第26ページ 戻るのが怖い朝
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
後期初日の朝だった。
目覚ましが鳴る前に、凛は目を覚ました。
カーテンの隙間から薄い朝の光が差し込んでいる。
九月。
夏の終わり。
でも、空気はまだ少し暑かった。
凛は天井を見つめたまま動けなかった。
今日から大学が始まる。
その事実だけで、胸の奥が重い。
久しぶりの教室。
久しぶりの人混み。
久しぶりの“普通の顔”。
考えるだけで息が浅くなる。
凛は布団を握りしめた。
行かなきゃ。
頭の中ではそう思う。
でも身体は強張ったままだった。
その時、スマートフォンが震えた。
七海だった。
『おはよー』
『今日会える!?』
凛は画面を見つめる。
七海はきっと、悪気なく送っている。
でもその明るさが、今の凛には少し眩しかった。
『……行けたら』
そう返す。
数秒後。
『無理しないでね』
その言葉に、凛は少しだけ息を吐いた。
最近、七海の言葉が少し変わった。
前ならきっと、「頑張ろ!」と言っていた。
でも今は、「無理しないで」が増えた。
たぶん七海自身も、“頑張り続ける苦しさ”を知っているからだ。
凛はゆっくり起き上がる。
洗面所へ向かい、鏡を見る。
少しやつれた顔。
でも前より、自分の表情を誤魔化していない気がした。
昔の凛なら、ここで無理やり笑顔を作っていた。
“ちゃんとしてる顔”を確認してから外へ出ていた。
でも今日は、そこまでできなかった。
いや。
“しなかった”。
凛はその違いに、小さく気づく。
部屋を出る。
駅までの道。
人の流れ。
スーツ姿の会社員。
大学生たち。
みんな当たり前みたいに歩いている。
凛はその中で、自分だけ呼吸がぎこちない気がした。
電車へ乗る。
混んでいた。
人の匂い。
会話。
スマホの音。
全部が一気に頭へ流れ込んでくる。
凛は吊り革を握りしめた。
怖い。
途中で降りたくなる。
でもここで降りたら、“また逃げる”気がした。
その瞬間、真白の言葉が浮かぶ。
――逃げることと、自分を守ることは違うよ。
凛はゆっくり息を吐いた。
自分を守る。
最近、その言葉を何度も考える。
今までの凛は、“頑張る”しか知らなかった。
でも、本当に限界の時は。
無理をしないことも必要なのかもしれない。
大学へ着く。
校門の前には、学生たちが集まっていた。
「久しぶりー!」
「焼けた?」
「夏休み秒だったんだけど!」
明るい声。
笑い声。
その空気に触れた瞬間、凛の胸がぎゅっと縮む。
みんな普通に戻ってきている。
自分だけ、取り残されている気がした。
凛は立ち止まる。
足が重い。
呼吸が浅い。
教室へ行かなきゃ。
でも。
怖い。
その時、後ろから声がした。
「凛ちゃん!」
七海だった。
いつもの明るい笑顔。
でも今日は、その目が少しだけ心配そうだった。
「おはよ」
「……おはよう」
「来れたじゃん」
七海は笑う。
凛は少しだけ苦笑した。
「ギリギリ」
「わかる」
二人でゆっくり歩き出す。
でも教室へ近づくにつれ、凛の呼吸がまた苦しくなる。
教室の前には人が集まっていた。
話し声。
笑い声。
視線。
その全部が怖い。
「……っ」
凛の足が止まる。
七海が振り返る。
「凛ちゃん?」
「……ごめん」
凛は俯いた。
「ちょっと、無理かも」
その言葉を口にした瞬間、胸が強く痛んだ。
またできない。
また普通に戻れない。
でも。
身体が、本当に動かなかった。
七海は少し驚いた顔をした。
でもすぐに、小さく頷く。
「そっか」
責める声じゃなかった。
「……ごめん」
「謝んなくていいって」
七海は静かな声で言う。
「今日無理なら、無理なんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、凛の目に涙が滲みそうになる。
無理なら、無理。
そんな当たり前のことを、自分は今まで許されなかった気がしていた。
「保健室とか行く?」
七海が聞く。
凛は少し迷った。
教室へ入れない自分が情けなかった。
でも今、無理して入ったら、本当に壊れそうだった。
「……うん」
小さく頷く。
七海は「行こ」と自然に歩き出した。
その背中を見ながら、凛は少し驚いていた。
無理して合わせなくても。
できないと言っても。
誰かが離れていくわけじゃない。
保健室は静かだった。
白いカーテン。
小さな扇風機の音。
養護教諭は優しい声で言った。
「疲れてたんだね」
その言葉だけで、凛は泣きそうになる。
疲れていた。
本当に。
ベッドへ座る。
七海が隣の椅子へ腰かけた。
「……ごめんね」
凛が言うと、七海は苦笑した。
「だからなんで謝るの」
「だって、一緒に教室行けなくて」
「別にいいよ」
七海はペットボトルを弄りながら続ける。
「私も、一人じゃ無理な日あるし」
凛は静かに顔を上げる。
「そういう時、無理すると余計しんどくなるじゃん」
その言葉は、真白にも少し似ていた。
無理し続けることが、一番危ない。
凛は窓の外を見る。
青い空。
大学の建物。
“普通”の世界。
そこへ入れない自分を、以前ならもっと激しく責めていただろう。
でも今は少し違う。
怖かった。
苦しかった。
だから止まった。
それは“逃げ”ではなく、“限界”だったのかもしれない。
「凛ちゃん」
七海がぽつりと言う。
「ちゃんと“無理”って言えたじゃん」
その瞬間、凛の胸が小さく揺れる。
無理。
その言葉を言うことは、凛にとってとても怖いことだった。
でも今日、自分はちゃんと言えた。
教室へ入れない。
苦しい。
無理。
それを隠さなかった。
凛は静かに目を伏せる。
まだ怖い。
まだ、自分が“普通”から外れていく感覚がある。
でも。
無理をして壊れるより。
少しずつ、自分を守れるようになりたかった。
保健室の静かな空気の中で、凛はゆっくり呼吸をした。
“ちゃんとできない朝”を、初めて一人で抱え込まずに済んだ気がしていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




