第30ページ 正しい言葉が痛い日
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
九月の終わりが近づいていた。
空は少し高くなり、夜になると風が冷たく感じる日も増えてきた。
凛は久しぶりにアルバイトへ向かっていた。
駅前の人混みを歩きながら、胸の奥がずっと落ち着かない。
大学だけじゃない。
バイトもまた、“ちゃんとできる自分”を求められる場所だった。
でも休み続けるわけにもいかなかった。
生活費。
学費。
将来。
現実は待ってくれない。
店へ着くと、いつもの匂いがした。
コーヒー。
洗剤。
人の声。
それだけで少し緊張する。
「おはようございます」
凛が小さく頭を下げると、スタッフたちが「おはよー」と返した。
普通の反応。
誰も責めない。
でも凛は、その“普通”が逆に怖かった。
ちゃんとしなきゃ。
また頭の中で、その言葉が鳴り始める。
「朝比奈さん」
振り返ると、三崎がいた。
「久しぶり」
「……お久しぶりです」
三崎は少しだけ凛の顔を見る。
「体調、大丈夫?」
「はい……」
反射的に答えたあと、凛は少しだけ言葉に詰まる。
本当は、まだ全然大丈夫じゃない。
でも“完全に大丈夫じゃないです”とは言えなかった。
三崎は「そっか」とだけ言って、仕事の説明を始める。
その態度はいつも通りだった。
優しい。
ちゃんとしている。
だからこそ、凛は余計に苦しくなる。
仕事が始まる。
注文を聞く。
レジを打つ。
飲み物を運ぶ。
身体は動いている。
でも頭の中ではずっと緊張が続いていた。
ミスしないように。
迷惑をかけないように。
ちゃんとしなきゃ。
「朝比奈さん」
三崎の声が飛ぶ。
「それ先に片付けてもらえる?」
「あ、はい」
凛は慌てて動く。
その瞬間、別のスタッフとぶつかりそうになった。
「ご、ごめんなさい!」
反射的に謝る。
心臓が大きく鳴る。
失敗した。
ちゃんとできなかった。
その感覚が、一気に身体を冷やしていく。
「落ち着いて」
三崎が静かに言った。
「焦ると余計ミスするから」
「……はい」
正しい。
本当にその通りだ。
でも。
その“正しさ”が、今の凛には少し苦しかった。
休憩時間。
凛はバックヤードで一人、小さく息を吐いていた。
疲れた。
まだ数時間しか働いていないのに、身体が重い。
昔の自分は、これをずっと耐えていたのだ。
凛はぼんやり思う。
あの頃は、“苦しい”ことにすら気づいていなかった。
いや。
気づかないふりをしていた。
その時、休憩室のドアが開いた。
三崎だった。
「隣いい?」
「……はい」
三崎は缶コーヒーを片手に椅子へ座る。
少し沈黙。
それから静かな声で言った。
「無理してない?」
凛は少し驚いた。
「え……」
「最近、前より顔色悪いから」
その言葉に、凛の胸がざわつく。
心配している。
三崎は本当に悪い人じゃない。
でも。
凛はこの人の“正しさ”に、何度も苦しくなってきた。
「……大丈夫です」
またそう言ってしまう。
三崎は少し眉を寄せた。
「本当に?」
凛は答えられなかった。
本当は、大丈夫じゃない。
でも。
どこまで言っていいかわからない。
三崎は少し黙ったあと、小さく息を吐く。
「朝比奈さん、真面目だからさ」
また、その言葉だった。
真面目。
昔なら、その言葉に縋っていた。
でも最近は違う。
“真面目だから壊れてきた”部分もあると、少しずつ気づき始めている。
「頑張りすぎちゃうタイプだよね」
三崎は続ける。
「でも社会出たら、ある程度は慣れないといけないから」
凛の胸が、小さく痛む。
社会。
慣れる。
普通になること。
その言葉は、母とも重なった。
「みんな最初はしんどいんだよ」
三崎の声は穏やかだった。
「でも続けてるうちに慣れる」
凛は俯く。
少し前までなら。
その言葉を全部、“自分が弱いからだ”と受け取っていた。
でも今は違う。
“みんな頑張ってる”が、全員に当てはまるわけじゃない。
“慣れる”前に壊れてしまう人もいる。
灯みたいに。
真白みたいに。
そして、多分、自分も。
「……慣れない人もいますよね」
気づけば、凛はそう口にしていた。
三崎が少し驚いた顔をする。
「え?」
凛自身も驚いていた。
今までなら、絶対に言えなかった。
相手の正しさに逆らうみたいで怖かったから。
「頑張っても……無理な人も、いると思います」
声は小さかった。
でも、ちゃんと自分の言葉だった。
三崎は少し黙る。
それから困ったように笑った。
「まあ、そういう時期もあるかもしれないけど」
その返答を聞いた瞬間、凛の胸が少し冷える。
やっぱり伝わらない。
三崎に悪気はない。
でも。
この人は、“頑張ればできる側”の人なのだ。
だから、“頑張っても壊れる感覚”を知らない。
凛はふと気づく。
今まで、自分はこういう場面で全部“自分が悪い”と思っていた。
理解されないのは、自分の説明が下手だから。
自分が弱いから。
自分がおかしいから。
でも今は少し違う。
“わからない人には、わからない”こともあるのかもしれない。
その考えは、凛にとって少し怖かった。
でも同時に、少しだけ楽でもあった。
「……すみません」
凛は小さく頭を下げる。
三崎は慌てたように言った。
「いや、責めてるわけじゃないからね」
「はい」
わかっている。
本当に悪気はない。
ただ。
“正しい言葉”が、人を救うとは限らない。
それを凛は、少しずつ知り始めていた。
休憩が終わり、凛は再びフロアへ戻る。
相変わらず緊張はする。
怖い。
疲れる。
でも。
前みたいに、“全部自分が悪い”とは思わなかった。
理解されない苦しさはある。
それでも。
自分の苦しさを、自分だけは否定したくなかった。
レジ前のライトが白く光る。
凛は小さく深呼吸をした。
“普通”になれない自分を。
少しずつ、それでもここに立たせようとしていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




