第33ページ 困らせてしまった夜
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
電話を切ったあとも、凛はしばらく駅前のベンチから動けなかった。
夜風が冷たい。
人の流れは絶えず、改札の向こうでは電車のアナウンスが響いている。
その中で、凛だけが時間に取り残されたみたいだった。
――ごめんね。
母の声が頭の中で何度も繰り返される。
あんな言葉、初めて聞いた。
美咲はいつも、「頑張りなさい」と言う側だったから。
だから凛は、ずっと「頑張れない自分が悪い」と思っていた。
でも今日。
初めて、“苦しい”と言った。
初めて、“ちゃんとできない”を隠さなかった。
その結果。
母を困らせた。
凛は膝の上で拳を握りしめる。
胸の奥がざわざわする。
苦しい。
でも、少しだけ軽い。
その矛盾が、自分でもよくわからなかった。
気づけばまた、『cafe 月灯り』へ向かっていた。
最近、この店へ来る回数が増えている。
凛は少しだけ、そのことに罪悪感を抱いていた。
頼りすぎている気がするから。
でも、ここへ来ると呼吸ができた。
扉を開ける。
ベルの音。
静かな音楽。
真白が顔を上げた瞬間、凛は少し泣きそうになる。
「こんばんは」
「……こんばんは」
真白は凛の顔を見るなり、小さく眉を寄せた。
「今日、かなり揺れてる顔してる」
その言葉に、凛は少し苦笑する。
「顔に出てる?」
「結構」
凛はカウンター席へ座り、深く息を吐いた。
真白が温かいカフェオレを置いてくれる。
湯気が静かに揺れていた。
「……お母さんに、“苦しい”って言った」
凛がぽつりと言うと、真白は静かに頷いた。
「うん」
「初めて、あんなふうに言った」
凛はカップを見つめる。
「困らせたと思う」
その言葉を口にした瞬間、胸が少し痛んだ。
昔から、凛は“困らせない子”でいようとしてきた。
空気を壊さない。
迷惑をかけない。
心配させない。
そうしていれば、愛される気がしたから。
「……でも」
凛は小さく続ける。
「もう、“大丈夫”って言えなかった」
真白は少しだけ目を細めた。
「うん」
「本当は全然大丈夫じゃなかったから」
店内には静かなジャズが流れている。
その穏やかな音の中で、凛は自分の声だけがやけに不安定に感じた。
「お母さん、“ごめんね”って言った」
凛はぽつりと言う。
「でもそのあと、“どうしたらいいかわからない”って感じだった」
真白は黙って聞いていた。
「……私、お母さんを困らせた」
その瞬間、涙が少し滲む。
真白はしばらく何も言わなかった。
やがて静かな声で聞く。
「凛ちゃん、“困らせること”ってそんなに悪いこと?」
凛はハッと顔を上げた。
「え……」
「今まで、一回も誰かを困らせずに生きてきた?」
凛は言葉に詰まる。
そんなこと、ない。
でも。
困らせてはいけないと思っていた。
「……だって」
凛は俯く。
「迷惑かけたら嫌われる」
その言葉は、凛の中にずっとあった恐怖だった。
苦しいと言うこと。
助けてと言うこと。
弱さを見せること。
それは、“面倒な人間”になることだと思っていた。
真白は静かに息を吐く。
「凛ちゃん、多分ずっと、“いい子”で愛されようとしてきたんだね」
凛の胸が小さく揺れる。
いい子。
優しい子。
空気を読める子。
そうでいなければ、自分には価値がない気がしていた。
「でもさ」
真白は穏やかに続ける。
「人って、本当に大事な相手には、困られても離れないよ」
その言葉を聞いた瞬間、凛は息を止めた。
離れない。
その感覚が、凛にはまだ少し信じられなかった。
「凛ちゃんが苦しいって言ったことで、お母さんは確かに戸惑ったと思う」
真白は静かな声で言う。
「でも、それって“困らせた”だけじゃなくて、“本当の凛ちゃんを知った”ってことでもある」
凛はカップを握る手に力を込めた。
本当の自分。
苦しい自分。
頑張れない自分。
弱い自分。
そんな姿を見せたら、嫌われると思っていた。
「……怖かった」
凛は掠れた声で言う。
「電話切ったあと、“嫌われたかも”って思った」
真白は少し苦しそうに笑った。
「その怖さ、かなり根深いね」
凛は小さく頷く。
幼い頃から、“迷惑をかけないこと”ばかり考えてきた。
だから。
誰かを困らせるくらいなら、自分が苦しい方がましだった。
「でも最近」
凛はゆっくり言葉を探す。
「もう、自分だけが我慢するの限界だった」
その本音を口にした瞬間、胸が少し熱くなる。
限界だった。
本当に。
ずっと。
「うん」
真白は静かに頷く。
「だから、ちゃんと苦しいって言えたんだと思う」
凛はぼんやり窓の外を見る。
夜の街。
行き交う人たち。
みんな何事もない顔をして歩いている。
でも本当は。
誰かに言えない苦しさを抱えている人もいるのかもしれない。
「……私ね」
凛は小さく笑う。
「最近、自分がよくわかんなくなってきた」
「どういう意味?」
「前まで、“我慢するのが普通”だったのに」
今は違う。
苦しいと言いたい。
嫌だと思う。
無理したくない。
そんな感情が、少しずつ表へ出てきている。
「変わっていくの怖い」
凛は正直に言った。
優しい子じゃなくなる気がするから。
でも真白は穏やかに首を振る。
「変わってるんじゃなくて、多分“戻ってる”んだと思う」
凛は目を瞬かせる。
「戻ってる……?」
「うん」
真白は静かに笑った。
「凛ちゃん、今まで我慢しすぎて、自分の感情わからなくなってただけでしょ」
その言葉が、胸の奥へゆっくり落ちていく。
悲しい。
苦しい。
怖い。
嫌だ。
本当はずっとあった感情。
でも、“いい子”でいるために押し込めてきた。
「だから今、“ちゃんと自分の感情感じ始めてる”んだと思う」
凛は静かに目を伏せる。
怖い。
でも。
少しだけ、呼吸がしやすい。
誰かを困らせること。
弱さを見せること。
それは今でも怖い。
でも。
自分を消してまで“いい子”を続ける方が、もうずっと苦しかった。
カフェオレの湯気が静かに揺れる。
凛はその温かさを感じながら、小さく息を吐いた。
“本当の自分”は、まだよくわからない。
でも。
少なくとも、“苦しいのに笑っていた自分”だけが、本当の自分じゃなかった気がしていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




