しかった。
あの輪の中へ、自分はきっと入れない。
自然に笑って。
空気を読まずに話して。
「一緒にいて楽しい人」になれる人たち。
凛は昔から、そういう人間になれなかった。
輪に入っても、気を遣いすぎて疲れる。
笑うタイミングを考える。
嫌われていないか不安になる。
だから結局、一人になる方が楽だった。
でも。
楽なのに、寂しかった。
凛はベンチへ座り、ミルクティーを握りしめる。
胸がざわざわする。
苦しい。
でもその苦しさの正体が、今日は少しだけわかった。
羨ましいのだ。
“普通に楽しめる人たち”が。
その感情を認めた瞬間、凛は少し自己嫌悪した。
嫉妬なんて、醜い。
そう思った。
でも。
羨ましかった。
その時、誰かが凛の前へ立つ。
「凛ちゃん?」
七海だった。
「あ……」
「どうしたの? 顔死んでる」
七海は隣へ座る。
凛は少し迷ったあと、小さく言った。
「……羨ましくなった」
「ん?」
凛は視線を中庭へ向ける。
さっきのグループはまだ笑っていた。
「楽しそうだなって」
その声は、自分でも驚くほど小さかった。
七海は少し黙る。
それから、「あー」と小さく呟いた。
「わかる」
凛は少し驚く。
「七海ちゃんも?」
「全然あるよ」
七海は苦笑した。
「私なんか、しょっちゅう」
その答えが意外だった。
七海は“そっち側”の人だと思っていたから。
自然に人と話せて。
明るくて。
輪の中心にいる人。
「でも七海ちゃん、友達多いじゃん」
凛が言うと、七海は少し笑った。
「多く見えるだけ」
その声はどこか疲れていた。
「私さ、ああいう空気ずっと頑張って作ってる時ある」
凛は静かに聞く。
「盛り上げなきゃとか、気まずくしちゃ駄目とか、ずっと考えてる」
七海はペットボトルを指で弄びながら続ける。
「だから家帰るとめっちゃ疲れる」
凛の胸が少し痛む。
明るく見える人も、無理をしている。
それはもう、何度も知ったはずだった。
でも。
それでも羨ましさは消えない。
「……私ね」
凛はぽつりと言う。
「最近、自分の中に“羨ましい”とか“嫉妬”とかあるの気づいて」
その言葉を口にするのは少し怖かった。
そんな感情、認めたくなかったから。
「なんか、嫌だなって思った」
七海は少しだけ目を丸くする。
それから、小さく笑った。
「凛ちゃん、ほんと真面目」
「え?」
「嫉妬くらいみんなするよ」
凛は黙り込む。
「私なんか毎日してる」
七海は冗談っぽく笑った。
「可愛い子とか、キラキラしてる子とか見ると普通に落ち込むし」
その言葉に、凛は少しだけ力が抜ける。
嫉妬するのは、自分だけじゃない。
「でもさ」
七海は空を見上げる。
「羨ましいって、多分“本当は欲しかった”ってことなんだと思う」
凛の胸が小さく揺れる。
本当は欲しかった。
友達と自然に笑う時間。
人を怖がらない心。
普通に未来を楽しみにできる感覚。
凛はずっと、それが欲しかった。
「だから別に、悪い感情じゃないと思う」
七海は静かに言った。
凛はミルクティーを見つめる。
今まで、自分の“黒い感情”を全部否定してきた。
怒り。
嫉妬。
寂しさ。
そんなものを持ってはいけないと思っていた。
でも。
苦しい。
羨ましい。
寂しい。
それも全部、自分の本当の感情だった。
「……私」
凛は小さく呟く。
「普通に笑える人になりたかった」
その本音を口にした瞬間、胸がじわりと熱くなる。
七海は少しだけ笑った。
「私も、“何も考えずに人といられる人”になりたかった」
二人はしばらく黙って中庭を見ていた。
楽しそうな笑い声。
眩しい空気。
その輪の中へ入りたいと思う。
でも同時に。
もし入れたとしても、きっと凛は疲れてしまう。
そのことも、今は少しわかっていた。
「なんか難しいね」
七海が苦笑する。
「ね」
凛も少し笑った。
羨ましいと思ってしまう。
普通になりたいと思ってしまう。
その気持ちは、多分すぐには消えない。
でも。
その感情を“駄目なもの”として押し込め続けるより。
“そう思ってしまうくらい苦しかったんだ”と、自分で認めてあげたいと思った。
秋風が静かに吹く。
凛は空を見上げながら、小さく息を吐く。
“普通”への憧れを抱えたままでも。
少しずつ、自分を否定しない方へ進みたかった。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




