第2ページ 笑顔の練習
「どうして私は、みんなみたいに生きられないんだろう」
誰かの何気ない一言で深く傷ついてしまう。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがわからなくなる。
ちゃんと笑っているのに、なぜか苦しい。
そんな“生きづらさ”を、
「甘え」や「弱さ」だと思い込んでしまう人がいる。
この物語は、
“普通”になれなかった人たちの物語です。
誰にも言えない孤独。
理解されない苦しさ。
消えたいわけじゃないのに、
この世界にうまく馴染めない感覚。
主人公・朝比奈凛は、
そんな痛みを抱えながら生きています。
けれど、
生きづらさには、理由があります。
そして、
名前のつかない痛みにも、
いつか誰かが寄り添ってくれる日が来るかもしれません。
この物語が、
今苦しんでいる誰かの心に、
小さな灯りとして残りますように。
東京の朝は、思っていたより静かだった。
凛が住むことになったアパートは、駅から十五分ほど歩いた古い建物の二階にあった。白い外壁はところどころ汚れ、階段は少し軋む。けれど家賃を考えれば十分すぎる部屋だと、美咲は何度も言っていた。
六畳一間。
小さなキッチン。
薄いカーテン。
まだ荷解きの終わっていない段ボール。
凛は慣れない天井を見上げながら、浅い眠りから目を覚ました。
スマートフォンを見る。
午前六時十二分。
大学の入学ガイダンスは十時からだった。
なのに胸が落ち着かなくて、それ以上眠れそうになかった。
布団から起き上がると、部屋の空気は少し冷えていた。カーテンを開けると、春の淡い光が差し込む。見知らぬ街。見知らぬ道路。知らない人たち。
凛は一人になったのだと、改めて実感した。
洗面台の鏡に映る自分は、どこか頼りなかった。髪を整えながら、凛は何度も口角を上げてみる。
笑顔。
自然な笑顔。
怖がっていないように見える顔。
「……変じゃないかな」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
大学ではちゃんとしなければならない。
暗そう。
話しかけづらい。
感じ悪い。
そんなふうに思われたら終わりだ。
凛は何度も深呼吸をしてから、クローゼットに掛けていた薄いベージュのワンピースを選んだ。高校までの制服と違い、自分で服を選ぶという行為は、凛にとって小さな試験のようだった。
地味すぎても駄目。
派手すぎても浮く。
頑張りすぎても痛い。
でも、手を抜けば「ダサい」と思われる。
その境界線が、凛にはいつもわからなかった。
アパートを出ると、春の風が頬を撫でた。駅へ向かう人の流れに混ざりながら歩く。みんな迷いなく前を向いている。凛だけが、世界に馴染めないまま歩いている気がした。
電車の中では、同じ大学らしい学生たちが楽しそうに話していた。
「サークルどうする?」
「もう友達できた?」
「インスタ交換しよー」
凛は視線を落とした。
その会話に入っていける人間と、自分は違う。
まだ何も始まっていないのに、すでに置いていかれている感覚があった。
大学へ着くと、人で溢れていた。
キャンパスの桜は満開だった。写真を撮る新入生たち。笑い声。眩しいほど明るい空気。
凛は受付を済ませ、資料を抱えながら講堂へ向かった。
席はほとんど埋まっていた。
どこに座ればいいのかわからない。
一人で座っても不自然じゃない場所。
でも孤立して見えない場所。
そんな都合のいい席を探して視線を泳がせていると、突然、後ろから声がした。
「ね、そこ空いてる?」
振り返ると、茶色い髪を肩まで巻いた女の子が立っていた。
大きな目。明るい笑顔。柔らかい雰囲気。
「あ……うん」
「よかったー! 人多すぎて焦った」
彼女は隣に座ると、にこっと笑った。
「私、矢野七海。文学部?」
「……朝比奈凛。うん、文学部」
「やった、同じだ!」
七海は人懐っこく話しかけてきた。
「一人暮らし?」
「うん」
「わかる、めっちゃ不安じゃない? 私も昨日ほぼ寝れてない」
その言葉に、凛は少しだけ安心した。
この人も不安なんだ。
ちゃんと笑っている人でも、緊張することはあるんだ。
「凛ちゃん、静かな感じだね」
七海が笑いながら言う。
凛の肩が一瞬だけ強張った。
静か。
その言葉は、ときどき「暗い」の代わりに使われる。
「あ、ごめん! 嫌な意味じゃなくて!」
七海は慌てたように手を振った。
「私、一人で喋りすぎちゃうタイプだからさ。静かな子いると安心するんだよね」
凛は曖昧に笑った。
安心する。
そんなふうに言われたのは初めてだった。
ガイダンスが始まっても、凛は内容がほとんど頭に入ってこなかった。周囲の笑い声や小さな会話が気になってしまう。
