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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第28ページ  元に戻れなくても


「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」


誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。

人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。

ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。


そんな“生きづらさ”を、

「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。


この物語は、

“普通”になれなかった人たちの物語です。


誰にも言えない孤独。

理解されない苦しさ。

消えたいわけじゃないのに、

この世界にうまく馴染めない感覚。


主人公・朝比奈凛は、

そんな痛みを抱えながら生きています。


けれど、

生きづらさには、理由があります。


そして、

名前のつかない痛みにも、

いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。


この物語が、

今苦しんでいる誰かの心に、

小さな灯りとして残りますように。



 夕方になっても、凛は大学へ戻らなかった。


 保健室を出たあと、そのまま駅まで歩き、気づけば『cafe 月灯り』へ向かっていた。


 九月の空は少し曇っている。


 真夏みたいな青空ではない。


 でもその曖昧な色が、今の凛には少し落ち着いた。


 店の扉を開ける。


 ベルの音。


 コーヒーの香り。


 いつもの静かな空気。


 真白はカウンターの奥でグラスを拭いていた。


 凛を見ると、小さく目を細める。


「おかえり」


 その言葉に、凛は少し驚く。


 “いらっしゃい”ではなく、“おかえり”。


 その響きが妙に優しくて、胸が少し熱くなった。


「……ただいま」


 自然にそう返していた。


 真白は少し笑う。


「今日は大学行けた?」


 凛は椅子へ座りながら、小さく頷いた。


「行った」


「うん」


「でも教室入れなかった」


 真白は静かに聞いている。


「保健室いた」


 そこまで言うと、凛は苦笑した。


「前の私なら、多分無理して入ってた」


「うん」


「で、帰ってから壊れてたと思う」


 真白は少しだけ目を伏せた。


「今日は壊れなかった?」


 その質問に、凛は少し考える。


 完全に平気なわけじゃない。


 怖かったし、情けなかったし、泣いた。


 でも。


「……前よりは」


 凛が小さく答えると、真白は静かに頷いた。


「それ、すごいことだよ」


 凛は少し困ったように笑う。


「でも結局、普通に授業受けられてない」


 その言葉を口にした瞬間、胸が少し苦しくなる。


 周りは普通に教室へ入っている。

 授業を受けている。

 大学生活を送っている。


 それなのに、自分は保健室で泣いていた。


「……私、ちゃんと戻れるのかな」


 凛はぽつりと言った。


 その声は、自分でも驚くほど弱かった。


 真白はしばらく黙っていた。


 店内には静かな音楽が流れている。


 窓の外では、夕方の光が少しずつ暗くなり始めていた。


「凛ちゃん」


 真白がゆっくり口を開く。


「“戻る”って、どこに?」


 凛は顔を上げた。


「え……?」


「前みたいに無理して頑張ってた頃?」


 その言葉に、凛は言葉を失う。


 前みたいに。


 ちゃんと笑って。

 ちゃんと合わせて。

 苦しくても平気なふりをして。


 確かに、以前の凛は“普通”に見えていたのかもしれない。


 でも。


 あの頃の自分は、ずっと苦しかった。


「……でも」


 凛は小さく言う。


「普通にできるようにならないと、生きていけない気がする」


 真白は静かに息を吐く。


「凛ちゃんにとって、“回復”って“元通りになること”なんだね」


 その言葉に、凛はハッとした。


 回復。


 その言葉を、凛はずっと勘違いしていたのかもしれない。


 前みたいに動けること。

 前みたいに我慢できること。

 前みたいに“普通”を演じられること。


 それを“治る”ことだと思っていた。


「でもさ」


 真白は穏やかな声で続ける。


「壊れる前に戻る必要、ある?」


 凛の胸が大きく揺れる。


 壊れる前。


 あの頃の自分。


 ちゃんとして見えていたけれど、本当はずっと限界だった。


「俺ね」


 真白はカウンターへ肘をつきながら言う。


「昔、“元の自分に戻らなきゃ”ってずっと思ってた」


 凛は静かに聞いていた。


「前みたいに働けるようにならなきゃ。前みたいに頑張れなきゃって」


 真白は少し苦笑する。


「でも、その“前の自分”が、そもそも無理してたんだよね」


 その言葉が、凛の中へゆっくり落ちていく。


 前の自分。


 ちゃんとできていた自分。


 でも本当は。


 苦しかった。

 疲れていた。

 ずっと、自分を削っていた。


「だから」


 真白は静かな声で言う。


「“元通り”を目指さなくなってから、少し楽になった」


 凛はぼんやり真白を見る。


「……そんなふうに考えたことなかった」


「普通、そうだと思う」


 真白は小さく笑った。


「みんな、“前みたいに戻らなきゃ”って思うから」


 凛はカップの中のミルクを見つめる。


 回復。


 元通り。


 その言葉に、ずっと縛られていた気がした。


 でももし。


 “無理していた自分”に戻らなくていいのだとしたら。


「……じゃあ」


 凛は恐る恐る聞く。


「どうしたらいいの」


 真白は少し考えるように黙った。


 それから穏やかに言う。


「今の自分が壊れない生き方、探すしかないんじゃないかな」


 その答えは、凛が思っていたよりずっと曖昧だった。


 でも同時に、少しだけ優しかった。


 正解を押しつけないから。


 “こうしなきゃ”と言わないから。


「壊れない生き方……」


 凛は小さく繰り返す。


 そんなこと、考えたこともなかった。


 今までは、“周りに合わせる”ことばかり考えていた。


 でも本当は。


 自分が壊れないことの方が、大事だったのかもしれない。


 その時、スマートフォンが震えた。


 母からのメッセージだった。


『大学どう?』


 その短い文字を見た瞬間、凛の胸が少し重くなる。


 前なら。


『大丈夫だよ』


 と返していた。


 心配させないように。


 ちゃんとしていると思われるように。


 でも今日は、指が止まった。


 凛はしばらく画面を見つめる。


 それからゆっくり打ち込んだ。


『今日は保健室いた』


 送信する瞬間、心臓が大きく鳴る。


 怖い。


 怒られるかもしれない。

 心配されるかもしれない。

 また“頑張れ”と言われるかもしれない。


 でも。


 隠したくなかった。


 送信。


 凛は小さく息を吐く。


 真白が静かに言う。


「ちゃんと本当のこと言えたね」


 その言葉に、凛の胸が少し熱くなる。


 本当のこと。


 苦しいこと。

 できないこと。

 無理なこと。


 それを少しずつ隠さなくなっている。


 まだ怖い。


 でも。


 “ちゃんとして見える自分”だけを守り続けるのは、もう限界だった。


 窓の外では、夜がゆっくり街へ降りてきていた。


 凛はその景色をぼんやり見つめながら思う。


 元通りには、戻れないのかもしれない。


 でも。


 壊れていた頃の自分へ戻る必要も、きっとないのだと思い始めていた。



『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。


この作品は、

「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。


世の中には、

頑張っても周囲に馴染めなかったり、

人より敏感に傷ついてしまったり、

誰かの期待に応えようとして、

自分を見失ってしまう人がいます。


けれど、

それは決して“弱さ”ではありません。


誰にも見えない場所で、

必死に息をして、

壊れそうになりながら今日を生きている。


それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。


凛が少しずつ、

自分の痛みに向き合い、

「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、

この物語が、

誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。


あなたの苦しさには、

ちゃんと理由があります。


そして、

その痛みを抱えたままでも、

人は誰かと出会い、

少しずつ生きていけるのだと、

この作品を通して伝えられていたら幸いです。


最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

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