第32ページ いい子じゃいられなかった
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
十月に入っていた。
空気はすっかり秋になり、朝晩は少し肌寒い。
凛は大学の帰り道、一人で駅前を歩いていた。
今日は授業へ出られた。
全部ではない。
途中で息苦しくなって外へ出た時間もあった。
でも以前みたいに、“最後まで普通を演じ続ける”ことはしなかった。
苦しくなったら外へ出る。
無理なら休む。
少しずつ、そんな選択を覚え始めている。
それでも疲れた。
周囲の会話。
笑い声。
「普通」の空気。
その中にいるだけで、凛の神経はずっと張り詰めてしまう。
スマートフォンが震える。
母からだった。
『最近ちゃんと大学行けてる?』
その文字を見た瞬間、凛の胸が少し重くなる。
最近、美咲からの連絡が増えていた。
心配しているのだとわかる。
でも同時に、その“確認”が苦しかった。
ちゃんと行けてる?
ちゃんと生活できてる?
ちゃんと普通でいられてる?
そう聞かれている気がするから。
凛はしばらく返信画面を見つめる。
前なら。
『大丈夫だよ』
と返していた。
でも今は、その言葉が喉につかえる。
『行ける日もある』
そう送る。
数秒後、返信が来た。
『そう』
『でもちゃんと行かないと駄目よ』
その瞬間。
凛の胸の奥で、何かが小さく切れた。
疲れていたのかもしれない。
大学でもずっと気を張って。
“普通”の中で息をして。
やっと少しだけ、“無理”と言えるようになってきたところだったから。
『ちゃんとって何?』
気づけば、送っていた。
送信したあと、凛は自分で息を止める。
こんな返し方、したことがない。
すぐに後悔が押し寄せる。
でもメッセージは、もう消せなかった。
既読がつく。
しばらく返信は来なかった。
凛は駅のベンチへ座り込む。
心臓がうるさい。
最低だ。
お母さんは心配してるだけなのに。
でも。
苦しかった。
“ちゃんと”という言葉が。
ずっと。
少しして、返信が届く。
『凛、どうしたの?』
その文字を見た瞬間、凛の目に涙が滲みそうになる。
どうしたの?
本当はずっと、“苦しかった”のだ。
『私なりに頑張ってる』
凛は震える指で打つ。
『でも、ちゃんとできない時ある』
送信。
息が苦しい。
怖い。
嫌われるかもしれない。
面倒だと思われるかもしれない。
でも、もう“平気なふり”だけでは限界だった。
美咲からすぐに電話がかかってきた。
凛は少し迷ってから出る。
「……もしもし」
『凛?』
母の声は少し戸惑っていた。
『どうしたの急に』
その言葉を聞いた瞬間、凛の胸の奥に溜まっていたものが少しずつ溢れそうになる。
「……どうしたっていうか」
声が震える。
「私、ちゃんとやろうとしてるよ」
沈黙。
「でも最近、ずっと苦しい」
言ってしまった。
凛は唇を噛む。
こんなふうに、本音をぶつけたことなんてなかった。
『凛……』
「お母さん、ずっと“頑張れ”って言うけど」
涙が滲む。
「私、もう何年も頑張ってる」
電話の向こうが静かになる。
凛は止まれなかった。
「ちゃんとしようとしてる」
「普通になろうとしてる」
「でも、できない時あるの」
声が掠れる。
「苦しいの」
その瞬間、涙が零れた。
駅前の雑音が遠くなる。
美咲はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く音が聞こえる。
『……お母さんは』
その声は少し弱かった。
『凛に、幸せになってほしいだけなの』
凛は目を閉じる。
わかっている。
本当に。
美咲は凛を傷つけたくて言っているわけじゃない。
ただ。
“普通”でいれば安心だと思っている。
だから必死なのだ。
「……うん」
凛は小さく返す。
『でも社会って、優しくないから』
また、その言葉だった。
凛は苦しくなる。
真白も同じことを言っていた。
社会は優しくない。
だから無理をしなきゃいけない。
でも。
その“無理”で壊れてしまう人もいる。
「……お母さん」
凛は涙を拭いながら言う。
「私、もうずっと無理してた」
その言葉を口にした瞬間、胸が大きく痛んだ。
認めてしまった。
自分が限界だったことを。
美咲は黙ったままだった。
凛は続ける。
「最近やっと、“苦しい”って思えるようになったの」
今までは、自分の苦しさすら否定していた。
弱いから。
甘えてるから。
自分が駄目だから。
そう思っていた。
「だから……」
凛は息を詰まらせながら言う。
「“ちゃんとしなきゃ”って言われると、苦しい」
長い沈黙。
駅前のアナウンスだけが遠くで響いている。
やがて、美咲が小さく言った。
『……ごめんね』
その瞬間、凛の呼吸が止まる。
ごめんね。
母からそんな言葉を聞くと思っていなかった。
『お母さん、心配で』
美咲の声は少し震えていた。
『凛が動けなくなったら、どうしたらいいかわからなくて』
凛は目を見開く。
母も、怖かったのだ。
凛が壊れてしまうことが。
社会から外れてしまうことが。
どう支えればいいかわからないまま、“頑張れ”しか言えなかった。
凛は静かに涙を拭う。
「……私も、わかんない」
それが本音だった。
どう生きればいいのか。
どうすれば壊れないのか。
まだ全然わからない。
『……うん』
美咲も小さく答えた。
その声は、少し疲れて聞こえた。
通話を切ったあと、凛はしばらくベンチから動けなかった。
胸が痛い。
苦しい。
でも同時に、少しだけ軽い。
初めて、“苦しい”と言った。
いい子のままじゃいられなかった。
母を困らせた。
心配させた。
それでも。
もう、自分の痛みを全部飲み込んで笑うことはできなかった。
秋の風が静かに吹く。
凛は空を見上げ、小さく息を吐く。
怖かった。
でも。
“苦しい”と言えた自分を、少しだけ消したくないと思っていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




