第27ページ 泣いてしまったあとで
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
保健室には、静かな風の音が流れていた。
窓が少し開いている。
カーテンが揺れて、そのたびに柔らかい風が入ってきた。
凛は簡易ベッドへ座ったまま、ぼんやり床を見つめていた。
教室へ入れなかった。
みんなが普通にできていることを、自分はまたできなかった。
本来なら、そのことで頭がいっぱいになっていたはずだった。
情けない。
弱い。
また逃げた。
そうやって自分を責め続けていたと思う。
でも今は、不思議と少し違った。
苦しかった。
だから止まった。
その感覚が、凛の中に少しだけ残っている。
七海は隣の椅子に座り、スマートフォンをぼんやり触っていた。
無理に話しかけてこない。
でも帰らない。
その距離感がありがたかった。
「……ごめんね」
凛がまた小さく言うと、七海は苦笑した。
「凛ちゃん、今日それ何回目?」
凛は少し困った顔をする。
「でも」
「“でも”禁止」
七海は軽く言った。
「しんどい時に無理して倒れる方が困るし」
その言葉に、凛は静かに目を伏せる。
今までなら、“倒れる前に頑張る”ことが正しいと思っていた。
限界でも動く。
苦しくても耐える。
ちゃんとして見せる。
でも最近、それが本当に正しいのかわからなくなってきた。
養護教諭がカーテン越しに顔を覗かせる。
「少し横になる?」
凛は迷った。
保健室で横になるなんて、大袈裟な気がした。
でも身体は思った以上に疲れている。
「……はい」
小さく頷く。
ベッドへ横になると、天井が視界いっぱいに広がった。
白い天井。
静かな部屋。
教室のざわめきも、人の視線もない。
凛はゆっくり息を吐いた。
その瞬間。
急に涙が溢れそうになった。
「……っ」
凛は慌てて目元を押さえる。
泣くつもりなんてなかった。
でも身体から、張り詰めていたものが少しずつ抜けていく。
「凛ちゃん?」
七海の声。
「……ごめ」
「だから謝んなって」
七海は小さく笑った。
その声が優しくて、余計に涙が止まらなくなる。
凛は顔を覆った。
泣きたくなかった。
情けないと思った。
大学にもちゃんと行けなくて、その上泣くなんて。
でも涙は止まらない。
「……なんで泣いてるかわかんない」
凛は掠れた声で言った。
本当にわからなかった。
苦しいのか。
悔しいのか。
安心したのか。
感情がぐちゃぐちゃだった。
七海は少しだけ黙ったあと、小さく言う。
「安心したんじゃない?」
凛はゆっくり顔を上げた。
「安心……?」
「“無理”って言っても、終わらなかったから」
その言葉を聞いた瞬間、凛の胸が強く痛んだ。
終わらなかった。
本当に。
教室へ行けなかった。
保健室へ逃げた。
弱音を吐いた。
でも。
七海は離れていない。
誰も怒鳴らなかった。
世界は終わらなかった。
「……私」
凛は涙を拭いながら呟く。
「ずっと、“ちゃんとできない自分”は駄目だと思ってた」
七海は静かに聞いている。
「だから隠してた」
苦しくても。
限界でも。
平気なふりをして。
「でも最近、隠す方が苦しい」
その言葉は、凛の本音だった。
“普通”を演じることに、もう限界が来ている。
七海は小さく笑った。
「私も」
凛は少し驚く。
「え?」
「私も最近、元気キャラ疲れてきた」
七海はベッド横の椅子へ深く座り直す。
「なんかもう、“いつも明るい七海”やってるのしんどい」
その声は、いつもの軽い調子とは少し違った。
「でも急に暗くなったら、“どうしたの?”ってなるじゃん」
凛は静かに頷く。
人は、勝手に役割を決める。
優しい人。
明るい人。
真面目な人。
そして、その役割から外れると戸惑う。
「凛ちゃんもさ」
七海がぽつりと言う。
「“優しい子”やめるの怖いんでしょ」
凛は言葉に詰まった。
図星だった。
優しい子でいなければ。
空気を読める子でいなければ。
迷惑をかけない子でいなければ。
そうしないと、人が離れていく気がした。
「……うん」
小さく頷く。
「嫌われる気がする」
七海は少しだけ笑った。
「でも多分、凛ちゃんが壊れる方が嫌だよ」
その言葉を聞いた瞬間、凛の胸がじわりと熱くなる。
壊れる方が嫌。
そんなふうに言われたこと、ほとんどなかった。
今までは、「頑張れ」の方が多かった。
でも最近は違う。
真白も。
七海も。
灯も。
“無理しないで”と言ってくれる。
その優しさが、凛にはまだ少し怖い。
でも同時に、救われてもいた。
「……私ね」
凛は天井を見つめながら言う。
「最近、ちょっとだけ思う」
「何を?」
「“普通”になりたいんじゃなくて」
凛はゆっくり息を吐く。
「苦しくないまま、生きたかっただけなのかも」
七海はしばらく黙っていた。
それから、小さく頷く。
「それ、めっちゃわかる」
二人の間に静かな空気が流れる。
でも、その沈黙は苦しくなかった。
保健室の時計が、静かに秒針を刻んでいる。
凛はぼんやりその音を聞きながら思う。
今まで、“ちゃんとできること”ばかり考えていた。
でも本当は。
ちゃんと笑えなくても。
教室へ入れなくても。
途中で止まってしまっても。
壊れないことの方が、大事なのかもしれない。
涙は、もう止まっていた。
でも胸の奥には、まだ温かいものが残っている。
泣いたあと。
情けなさより先に、“少し楽になった”と思っている自分がいた。
それが凛には、少しだけ不思議だった。
七海が立ち上がる。
「私、次の授業だけ出てくる」
「うん」
「凛ちゃんは?」
凛は少し考えた。
前なら、“私も行く”と言っていたと思う。
無理をしてでも。
でも今は違う。
「……今日は、休む」
その言葉を口にする瞬間、まだ少し怖かった。
でも。
ちゃんと、自分で決めた。
七海は笑う。
「そっか」
それだけだった。
責めない。
無理に励まさない。
ただ受け止めてくれる。
そのことが、凛には泣きたくなるほど優しかった。
七海が保健室を出ていったあと、凛は再び天井を見つめる。
窓の外では、九月の風が静かに木を揺らしていた。
凛はゆっくり目を閉じる。
ちゃんとできなかった。
でも。
今日は、自分を置き去りにしなかった気がしていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