前の席の女子たちは、もう連絡先を交換していた。
後ろの男子たちは、サークルの話で盛り上がっている。
みんな順調に「大学生」になっていく。
凛だけが、その流れにうまく乗れない。
休憩時間になると、七海がスマートフォンを差し出した。
「連絡先交換しよ!」
「あ……うん」
凛は慌ててスマホを取り出した。
交換画面を開きながら、少しだけ焦る。
SNSのアカウントがほとんど動いていない。投稿も少ない。フォロワーも少ない。
変に思われないだろうか。
「凛ちゃん、SNSあんまやらないタイプ?」
七海が聞いた。
凛の胸がざわつく。
「……見るのは見るけど」
「わかるー! 私も見る専門多い!」
七海は自然に笑った。
責めるような響きはなかった。
それだけなのに、凛は少しだけ救われた気持ちになった。
昼休み。
学食は人でいっぱいだった。
七海が「一緒食べよ」と言ってくれたおかげで、凛は一人にならずに済んだ。
周囲では、すでにグループができ始めている。
その光景を見ているだけで、凛は胃の奥が重くなった。
「凛ちゃんってさ」
七海がオムライスを食べながら言う。
「なんか、人の顔めっちゃ見るよね」
「え」
「いや、悪い意味じゃなくて! ちゃんと相手の反応見ながら話す人だなーって」
凛は言葉に詰まった。
見てしまうのだ。
相手が嫌そうじゃないか。
退屈していないか。
怒っていないか。
自分が変なことを言っていないか。
その確認を、凛は無意識にしてしまう。
「私、結構適当に喋っちゃうから羨ましい」
七海は笑った。
けれど凛は、自分のその癖を羨ましいと思ったことは一度もなかった。
むしろ苦しかった。
人の感情ばかり気にして、自分の気持ちがどんどんわからなくなる。
誰かと話したあと、帰宅してから何時間も「あの言い方変じゃなかったかな」と考えてしまう。
疲れる。
でもやめられない。
大学からの帰り道、七海と駅まで一緒に歩いた。
「ね、今度一緒にカフェ行かない?」
「カフェ?」
「そう! 駅前に可愛いとこあったんだよね」
「……うん」
「やった!」
七海は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、凛は少しだけ安心する。
今日の自分は、嫌われなかった。
たぶん、大丈夫だった。
アパートへ戻る頃には、空は薄暗くなっていた。
部屋に入った瞬間、凛は大きく息を吐いた。
疲れた。
身体より先に、心が疲れていた。
誰かと話すたびに、頭の中では何十通りもの会話が同時に流れている。
今の返事は正解だったか。
笑うタイミングは変じゃなかったか。
相手を不快にさせなかったか。
考えすぎだとわかっていても、止まらない。
凛はベッドに座り込み、スマートフォンを開いた。
七海からメッセージが届いている。
『今日はありがとう! また話そ!』
その短い文章に、凛は少しだけ胸を撫で下ろした。
嫌われてはいない。
ちゃんと普通にできた。
そう思った瞬間、涙が出そうになった。
どうして私は、「普通に会話できた」だけでこんなに安心しているんだろう。
普通の人は、こんなことで疲れたりしないのだろうか。
凛はスマートフォンを握りしめたまま、天井を見上げた。
静かな部屋。
遠くで走る電車の音。
冷蔵庫の小さな機械音。
東京には人が溢れているのに、自分だけ切り離されているような孤独があった。
けれどその夜、凛はほんの少しだけ思った。
もしかしたら。
本当に少しだけなら。
ここでなら、自分を変えられるかもしれない、と。
まだ、その希望がどれほど脆いものなのかも知らないまま。
『生きづらさに、名前をつけるなら』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、
「普通に生きること」が苦しい人たちへ向けて書いた物語です。
世の中には、
頑張っても周囲に馴染めなかったり、
人より敏感に傷ついてしまったり、
誰かの期待に応えようとして、
自分を見失ってしまう人がいます。
けれど、
それは決して“弱さ”ではありません。
誰にも見えない場所で、
必死に息をして、
壊れそうになりながら今日を生きている。
それだけで、本当は十分すごいことなのだと思います。
凛が少しずつ、
自分の痛みに向き合い、
「普通」ではなく「自分」として生きようとしたように、
この物語が、
誰かが自分を否定しすぎないためのきっかけになれたなら嬉しいです。
あなたの苦しさには、
ちゃんと理由があります。
そして、
その痛みを抱えたままでも、
人は誰かと出会い、
少しずつ生きていけるのだと、
この作品を通して伝えられていたら幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




