第22ページ 優しい子のままで
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
夜になっても、胸の奥がざわついていた。
母との電話のあとから、ずっと息が浅い。
凛はベッドに座ったまま、ぼんやりスマートフォンの画面を見つめていた。
真白との短いやり取りは、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれた。
でも、完全には消えない。
胸の中に、小さな棘みたいなものが残っている。
――休みすぎると戻れなくなるわよ。
美咲の声が、何度も頭の中で繰り返される。
それは心配だ。
愛情だ。
凛にはちゃんとわかっている。
でも。
どうしてこんなに苦しいんだろう。
凛はゆっくり目を閉じた。
最近、自分の中に少しずつ変化が生まれている。
今までは、「苦しい」と思っても、全部自分が悪いと思っていた。
ちゃんとできない自分。
頑張れない自分。
疲れてしまう自分。
全部、“弱いから”だと思っていた。
でも今は違う。
自分は、本当に無理をしていたのかもしれない。
そして、その無理を「当たり前」と言われ続けてきたのかもしれない。
その考えに辿り着くたび、胸がざわついた。
まるで、自分が悪い子になっていくみたいだった。
凛は小さく息を吐き、立ち上がった。
気づけばまた、『cafe 月灯り』へ向かっていた。
最近、この店だけが少し呼吸をしやすい。
店へ入ると、ベルが静かに鳴る。
「いらっしゃい」
真白はカウンターで本を読んでいた。
凛を見ると、少しだけ表情を和らげる。
「こんばんは」
「……こんばんは」
凛はカウンター席へ座った。
真白がアイスティーを置いてくれる。
「今日、顔しんどそう」
その言葉に、凛は少し苦笑した。
「最近ずっとそれ言われてる」
「最近ずっとしんどそうだから」
真白は淡々と言った。
凛はストローを指で弄る。
少し迷ってから、小さく口を開いた。
「……お母さんと電話した」
「うん」
「また、“みんな頑張ってる”って言われた」
真白は静かに聞いている。
「休みすぎると駄目になるって」
そこで言葉が止まる。
胸が苦しかった。
真白は少しだけ目を伏せる。
「凛ちゃんのお母さん、多分すごく怖いんだと思う」
凛は顔を上げた。
「怖い?」
「うん。社会から外れること」
その言葉に、凛は静かに息を止める。
真白は続けた。
「ちゃんとしてないと、生きていけないって思ってる人なんじゃないかな」
凛は何も言えなかった。
たぶん、その通りだった。
美咲はずっと、“普通”を信じて生きてきた。
頑張ること。
耐えること。
周囲に合わせること。
それが正しいと信じてきた。
だから娘にも、そうしてほしかった。
「……でも」
凛はぽつりと言う。
「苦しかった」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少し震えた。
今まで、母に対してそんな感情を認めたことがなかった。
母は悪くない。
母は頑張ってきた。
母は自分を愛してくれている。
だから苦しいなんて思ってはいけない気がしていた。
でも。
本当は、ずっと苦しかった。
「うん」
真白は静かに頷いた。
「苦しかったんだと思う」
否定されなかった。
そのことに、凛は少し戸惑う。
「……でも、お母さん悪くない」
「悪くないよ」
「じゃあ私が悪いのかな」
反射みたいに出た言葉だった。
真白は小さく息を吐く。
「凛ちゃん、“誰も悪くないなら自分が悪い”って考える癖あるよね」
凛は言葉を失った。
図星だった。
昔からそうだった。
誰かが怒っている時。
空気が悪い時。
誰かが傷ついている時。
原因がわからないなら、自分が悪い気がした。
「……だって」
凛は俯いた。
「お母さん、ちゃんと私のこと考えてるし」
「うん」
「だから苦しいって思うの、駄目な気がする」
真白は少し黙った。
それから静かな声で言う。
「愛情があることと、傷つかないことって別なんだよ」
凛の胸が小さく揺れる。
「親に悪気がなくても、苦しくなることはある」
その言葉に、凛は何も返せなかった。
今まで、そんなふうに考えたことがなかった。
愛されているなら、苦しんではいけないと思っていた。
でも本当は。
愛されていても、痛いものは痛かった。
「……私」
凛は小さく呟く。
「最近、変なんだ」
「変?」
「前まで、お母さんの言うこと全部正しいと思ってた」
真白は黙って聞いている。
「でも最近、“なんでこんなに頑張らなきゃいけないんだろ”って思っちゃう」
その瞬間、自分で自分に驚いた。
そんなこと、考えてはいけない気がした。
親の言葉を疑うなんて。
“普通”を疑うなんて。
凛にとって、それは小さな反抗だった。
「……怖い」
凛は掠れた声で言う。
「こんなこと思う自分」
真白は少しだけ笑った。
「それ、多分“怒り”だね」
凛は目を見開いた。
「怒り……?」
「うん」
真白は静かに頷く。
「凛ちゃん、今までずっと“自分が悪い”で飲み込んできたから、気づかなかっただけで」
怒り。
その言葉は、凛にとってひどく遠かった。
凛は怒るのが苦手だった。
嫌われる気がしたから。
空気を壊す気がしたから。
だから悲しくても、自分を責めて終わっていた。
「でも本当は」
真白が続ける。
「“なんでこんなに苦しいのに、まだ頑張らなきゃいけないの?”って思ってたんじゃない?」
その言葉を聞いた瞬間、凛の喉が熱くなる。
図星だった。
苦しかった。
限界だった。
助けてほしかった。
それなのに、「頑張れ」と言われ続けることが、ずっと痛かった。
「……怒ったら」
凛は震える声で聞く。
「嫌われる」
真白は少しだけ目を細めた。
「そう思って生きてきたんだね」
凛は静かに頷く。
優しい子でいなければ。
いい子でいなければ。
空気を乱さない子でいなければ。
そうしないと、誰もそばにいてくれない気がした。
「でも」
真白は穏やかに言う。
「怒りって、自分を守る感情でもあるよ」
凛は息を止めた。
自分を守る。
そんなふうに考えたことはなかった。
怒りは悪いものだと思っていた。
我慢できない人間の感情だと思っていた。
でも本当は。
“これ以上傷つきたくない”という叫びだったのかもしれない。
凛は静かに目を伏せる。
胸の奥が、少しだけ熱かった。
それは悲しさとも違う。
苦しさとも少し違う。
今まで押し込めてきた感情が、ようやく小さく息をし始めたような感覚だった。
「……私」
凛はぽつりと言う。
「優しい子のままでいたかった」
真白は静かに頷く。
「うん」
「でも最近、ちゃんと苦しいって思う」
その声は小さかった。
でも確かだった。
真白は穏やかに笑う。
「それ、悪いことじゃないよ」
店内には静かな音楽が流れていた。
凛はアイスティーの氷をぼんやり見つめる。
優しい子でいること。
我慢すること。
頑張ること。
それだけで生きてきた自分が、少しずつ変わろうとしている。
怖い。
でも。
もう、自分を傷つけ続けるだけでは、生きていけない気がしていた。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




